春の兆し

 日本海の眩い水面の煌めきに見鷹中尉殿みたかちゅういどのの瞳はこれまで目にした事がない程に澄んでおられました。

 再び日本の地に足をついた喜びがその瞳に現れていたのです。

「私は、ただ見鷹中尉殿と最期の時まで共に生きたいのです」

 私がそう告げますと見鷹中尉殿は鼻で笑われました。その笑いは以前と変わりない威厳を帯びたものでした。

「私の命はまだ尽きんぞ。長い付き合いになるだろうな」

 見鷹中尉殿は目尻に皺を寄せ、微笑まれました。

「光栄であります」

 私は見鷹中尉殿の背中をいつまでも眺め続けました——。



 カタカタとリズミカルに跳ねるキーボードの音が止んだ。一つの物語が終わりを迎えたというのに、晶の心は晴れ晴れとしていた。

 こうした心情の変化に自然と笑みが溢れる。

 ふと、玄関口の引き戸の音が響いた。

「おじさん、ただいまー!」

 ドタドタと駆けてくる足音に晶はパソコンの画面を開いたまま立ち上がった。

「一樹、おかえり」

 振り返ると、愛おしい存在がそこにいた。

「ただいま!おじさん!」

 一樹のほんのり赤みを帯びた瞳に晶は微笑む。3年間の高校生活は一夏の思い出の如く、心に残る眩いものであったのだと感じられた。

 すると、一樹は晶の目の前に黒い筒を差し出した。

「みてみて、卒業証書貰ったよ!」

 じゃーん、と中身を広げて見せた。

「卒業、おめでとう」

 言葉にした途端、目頭が熱くなり、思わず顔を晒した。

「あれ〜?おじさん、泣いてる?」

「…少しな」

「ふふ、素直」

 顔を覗き込む一樹のふわりとした髪を晶は撫でた。荒くも優しさのある撫で方だ。

 わぁ、と目を瞑る一樹は内心嬉しそうである。

「本当に変わったやつだな。卒業式だってのに、同級生達と打ち上げしなくて良いのか?」

 晶が呆れたように言うと一樹は髪を整えながら、

「これから行くよ。でも、お昼はおじさんと食べたいの」

 とお茶目げに片目を瞑った。

 やれやれ、と眉を下げる晶だが一樹は知っていた。

「まだ、何も食べてないんでしょ?」

 晶は図星をつかれた、とばつの悪そうな顔をした。午前中から執筆活動に励んでいた為、空腹を忘れるほどの境地まで達していた。

「ほら、やっぱり」

 してやったりな顔をする一樹。晶は苦笑しながら、

「敵わんな」と一言洩らした。


 香ばしい醤油と黒胡椒の香りを嗅ぐと空腹であったはずの腹が活発に鳴り始める。

 晶と一樹は手を合わせ、

「いただきまーす」と声を上げた。

 双方とも、よほど空腹だったのか、言葉を交わす事なく、黙々と口に飯を運んでいた。

 そんなこんなで、あっという間に炒飯を平らげてしまった。

 ふと、口を開いたのは一樹であった。

「明日ぐらいから荷物、運んじゃおうと思うんだけど」

 一樹がそう言うと晶は忽ち、自身がおおよそ一年前に口にした約束を実感した。

 ——進路を明確にし、その道に進め。

 人の為ではなく、自分の為に進路選択をするように提案した約束だったが、いつの間にか、自身も一樹と暮らす事を望むようになっていた。

「ああ、部屋もだいぶ片したから大丈夫だぞ」

 こうして少しずつ一樹を迎え入れる準備も進めていた。

 一樹はにっこりと笑った。

「それとさ!新しいベッド買いに行こうよ!2人で寝れる様に…クイーンサイズ!」

 なぜダブルではなくクイーン、と首を傾げる晶に、

「俺、寝相悪いからさ」

 と一樹は口を尖らせる。

 晶は同棲と交際を認めたものの同じベッドで寝る事には大きな責任を感じた。その為、脳裏に郁子が浮かぶ。

「それは、郁子の許可を貰ったらな」

「えー」

 一樹は不貞腐れた様に頬を膨らませた。



 ***



「じゃぁ、行ってくるね!」

 靴を履き終えると、一樹は晶の方を振り返った。

「ああ、気をつけてな」

「うん!」

 どうやら打ち上げ会場は焼肉屋らしい。食べ盛りの子達が食べ放題でどれほど食すか。晶は想像すると苦笑してしまった。

 ふと、一樹は晶の腕を掴んだ。

「いってらっしゃいのチューは?」

 ぐっと顔を近づけ、キスを迫る一樹。晶は少しためらうが、軽く触れるだけのキスをした。

 一樹は満足げに歯に噛んだ。

「行って来まーす!」

 そう言って一樹は家を出た。


 晶は温かな陽光が差す、庭に足を運んだ。桜の木には蕾がつき、もう少しで満開に咲き誇りそうだ。

 花壇に目を落とすと、チューリップの厚みある葉が芽を出している。

「もう春だな…」

 晶は空を仰いだ。

 一樹は無事に受験を終え、4月から大学生になる。同時に同棲生活が始まる。一樹との関係が大きく変化することはないだろう。しかし、共に暮らすとなるとこれまで見えなかった点が気になり、それが衝突の原因になるかもしれない。

 だが不思議と、そうしたアクシデントでさえ、愛おしく感じられる気がした。

「一緒に台所に立てるくらいには…」

 一樹と肩を並べ、料理をする。

 晶は早春の空に約束した。



〈了〉


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恋に臆病なオジサンの落とし方 今衣 舞衣子 @imaimai_ko

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