粉雪降る大晦日
晶は鏡の前で首に巻かれたマフラーを愛おしげに眺めていた。
歩いて5分程度の蕎麦屋まで向かうだけなのに、こうして身につけたくなるのは、やはり一樹から貰ったものだからだろうか。
「健の言う通りだな」
晶は鏡に向かって微笑した。まるで、一樹を抱きしめた時、一樹の息が首にかかるのと同じような感覚だ。
そう表現した晶であったが、ふと鏡に映る浮かれ顔を目にした途端、
「いや、その表現は…ないな」
突如襲い掛かる羞恥に鏡から顔を晒した。
「あ、おじさん、マフラー!」
晶を目にした途端、一樹は嬉しそう声を上げた。
これから、佐野親子と晶で蕎麦屋に行く予定だ。昨年同様、年越し蕎麦は井口家の蕎麦と決まっている。
玄関口まで迎えに来た郁子と一樹は凍て風にさらされたからか、頬が真っ赤だ。しかし、双方とも顎をマフラーにうずめて、暖をとっている。
晶は一樹の首に巻かれたマフラーが自分のプレゼントした物だと気づくと、自然と頬が緩んだ。
「じゃぁ行こっか」
こうして、3人は肩を寄せ合い、蕎麦屋へ向かった。
暖簾の吊るされていない店の戸を引く事は年に一度だけ体験できるちょっとした楽しみであった。まるで会員制のバーに入店が許されるプレミアム感があるのだ。得意げな顔をしてしまうのも無理はない。
「おっ来た来た」
第一声は店主であった。凛々しい眉を持ち上げ、いかにも晶達がやってくるのを待ち望んでいた様である。
「こんばんは〜」
晶に続き、郁子と一樹が入店する。
「あれ?臼井さん!」
ふと、一樹はカウンター席に座る人物が眞琴である事に気がつき、声を上げた。
「よっ、佐野」
眞琴は照れながら会釈した。すると、厨房から紺色の作務衣を身につけた悠真が現れ、
「俺が呼んだの。眞琴、まだうちの蕎麦食べた事ないからさ」
と眉を下げる。するとその隣で侘助が、
「何が一丁前にうちの蕎麦屋だっ!お前はまだ盛り付けぐらいだろうが」
「父ちゃん、カッコつけさせてよ」
悠真の眉が一層と垂れ下がる。
微笑ましい親子の会話に皆、笑った。
「昼すごかったね、行列」
「うん、ここら辺の人、ほとんど買いに来てたよ」
井口家の蕎麦屋は大晦日、10時から販売のみの営業となる。店先から家々3軒分の角まで行列が出来るほどに年越し蕎麦といえば井口という人が沢山いる。
ふと、引き戸の音が鳴った。
「こんばんは」
艶気のある特徴的な声に皆の視線がそちらに向く。
「ああ!珠ちゃん!」
初めに声を上げたのは郁子であった。
珠子は深紅色のコートを腕に抱え、いつもと同じように着物姿で、ゆるりと会釈した。
「郁ちゃん、おひさぁ」
翼のようなまつ毛が一層と目尻を優しげに垂れ下げる。
「おお!賢治来たか!」
「侘助。言葉謹んでね」
珠子はにっこりと微笑む。しかし、その目は笑っていない。侘助は、しゅんと縮こまった。
ふと、珠子は晶と郁子の間に座る一樹に目がいく。
「あら、あなた…」
「はじめまして!佐野一樹です」
一樹は以前から珠子の事を知っていた。一樹の理解を他所に、ただ友人の話をしたいだけの郁子から聞いていたのだ。
珠子はようやく顔を合わせる事ができた、礼儀正しく、活発で愛らしい青年に好感を抱いた。
(とても可愛い子じゃない。あっくんには勿体ないくらいだわ)
「是非、お酒飲める様になったらうちのお店に来てね」
徐に名刺を一樹に手渡す。すると、潜めた声で
「あっくんの良いこと沢山教えてあげる」
と耳打ちした。
「やめろやめろ」
その声は晶の耳にもしっかり届いた様だ。
役者が揃い、いよいよ蕎麦が手元にやってくる。ほわりと湯気が立ち、芳ばしい出汁の香りに皆が口を揃えて、
「やっぱり年越し蕎麦はこれに限る」
と喝采する。
初めて口にした眞琴も瞳をキラキラと感動を示した。
皆が言葉を交わすこともなく、ひたすらに蕎麦を啜る姿を店主は、誇らしげな顔で見ている。
「おい、悠真。これが堪らなねぇんだよ」
歯に噛む父の姿に悠真は頷いた。
「うん、わかるよ。だから、俺も早く父ちゃんみたいに言葉が出なくなるくらいの蕎麦を打てる様になりたい」
悠真は4月から専門学校への入学が決まっている。冬休みに入ってからは毎日、朝からの仕込みを手伝い、夜は父の指導をもと、蕎麦打ちの練習。どんなに厳しい言葉をかけられようと志は揺るがない。
「おう、期待してるぞー」
侘助は嬉しそうに声を上げた。
皆が箸を置き、湯呑みを片手に一息つく頃。
珠子が徐に立ち上がった。
「皆さんとこうして年越しそばを頂けた事、とても嬉しく思います。では、お先にお暇させていただきますね」
そう言って、皆に会釈する。
「珠ちゃん、またね!来年もよろしく」
郁子は弾ける様な笑顔で言った。
「ええ。よろしくね、郁ちゃん」
もう一度、一人ずつ会釈し、勘定を済ませ、珠子は店を出た。
