あざとい

「だいたいお前の言い方も誤解が生じる」

 晶は健と一樹のやりとりを回想しながら、コーヒーを啜った。向かいに座る健は生クリームを口に含み、ほろりと頬を緩ませてから

「え?」と首を傾げる。

「間違いではないと思いますよ」

 屈託ない笑顔で言うものだから、晶は責めようがないと言った調子で口をつぐんだ。

 確かに、健に寄せる信頼感もその証となる。

「まぁ、うむ…」晶は押し黙る。

「それよりこれ美味しい」

 健は水々しい白桃に生クリームを添えて口に含んだ。程よい酸味の効いた桃と濃厚なクリームの味わいに一層と目尻が垂れ下がる。

 そんな健の顔を見ているとごくりと唾を飲み込んでしまうだろう。晶はコーヒーを一口啜る。すると、健が晶の胸中を察した様に

「先生も食べますか?」と小首をかしげる。

「いや、いいよ」

 晶は遠慮した。健が美味しそうに食べるその姿を見るだけで満足だと思ったのだ。

 健は媚びるように眉を下げた。

「えー食べてくださいよ!見てください。この白桃。たっぷりと果汁を含んだ艶やかさとふっくらさ。これにミルクの味わい濃厚クリームをふんだんにつけて…ほら!お口に含むと、もう甘味の暴力ですよ。痛みのない境地を超えた暴力です」

 そう熱弁する姿に晶は心底、グルメライターになってしまえと思うのであった。不思議と食べたい様な気さえしてきた。

 堪らず、晶は

「一口、頂こう」と恥ずかしそうに言う。

「はい!どうぞ」

 健は嬉しそうにスプーンを差し出す。それは健が用いたスプーンであった。ふと、晶の脳裏に一樹の頬を膨らませた顔が過る。

(偶然この瞬間を一樹が目にしたら、悲しむよな…)

「別のスプーンを使うよ」

 そう言って晶は新しいスプーンを手に取った。

 健は一瞬目を丸くした。しかし、すぐに微笑する。

「一樹くんを想って?」

 晶は健から視線を逸らし、白桃を口に含んだ。桃色に染まる頬に晶自身は気づいているのだろうか。それに気づいている健は柔らかに目を細めた。ふと、何か物凄い圧を感じる視線に気がついた。

「一樹くん、なんか犬みたいで可愛いですね」

 ほら見てよ、と健は指をさす。晶はその指先に従って目を向けると、バックヤードから一樹が何とも恨めしそうな顔で2人を見ていた。

 それを見て健は笑った。

「ご主人をとられた犬みたいだ」

 まさにその通りで、何故だか晶は恥ずかしくなり、俯いた。



 ***



「佐野、ありがとう」

 バックヤードに戻ってきた一樹に眞琴は顔を赤らめたまま言った。一方で一樹は、全然、と顔はホールに向けたまま、手を振る。一樹の視線は6番席に釘付けだ。


 その姿に眞琴は首を傾げた。

「随分と話し込んでたみたいだけど…?」

 何とも思っていない様な素振りで聞いた。しかし、胸中では、どんな会話をしたのか、探りたい気持ちで溢れている。

 一樹は眞琴の方を振り向き、近くに来てというように手招きした。眞琴はぐっと一樹に距離を詰める。

「あの和服の人…」

「うん」

 小声で言う一樹に眞琴は頷く。一樹は躊躇いながら言った。

「あの人が俺の好きな人…」

「えっ…」

 眞琴は衝撃のあまり上手く声が出なかった。

 途端にあの日の夜、一樹から打ち明けられた事が頭を過ぎる。

 ―― 小さい時からお世話になってる40代のおじさんなんだけど…俺の初恋

 ――俺のおじさんは顔が綺麗で渋くて!でも不器用で心配性で可愛いし本当にかっこいいの!

 眞琴を浮かれた心に針が刺す痛みを感じ、胸をそっとおさえた。

 あの灼熱の太陽が照りつく日と同じように倒れてしまいそうな気さえした。



 ***



 ロッカーのバタンっと閉まる音が妙に痛く刺さる。

「じゃぁ、臼井さんお疲れ様」

 一樹は変わらずであった。それもそうだ。眞琴が密かに想いを寄せる相手が晶だと言うことを知らないのだから。


「うん、お疲れ」

 眞琴も平然を装って微笑んだ。柔なその笑みは僅かに憂いげな雰囲気が漂っている。

 一樹は不思議そうに首を傾げた。

「…帰らないの?」

「あっ、もう少ししたら帰るよ」

 先帰って大丈夫、と微笑する。

「…そっかぁ」

 一樹は何か考えるように俯いた。眞琴は今回ばかりは胸中を察して欲しくないと思った。

 気の利いた一樹ならば、きっと

 ――何かあった?

