風邪と受験
大事にバッグに仕舞ったはずのモノがない。それはしっかりと頭に記憶した3桁の番号が記されており、強張った顔写真が貼られた受験票だ。
あまりの焦り様にバッグをひっくり返すと、付箋がびっしり貼られたクタクタの参考書と筆箱、弁当箱、折りたたみ傘が散らばる。
その中にはやはり受験票がない。
俺の受験、終わった。
一樹は鈍器で殴られた様な痛みに薄らと目を開けた。
「最悪だぁ…悪夢にうなされた…」
試験日、三日前。一樹は高熱に見舞われた。
体調管理には気を遣っていたはずなのに、急激な悪寒と喉の痛みに襲われ、今朝、目覚めるとベッドから起き上がれないほどの頭痛でノックアウトという次第である。
バランスの良い食事を心掛け、睡眠も多少は無理したが、日中眠気に襲われない程には寝ていたと思う。しかし、こうして身体を崩したとなると、あまりにも情けない。
「俺、どうしよう…」
一樹の視界は霞んだ。このまま、受験出来なかったらどうする?おじさんとの同棲と交際は?俺の夢は?と考えれば考えるほど頭は膨れ上がり、更なる痛みに襲われる。
「一樹、入っていいか」
ふと、扉越しから晶の声が聞こえた。
「どうぞ…」
一樹は喉の痛みに眉根を寄せ、小さな声で言った。すると扉が開き、不安げな顔をした晶が枕元までやってくる。
「大丈夫…ではなさそうだな」
一樹の火照った顔と眠たげに腫れ上がった目元を見ると眉が下がる。
「郁子は仕事に行った」
生憎、大事な会議がある為、郁子は休む事が出来なかった。惜しい気持ちを押しころして晶に一樹の事を託し、会社へ向かったそうだ。
「おじさんが看病してくれるの…?」
「そうだ」
一樹は目元だけ覗いたまま布団の中に顔を隠した。
「俺、このまま試験受けれなかったらどうしよう…」
ブラウンの瞳がゆらゆらと揺れている。不安で仕方がないのだろう。
「一樹。今は考え過ぎるな」
晶は少しでも一樹の心を楽にしてやりたいと思った。
「たくさん寝て、身体を休めるんだ」
「うん…」
弱々しく閉じていく瞳に晶は、
「変わってやりたいよ…」
そう心から望んだ。
***
鈍い灰色の空が視界に広がった。
(ん…また、夢…?)
一樹はすっかりと夢の感覚に慣れてしまっていた。
ふと、空から目を離すと、目の前で突っ伏す俯いた少年がいる。野球ユニフォームに帽子を目深に被っていた。表情は見えない。
突如、耳を刺す雷の音。途端に大粒の雨が地を打ち付け、視界が霞む。
少年は唇を強く噛み締め、遠くの方から呼びかける声に応えることなく、駆け出した。
「待って…!」
(あれは、俺だ…!)
その瞬間、また場面が切り替わった。
「一樹どうした!?」
そこは晶の家の玄関だった。
玄関口に突っ伏す、ずぶ濡れの一樹に晶は目を剥いた。
少年野球の練習日だと知っていた。突然の豪雨に解散したのだろうか。しかし、なぜ一樹は、こうも悲しげに唇を噛み締めている?
すると、一樹は晶を見上げた。その瞳は酷く揺らいでいた。
「大雨降ったから、みんな…親迎えにきて…俺だけ…母ちゃん仕事だから迎えに来れなくて…ひとりで…チャリ漕いで帰ってきた…」
晶はハッと目を見開いた。おそらく、チームメイト達はそれぞれ親が車で迎えに来たのだろう。連絡網で解散の知らせが届いたのか、あるいは親の子を案ずる独断か。生憎、晶の存在は周知されていなかった。
郁子が留守の間、一樹を預かる身として、晶は自身の情けなく、頼りない存在に憤りを感じた。
すると、一樹は瞳を真っ赤にし、震える口を動かした。
「この前、父ちゃんに会ったんだ。そしたら、新しい家族がいるって。もう俺とは会えないって…」
一樹は拳をぎゅっと握りしめていた。血が滲んでしまうのではないかと思うくらいに強く握られたその手に晶は触れる。しかし、一樹は手を引いた。そして、弱々しく笑った。
「母ちゃんもずっと仕事だし…俺もう、いらない存在なのかな…?」
「一樹…!」
その瞬間、晶は一樹を抱きしめていた。玄関口に下り、足裏がヒヤリとするが、ずぶ濡れの一樹に比べたら大した事がない。
「おじさん…?」
一樹は冷えた身体が晶の温もりで解していくのを感じた。
「着物…汚れちゃうよ…」
「構わん」
晶は一層強く、一樹を抱きしめる。
「俺は一樹にとって父親になれる存在でもない。ただの近所のおじさんかもしれない。だが、一樹を大切に思ってる」
一樹と出会って5年。一樹の成長を目の当たりにしていた晶が一樹を思う感情は、ただの近所のおじさんという言葉では形容し難い。
それ以上の確かな、愛があった。
「だから、頼む…いらない存在なんて言うな…」
一樹は晶の顔を見上げた。すると、晶の澄んだ黒い瞳から涙が溢れている。
「ありがとう」
晶の胸に額を押し付け、深く呼吸すると、心地良い香りが鼻腔をくすぐった。
