夜桜で花見

 バイトで1日を終える一樹の週末は淡々と過ぎていく。

 日曜日、午後3時。人の流れが緩やかになるこの時間はキッチンスタッフもホールスタッフも心持ち穏やかになる。

「へぇ、栄養士かぁ」

 眞琴は体をホールに向けたまま、一樹の声を聞く為にキッチンの方に耳をそばだてていた。

「そう、俺、料理好きだけど、ただ作るんじゃなくて栄養の事とか一人一人に合った食事を考えたりしたいなって」

 一樹はコンロに飛び散る油はねを拭きながら言った。

「すごく良いと思う。佐野、似合うよ」

「本当!?嬉しい」

 眞琴は心からそう感じていた。自ずから店長にメニューを考案する姿は調理師の様に感じられたが、栄養を考え、その人に合った料理を作りたいと言う一樹の熱い思いは栄養士であるべきだと思わざる終えない。

「栄養士って専門?大学?」

「どっちもあるけど…そこ悩み中」

 一樹は苦笑する。費用の面では圧倒的に専門学校の方が負担が少ない。しかし、より深い学びを求めるならば大学。今の一樹の心では天秤にかけると同じくらいの重みらしい。

「臼井さんは何で専門学校にしたの?」

 看護資格を取るにも三年生の専門学校と四年生の大学、どちらもある事を一樹は知っていた。

「私は早く現場に出た方が良いかなって思ったの。大学で学ぶ1年間と現場で学ぶ1年間ってだいぶ違うと思うのね。私は現場で学ぶ1年間の方が自分にとって大切だと思った」

 なんか面接みたい、と眞琴は照れた様に笑う。

「臼井さん凄いよ…」

 一樹はコンロを拭く手を止め、真琴の話に聞き入った。

「本当なんか、尊敬する。臼井さんと話すと俺も頑張らなきゃって思える」

「何?急に…嬉しいけどさ」

 眞琴は恥ずかしそうな素振りで一樹にチラッと目配せる。どんな混雑時でもクールな彼女のてんやわんやした姿はとても珍しい。

 

 ふと、入店を知らせるチャイムが鳴った。一瞬にして、眞琴は表情を切り替え、

「いらっしゃいませ」と駆けていく。一樹もキッチンからホールに目を向け、客の数を確かめた。二人の女の子であった。

 眞琴の友人なのだろうか、親しげに話をしている。

 案内を終えた眞琴が戻ってくると、一樹は聞いた。

「友達?」

 眞琴は首を横に振った。

「うーん、友人ではないかな…同じ高校の後輩だけど」

 と苦笑する。

「へぇ」

 一樹の目には眞琴を見上げる女の子達の眼差しが恋する乙女の様に見えた。

「臼井さんのこと好きそうだね」

 何気なしに言うと、眞琴は首をかきながら苦笑する。

 眞琴の表情を見る限り、あまり喜ばしく感じていない様だった。

 注文を知らせるチャイムが鳴る。眞琴は表情を切り替えた。

「はーい」

 と眞琴のすらりとした肢体が駆けていく。



 ***



 休日明け、気怠さの漂う教室で一樹は悠真の姿を見つけた。

「悠真、おはよう」

「ああ一樹、おはよう」

 二人は以前と変わりない挨拶を交わした。だからといってあの日の告白を無かったことにしたわけではなく、互いに一つの大切な思い出として心に収めているのだ。

「あとで俺の進路の話聞いてよ」

 人懐っこい笑みを浮かべて言う一樹に、悠真は良い知らせを予感した。

 悠真は凛々しい眉を持ち上げ

「おう、昼な!」と歯に噛んでみせた。


「栄養士?良いじゃん!」

 昼食時、さっそく一樹は悠真に進路の話を持ちかけた。栄養士を目指す経緯を聞いた悠真は納得した面持ちである。

「あれ、栄養士って専門?大学?」

「どっちもあるんだけど」

 はぁ、と一樹は深いため息をついた。悠真は悩み中なのだと察した。

「費用の面は気にしなくて良いって言われてるんだろう?」

「うん…まぁ」

 そう分かっていながらも遠慮してしまうのが一樹の性分である。

 悠真はそこを何とか一歩踏み出して欲しいと思っていた。それは恐らく、郁子や晶も願っている事であろう。

 そこで悠真は助言した。

「みかりんに相談してみたら?」

 みかりんとは、一樹と悠真の担任教師且つ進路相談担当である藤堂美嘉とうどうみかのことだ。

「うん、そうしてみる…」

 一樹は悩ましげに頷いた。


 放課後、唐突ではあったものの、美嘉は時間を確保してくれた。美嘉としては、もとより就職一本の一樹が突然に進学を希望するのだから話を聞かなければならないと思ったのだ。