野外に出ると一瞬にして熱が奪われていく。珠子は深紅色のコートを羽織った。大きなへちま衿のコートはまろやかな雰囲気を帯びさせる。
「珠子」
ふと背後から名を呼ばれ、振り返った。
「あら、あっくん」
自然と口元のほくろが緩む。
「私のこと引き留めてくれるの?珠子、嬉しい」
そう言って目を細めた。冗談めいた口調はいつもの事で、晶は苦笑する。
「これからお店、営業するのよ」
朝5時まで通常営業よ、と珠子は誇らしげに言った。晶は珠子のこうしたストイックな姿勢を尊敬している。
しかし、珠子からしてみれば、何の負荷もない事であった。
「家族や大切な人と過ごす大晦日だけれど、孤独な人も多いのよ。そうした人達が人肌恋しくって、珠子のお店にやってくるの」
晶はそうした人々の心をよく理解している。自身も、ふと侘しさを感じた時、自然とこの店主の温もりに触れたくなる。厳しくも優しさのある珠子の存在が心の救いだと思うのだ。
「人は生まれる時も死ぬ時も1人だって言うけれど、だからこそ生きているうちは人と肩を寄せ合う方が良いのよ」
だから、あっくん、と珠子は微笑んだ。
「郁ちゃんや坊やとの時間を大切にね」
まるで母の様な温さがある、珠子の声色に晶は頬を緩めた。
「ああ、来年もよろしくな、珠子」
「ええ、よろしくお願いします」
そう言って目配せ合っていると、2人の間に真っ白いふわりとした粒が降ってきた。
「あら、雪よ」
「本当だ。大晦日に雪とは、初めてだ」
晶も生まれてこの方、目にした事がない大晦日に降る雪に心が昂った。
「うふふ、何だか縁起が良いわ」
「ああ、そうだな」
晶も手のひらで溶けていく粉雪を見つめながら言葉を返した。
「じゃぁ、またね」
珠子はゆるりと会釈し、晶に背を向けた。
晶は遠ざかっていく珠子の背を見送った。真っ白い粉雪に深紅のコートを羽織った珠子は椿の様だと、ようやく冬に咲く花を晶は目にした。
***
蕎麦屋を後にし、3人は晶の家で年を越すその瞬間を待っていた。
「来年も皆んなで食べたいね」
一樹は蜜柑の皮を剥きながら言った。中心からぱっくりと4等分に裂き、2つ、3つを一口で食べるのが一樹流である。
「ああ」
晶も同じく蜜柑を手に取る。ヒトデ型に皮をはがし、白い筋を丁寧に剥いて、オレンジ一色の実を食べるのが晶流だ。
「もう私、眠いわ」
郁子も蜜柑を手に取るが、眠気が勝る為か、コロコロと手のひらで転がすだけだ。
「母ちゃん、寝ちゃいそう」
郁子はふわりと欠伸をし、そのまま仰向けに倒れた。
「除夜の鐘鳴る前に起こして〜」
と寝言の様に言った。
一樹と晶は顔を見合わせて、笑う。ふと、一樹は晶の手元に視線を落とした。晶は突然大人しくなった一樹に首を傾げる。
すると、一樹は、あ、と口を開けた。まるで主人からおやつを貰おうとする犬の様だ。
晶は指先で摘んでいる蜜柑を欲しているのだと分かった。手汗が滲む前に入れてしまおう、と一樹の口に入れた。
「んふふ、美味しい」
一樹は満足げに目尻を垂らした。晶は咄嗟に俯いた。
(一体どこでこんなにも可愛らしい事を覚えた…?)
思い返してみればこの一年、晶は一樹の積極的なアプローチに幾度も胸が張り裂けそうになった。こうして、一年を締めくくる、最後のアプローチがこれとは…
(どうしようもなく、抱きしめたい…!)
晶は一つ咳払いをした。
「おじさんも、はい」
目の前に差し出された蜜柑。どうやら、食べてと言う事らしい。
晶は伏し目に口を開けた。一樹の顔を見てしまえば、心がもたない。
「…悪くない」
白い筋の付いた、二粒の蜜柑。頬を膨らませた晶の顔に一樹は微笑んだ。
「おじさん、手。握って」
テレビに目を向けていると突然、一樹は言った。
晶は一樹に目配せる。一樹は机に頬をつき、上目遣いに晶を見つめていた。
(今日は妙に甘えただな…)
一樹は晶の心を知ってか知らでか、いつも以上に積極的だ。晶は不思議に思いながらも一樹の手を握った。
「おじさんの手、大きくて温かくて、気持ち良い」
とろりと目を細め、晶の手を握りしめる一樹。晶の心臓は爆発寸断だ。
(保て…俺…保て…保て…)
頭の中で念仏の様に唱えた。
すると、家の外から鐘の音が鳴り響いた。
「あっ!除夜の鐘鳴った!」
一樹は上体を勢いよく起こした。それと同時に晶と繋いだ手も離される。晶は安堵の息をついた。
「母ちゃん起こすの忘れたわ」
除夜の鐘が鳴る前に起こしてと言っていた郁子はぐっすりと夢の中だ。
へらへらと笑う一樹に晶もつられて笑った。
「一樹、今年もよろしくな」
「うん、こちらこそよろしくお願いします」
新年初笑い。今年も良い年になるだろう、と晶は思った。
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