密かな企て

 文化祭当日。

 快晴のもと、人々の賑わう声が校内中に響いていた。鼻腔を刺激する屋台から香る食べ物の匂いに、

「あっくん!私、焼きそば食べたい!」

 郁子の盛り上がりも沸点を達していた。まるでルーズソックスを履く生徒の様に賑やかだと晶は思った。


 どうやら、一樹は昼過ぎに開演する劇の宣伝の為、校内を歩いているらしい。どこか目印になる場所で合流しようと連絡が入り、晶は焼きそば屋に並んでいる、と返事した。

 数多い屋台の中で焼きそば屋は随分と繁盛しているらしく、しばらく列が動く事は無さそうだ。

「ああ〜懐かしいなぁ」

 郁子は高校時代を思い返す様に、めかし込んだ女子生徒を眺めながら言った。

 確かに郁子からしてみれば、最後の文化祭はとても思い出深いのだろう。晶にとっては、とても苦い思い出なのだが。

「今もあるのかな?あの一言告白企画」

 それは中庭にセットされた舞台で想い人に一言で告白すると言う、シンプルな催しだった。しかし、入場者や生徒達、さらには教師など多くの人々の前で声を上げなければならない。中々の根性が試される。

「いや、リストを見る限りないぞ」晶は入場口で手渡された冊子を見ながら言う。

「ええ〜なくなっちゃったんだ!」

 郁子は惜しげに呟いた。晶からは安堵の息が溢れる。

「まぁあれで、あっくんにフラれたけどね」

 いい思い出よ、と既に吹っ切れた心は言う。晶は苦笑した。郁子は知らないのだろう、彼女の取り巻き達に晶が苦労した事を。精神的かつ肉体的、苦痛を与えられたわけではないが、侘助率いる声援隊の刺すような視線は卒業まで続いたのだ。

「あいつは未だに根に持っているが…」

 脳裏に浮かぶ凛々しい眉に晶は苦笑した。

 ふと、郁子がニヤニヤと口元を歪めながら

「一樹のお姫様姿見た?」

 晶は顔を晒し、ああ、と呟いた。

 一週間前、唐突に送られてきた姫扮する一樹の写真に晶の視線が釘付けになった事実は否定のしようがない。物語の作者である晶でさえ、一樹がハマり役だと思った。その為、劇には相当な期待を寄せている。