 一樹は美嘉が担当する英語の準備室に顔を出した。そこで美嘉は控えていた。

「突然、進学と聞いたので、びっくりしました」

 黒縁メガネの先で黒い瞳が大きく見開いた。

「まぁ、色々ありまして…」

 一樹はふわりとした髪を撫でながら言う。一樹の一言で美嘉はおおよその事を察した。

「それで目指す大学や専門は決まっていますか?」

「そこは悩み中なんですけど、栄養士になりたいって夢ができました」

「栄養士…!」

 照れながら言う一樹に美嘉はまたも瞳を大きく見開いた。まさか、栄養士になりたいとは一ミリも予想していなかった為、驚いた様子である。

 しかし、一樹のこれまでの成績表を見る限り、家庭科の成績は常に良く、予兆はあったのかもしれない。

 ただ、ひとつだけ美嘉は不安を感じた。進路担当になってから初めて経験した事があった。

「ごめんなさいね」と一つ詫びて美嘉は言った。

「男子生徒で栄養士になりたいって夢、聞いたの佐野さんが初めて」

「そうなんですか!?」

 美嘉は、はい、とショートヘアの髪を揺らす。今年も栄養士を夢見る生徒が数人いるのだが、その全員が女子生徒であった。

 特に性別関係ない職種ではあるものの男性の比率が低いのは確かだ。しかし、だからといって夢を諦める必要もない。

 美嘉は一樹の瞳を見る限り、折れることのない夢だとみた。

「現在、栄養士や管理栄養士になりたいという生徒が3人います。そして、みなさん大学進学を希望しています」

「そうなんですね…!」

 やはりより深い学びを得られる大学へ進学を目指す事が無難であった。しかし、一樹の苦悩は晴れなかった。費用面は友人や母、晶からの後押しで憂いが晴れたものの一樹にはもう一つだけ不安要素があった。

 美嘉は悩ましげに眉を下げる一樹に言った。

「先生一個人の考えですから参考程度にしてください。佐野さんは授業をよく理解していますし、今から受験勉強をしても十分に間に合うかと思われます」

「本当ですか…?」

 一樹は美嘉の言葉に救われた気がした。美嘉は一樹が不安に感じていた事を長年の経験から察していたのだ。

「はい。ですので、大学進学も前向きに考えてみてください」

「はい…!」

 一樹は俄然、やる気が漲るのを感じた。誰かに勉強面で抱いた不安を晴らしてほしいと願っていた。それは友人や親ではなく、実際に一樹の学習能力をはかる教師でなければならなかったのだ。

 さらに藤堂美嘉ともなれば嘘偽りはない。彼女は生徒達に対して常に真っ直ぐと素直な姿勢で接してくれる。

「みかりんの言葉は信じられる!」

「そうですか?」

 美嘉は一樹のあまりにも真っ直ぐな眼差しに控えめに苦笑する。

「みかりん、俺たち生徒に嘘つかないもん。あの時、彼氏の話題振られた時も、みかりんかっこよかった」

「あら、私はありのまま真実を言っただけですよ」

 ――彼氏はいませんが、大切なパートナーはいます。

 その一言でざわめいていた生徒の声が止んだのだ。果たして美嘉の言葉にどの様な真実が込められているのかは分からない。しかし、一樹は美嘉の言葉に感動した。自分の恋愛観を肯定してくれる存在が近くにある事が堪らなかったのだ。