「おじさん、あったかい…」
一樹は瞳を閉じ、その温もりに身を預けた。
***
「凄い懐かしい夢見ちゃったなぁ」
一樹は腕を枕にし、天井を仰いだ。先程、目覚めた時よりも視界が晴れ晴れとしており、頭痛も和らいでいる。
「俺、あの時からおじさんの事好きだったんだな」
あの豪雨の日以来、一樹は妙に晶を意識していた。自分でも理解し難い感情に戸惑うまま、中学2年生になった一樹は晶の寝室が気になり、足を運んだ。
ベッドと本棚だけの無機質な部屋に一樹は拍子抜けした。しかし、本棚に並べられた本を手に取り、パラパラと捲ると、男が男の秘部を愛撫するイラストが一樹の目を熱くした。
いつの間にか一樹は晶のベッドに寝転び、枕元に顔を埋め、自身の熱を持ったソレを無心に
「あー、やばい…」
一樹は温い布団の中でさらなる熱を持った核部に唇を噛み締めた。初めての自慰行為を思い出したことがトリガーとなった様だ。
「おじさん、すぐそこにいるのに…」
そう意識した途端、一層とソレは腫れあがる。
(とりあえず、出しちゃお…)
一樹は枕元に置いてあるティッシュを素早く2枚ほど手に取り、一方の利き手をパンツに滑らせた。
その時だった。
「一樹、起きたか…?」
扉越しに晶が声を上げた。一樹は慌てて、腕を布団から放り出す。手に握ったティッシュは布団の中に投げやった。
「おおお、起きてるよ!」
すると、扉が静かに開く。晶は土鍋の乗ったおぼんを抱え、枕元までやってきた。
「まだ、顔が赤いな」
晶は不安げに眉を下げた。一樹が別の意味で顔が真っ赤になっている事を晶は知らない。
「そうかな?でも、なんか、さっきよりは身体軽いかも」
「そうか、良かった」
一樹はさり気なく、膨らみが目立たない様に両膝を立てて、上体を起こした。一樹の緊急事態に気づいていない晶は、
「お粥作ったから」と粥を掬い上げ、茶碗に入れている。その間に一樹は理性を取り戻すべく、一瞬にして気持ちが萎える想像を脳裏に浮かべた。
「味は保証できんが…」
晶は茶碗とスプーンを一樹に差し出す。
すると、一樹は己に打ち勝った誇らしげな顔で、
「おじさん、食べさせて」と猫なで声で言う。
「仕方がないな…」
晶は眉尻を垂れ下げ、微笑した。
「ふーしてね。俺、猫舌だから」
「ああ、分かってるよ」
晶の尖らせた唇が粥に触れるか触れまいかの距離で息を吹きかけている。
(なんか、視線感じるな…)
俯きながら息を吹いている晶を一樹はじっと見つめていた。
「はい」
晶は一樹の口にスプーンを滑らせた。
「んー!美味しい」
程よい出汁の旨味と卵の甘みが絡んだ粥を一樹は讃美した。自然と頬も緩み、二口目を急かす様に、あーん、と口を大きく開けた。晶はそれに応えて、また粥を掬い上げ、息を吹きかけ、一樹の口に粥を流す。
幾度かその作業を繰り返し、土鍋の粥がなくなった頃、
「お腹いっぱい、ごちそうさまでした!」
一樹はもう一度、布団に寝転んだ。腹が満たされた事により眠気がやってきた様だ。風邪を引くと不思議な事に何度寝も出来てしまう。
「もう一回寝るね」
そう言って一樹はふにゃりと微笑む。その瞬間、晶は一樹の頭を撫でたい衝動に駆られた。
「んふふ、おじさん撫でたくなったの?」
脊髄反射と言うのか、晶は意識しないうちに一樹のふわりとした髪を撫でていた。
「俺が寝るまで…ずっと撫でて…ね…」
「ああ」
一樹が眠りについた後、晶はしばらく髪を撫で続けた。
***
「俺、復活!」
受験日当日。一樹は無事、全快した。丸一日、勉強に時間を費やせない日もあったが、2日、1日前には過去問を振り返る余裕が持てるほどに回復していた。
「じゃぁ、行ってきます!」
一樹は自信に満ちていた。最悪の事態を想像するよりは前向きに考えた方が良いという一樹なりの緊張の解し方だ。
「受験票は持ったか?」
「交通機関問題なさそうよ!」
「弁当は忘れてないよな」
「あっ!念のため折りたたみ傘!」
晶と郁子は交互にテンポ良く、一樹を案じる言葉をかけた。その姿に一樹の頬は緩む。
「受験票もちゃんと入ってるし、お弁当もある。折りたたみ傘もあるよ」
「そうか…」
「そうよね…」
2人は安堵した様に呟いた。
「じゃぁ、行ってきます!」
一樹は2人に背を向けた。
「いってらっしゃい」
晶と郁子は口を揃えて言った。
遠ざかる一樹の背中を眺めながら郁子は、
「あの子の背中って、あんなに逞しかったっけ…」
口に手を当て瞳を震わせた。そんな郁子の肩に晶はそっと手を添えた。
「ああ。一樹は逞しくなったよ」
一樹の頑張りが報われます様に。
晶は心の中で強く願った。
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