 と聞いてくる。ただ、今はそっとしてほしい。

 一樹は顔を上げた。無邪気な笑みを添えて

「じゃぁ、またね!」と事務所を出た。


 一樹が帰った後、1人になった眞琴は額を机に押し当てた。はぁ、と深いため息をつくと、自然と涙が溢れる。

(私、恋してるんだ)

 うるさい蝉の音が気にならなくなる程に心奪われた落ち着いた声色。瞼を持ち上げた時、あまりの綺麗な顔立ちに瞬きを忘れたあの瞬間。

 思い出すだけで、心根からふわりと温かな感情が沸いてくる。

 それは眞琴にとって初めての感情だった。

(男の人を好きになるんだ)

 これまで、自分の性に疑問を抱いていた為か、誰かを好きになる事に臆病になり、その思いに知らないふりをしていた。

 しかし、何かきっかけがあって自分の心に耳を傾けることが出来た。素直に受け止めることが出来たのだ。

 眞琴はそのきっかけが、一樹の言葉であると思った。

 ―― どちらかで生きる必要なんてないよ!

 ――それが臼井さんっていう素敵な存在なんだからさ


 眞琴は顔を上げ、涙を拭った。

「佐野のことは嫌いになれないよ」

 押しころす様な泣き声でそう呟いた。



 ***



 自宅への帰路。

 一樹は晶の家の前で足を止めた。

「あの人、まだ一緒にいるのかな…」

 健の存在が気になって仕方がない様だ。

 一樹は思い倦ねて、玄関前で突っ伏した。このまま家に帰ったとて勉強には集中出来ない気がしたのだ。


 一樹は決心してインターホンを押した。するとすぐに

「一樹…?」声が聞こえてくる。

 玄関が開くと晶の驚いた顔が覗く。

「あの人…帰ったの」

 一樹は伏し目がちに聞いた。健の事だとすぐに理解した晶は

「ああ、あのあと帰ったよ」

 そう優しく答えた。

「そっか」一樹は安堵した様子で顔を上げる。それでも一樹の憂いげな雰囲気は消えることなく、晶は髪をかきながら

「とりあえず家、入るか」と口走る。

 一樹はこくりと頷いた。


 台所に立つ晶の背中を一樹はチラ見する。一樹にとって珍しい光景だった。

 晶は一樹の前に冷えたお茶のグラスを置いた。

「ありがとう」一樹は一言呟く。


 互いに切り口が分からない様で何とも言えない、気まずい空気感が2人の間に漂っていた。

「急にすまなかった」

 晶は何の予告もなしに店を訪ねた事が冷かしの様に感じたのではないかと謝罪した。

 無論、それは見当違いで一樹は

「…違うよ」と首を振った。そして

「はぁ」と大きなため息をつく。そのため息に晶は目を丸くした。

 一樹は赤らめた顔を晶に向けた。

「俺、本当ガキくさい!すげぇ嫉妬してるんだもん!!!」

 耳まで真っ赤に染まった顔を恥ずかしそうに腕の中に埋めた。

 晶は思いもよらない事態に茫然と一樹の頭を眺めた。一樹はバッと顔を上げ

「あの人!可愛い顔してるし、中身も物腰柔らかくて、でも小悪魔的なところあってさ!俺、おじさん取られちゃう気がして…」

 口を尖らせながら言う一樹はまるで子供の様だ。

「おじさんを諦めさせるための作戦かと思った」

 晶はどうしようもなく、一樹を抱きしめてやりたいと思った。しかし、僅かな自制心が働きかけてくる。

「そんな事はしないさ。偶然、あいつのお目当てのものが一樹のバイト先にあったってだけだ」

「本当に…?」

「ああ」

「あの人と何もないの…?」

「あいつは12年間、世話になってる編集者にすぎない」

 一樹は潤う丸い目で晶をジッと見つめる。その眼差しに晶の心がキュッと締め付けられたのは認めざる終えない事実だ。

「一樹が想像する様な間柄ではない」

 嘘偽りの感じられない眼差しに一樹は、うん、と頷く。


 ひと段落ついたところで、晶は一樹に

「受験勉強はどうだ」と聞いた。

 一樹はグラスを両手で包み込みながら

「まぁ、順調かな」

 バイトの日以外の時間は一日の半分以上を勉強に費やしてるという。

「クーラーかかった部屋にずっといるからさ、バイト行く時、暑すぎてバテそうになる」

 一樹はすっかりと気を取り直して、明るげな口調で言った。

「熱中症には気をつけてくれよ」

 心配そうに眉を下げる晶。一樹は嬉しそうに、うん、と頷いた。

 ふと晶は「そういえば…」と思い出した様に声を上げた。

「一樹のバイト先に背の高いショートカットの女の子がいるだろう?」

 一樹の脳裏ですぐに眞琴が浮かんだ。

「ああ、臼井さん?臼井さんがどうしたの?」

「以前、駅で具合悪そうにしていたんだ」

「そうなの!?顔見知りだったんだ!」

 うん、と晶は頷いた。

「元気そうで安心した」

 心の底から安堵しているようで、口元が柔らかに微笑んでいる。それを一樹はうっとりと見つめた。


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