「みかりん、ありがとうございました!俺、もう決めました!進路希望書、自信持って書けます!」

「それは良かったです」

 美嘉は一樹のやる気に満ちた輝かしい瞳に綻んだ。

「じゃぁ、失礼しました!」

 一樹は感謝を示す為、直角に頭を下げた。美嘉も健闘を祈る様にお辞儀をした。



 ***



「おじさーん!ただいまー!」

 台所で炊飯の支度をしていた晶は突然に背後が声をかけられ、振り返った。

「おかえり、一樹」

「ただいま!」

 パッと笑顔を弾ける一樹。晶は何か喜ばしい事があったのだな、と自然に自身の頬も緩む。

「俺!進路決めた!栄養士になる為に大学目指す!」

 帰宅して早々、一樹はすぐにでも伝えたかったらしい。晶は初めこそ驚いた様に目を丸めたが

「栄養士があったか」と感心した。

「うん、一樹なら絶対になれる。がんばれ」

「おじさんがそう言ってくれると、俺、がんばれる」

 友人や教師、さらに想い人から励ましの言葉を貰い、一樹の心は温かく満たされた。

「実はさ全部、おじさんのおかげなんだ」

 晶は言葉の続きを求む様に首を傾げた。

「俺がおじさん家でご飯作る様になった時ぐらいにおじさん熱出しちゃって寝込んじゃった日があったでしょ」

 晶はその日のことを曖昧に覚えていた。なんせひどい頭痛と吐き気に侵された為記憶が途切れ途切れなのだ。

「確かあの時、連載小説の数が多くて徹夜続きの日々に身体が堪えたんだな…」

「そう、それで俺、何とかおじさんの助けになりたくって、せめてもの思いでさ、鍋を作ったんだ。そしたらおじさん、美味しく食べてくれたんだけど、戻しちゃったんだよね」

 一樹は過去の行いを恥じる様に苦笑した。

 当時、小学四年生だった一樹は土鍋に火をかけ、白菜、ネギ、きのこ、豚肉、さらにより多くの栄養を、と餅も含め、床に臥す晶に提供した。

 自分の為に作ってくれた鍋を残すわけにはいかないと晶は無理を強いて食した。案の定、戻してしまったのだが。

「帰ってきた母ちゃん、凄い動揺してて」

 一樹は朗らかに笑いながら言う。晶もつられて頬を緩めた。

 ――こんなてんこ盛り食べれるわけないでしょ!

 郁子は晶の背中を摩りながら、傍で泣きべそをかく一樹に叱責した。一樹は怒られたから泣いたわけではなく、突然嘔吐した晶の姿を目の当たりにし、死んでしまうのではないか、と恐怖を感じたのだ。

「だからあれ以来、栄養だけじゃなくてその人の体の状態も考慮して料理は作らないといけないんだなって教訓になった」

 一樹にとってトラウマでもある記憶だが、一層と料理の深みを知れた経験でもあった。

「いつも俺を導いてくれるのはおじさんなんだよ」

 一樹は感謝を込めてにっこりと笑った。晶はハッと目を見開いた。心臓の音が煩く鳴る。

「頑張れ、一樹」

「わぁ」

 晶は一樹のブラウンのくるりとした髪を撫でた。一樹は嬉しそうに上目遣いに赤らめた顔を見つめる。


「ねぇー!夜桜!お花見しよう!」

 甲高い郁子の声が縁側から家全体に響いた。

 帰宅して早々、冷蔵庫から缶ビールを取り出したかと思えば、足早に縁側へと向かい、庭にある一本の桜の木を見上げた。

「もう散ってるだろ」

 晶は郁子の傍から庭を覗く。

「まだいけるって!ほら、名残惜しく!てか、あっくん片手に缶ビール!花見する気満々じゃん!」

 月の光で瞬く数少ない桃色の花びらを慈しもうとする郁子に、もとより晶は付き合うつもりであった。

「母ちゃん達先にずるーい!」

「あっ一樹ぃ、おつまみありがとう」

 ぷっくりと頬を膨らませる一樹。郁子はご機嫌な様子で小鉢に手をかけた。

「春菊の胡麻和え美味しい〜」

 郁子はほろりと微笑む。そんな郁子に晶は

「忙しないな」と苦笑する。すると一樹が

「来年もみんなで花見出来るかな」

 桜の木を眺めながら言う。晶も一口、ビールを飲んでから、

「ああ」と来年もこの光景を目にする事を夢見て、頷いた。





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