「あっ!一樹!」

 郁子は人混みから現れた一樹を目にすると、そう叫んだ。

「母ちゃん!おじさん!」

 どこかのサッカーチームのユニフォームを真似たTシャツに、首にぶら下げた宣伝ボードを揺らしながら二人のもとへ駆け寄る一樹。

「あはは、やっと見つけた〜」

 学校だからだろうか、いつも目にする一樹より少し幼く見えた。無邪気な笑顔に自然と晶の頬も緩む。

「おじさんですぐ分かったよ、遠くの方から見て目立つもん」

 一樹はカラカラと笑いながら言う。郁子は晶を見ながら、

「確かに、着物姿は目立つわ」と苦笑する。

 晶自身も先程から通り過ぎていく花冠やティアラを着けた女子生徒の集団から、こそこそと噂されている事に羞恥を感じていた。

 しかし、これが普段着なのだから仕方がない。

「2時から体育館だよ!忘れないでね!」

 絶対ね、と一樹は念押しする。郁子は、はいはい、と頷いた。

 ふと、一樹は、あ、と声を上げた。

「臼井さん!」

「あっ!佐野!」

 偶然、通りかかったのは眞琴であった。青チェックのスカートに水色のワイシャツ姿の彼女は同じ制服を身につけた二人の同級生と一緒だった。

 眞琴は一樹たちのもとへ駆け寄り、晶を認めると、

「あっ!晶さん、こんにちは!」と明るい声で挨拶した。晶はここでもまた、眞琴から高校生らしい、青春の香りを感じた。

 そして、眞琴は郁子に目配せ、挨拶する。

「母ちゃん、この子、臼井眞琴さん。俺のバイト先の同期だよ」

「ああ〜!あなたが臼井さん!やっと会えて嬉しい」

 まるで、同級生との再会を喜ぶ様に眞琴に迫る郁子は幾つか若返った様に見えた。気さくな眞琴は笑顔で郁子を受け止めた。

「そういえば、悠真は…?」

 ふと、眞琴は頬を紅潮させながら言う。一樹は悔やむ様に手を合わせ、

「悠真とは別で宣伝してんの」と眉を下げる。

「今すぐ呼ぶわ!」

 一樹はスマホを取り出し、コールを鳴らそうとした。すると眞琴は、大丈夫、と手を振る。

「忙しいと思うから、余裕がありそうな時に連絡して会うよ」

 ありがとうね、と遠慮する。

「劇は絶対に観に行くから、またね!」

 眞琴は待たせている友達を気遣って、一樹たちに会釈し、その場を去って行った。

 その後、一樹は準備の為に舞台へ早入りすると告げ、一旦、晶達と別れた。その別れ際、一樹は晶に迫った。

「俺のお姫様姿どうだった?」

 まるで好感触だとわかっている様に一樹の目は嬉々としている。晶はこほんと一つ咳払いをしてから、

「ああ、可愛いよ。ハマり役だ」照れながら言った。

「やった、おじさんが言うなら確実だ」

 そう言って、愉快な背中が駆けていく。その後ろ姿を目にした晶は、自身の心もほんのりと若返った様に感じた。



 ***



 ぽんぽんと瞼に触れる、指の腹の心地よさに一樹の頬が自然と緩む。

「はい、目開けて」

 瞼に乗る艶やかな煌めきとぱっちりとした瞳に、一樹を囲む女子たちから嘆息が溢れる。

「可愛い…」

「えへへ、ありがとう」

 一樹はまるで、舞台女優の様な心持ちである。

 衣装を身に纏い、ウィッグを被ると、いよいよ本番間近なのだと皆の緊張は高まった。

「おっ、準備できたか」

 先に支度を終え、宣伝の為に外に出ていた悠真が控室に戻ってきた。

「おかえり」と一樹は悠真に目配せる。

 着物姿に結いたウィッグを被る悠真。凛々しい眉に更なる勇ましさが増し、一樹は惚れ惚れとしてしまった。

「今、眞琴に会ってきた」

「おっ」

 一樹はそう一言溢し、含み笑いをする。悠真は「なんだよ」と照れた様に笑う。

「いや別に〜」

 口笛でも吹く様に口を尖らせる一樹。いつもの悠真ならば、一樹のふわりとした髪を荒くも愛でる様に撫でるのだが、今はそれが出来ない。

 ふと、大人しく二人は見つめ合った。眼差しのみで言葉を交わしている様だ。

「まぁ、予定通りってことで」一樹は片目を瞑った。

「おう」

 姫と殿の密かな企てをまだ誰も知らない。

 そして、舞台の幕は上がった。



 ***



 カーテンを閉め切った薄暗い競技場で人々の視線は唯一照らされた舞台に釘付けだった。

 劇の作り込みは緻密で物語の中盤には観覧席を埋める人の数が、どの催しよりも圧倒的に多かった。

 その一つの要因には、やはり姫役を演じる人物が男子生徒、それも中々の美貌だと噂された事があるだろう。

「あれ一樹先輩らしいよ」

「えっ、ちょー可愛い…」

 潜めた声で話す、女子生徒の会話を偶然耳にした晶は内心、誇らしさを感じた。

「悠真先輩もカッコ良すぎない?」

「昨日も二人で回ってたよ」

 萌える、と二人は声を揃えた。晶は胸底がむず痒くなった。

 (俺は妬いているのか…?)

 文化祭一日目は生徒のみで催される為、仕方がないこと。劇なのだから、とあれこれ理由をつけて、何とか取り乱した感情を抑えたのだった。


 いよいよ物語はクライマックスを迎える。しかし、一度、メイン二人が舞台裏に下がり、別の役者達による掛け合いがあった。

 その間、おおよそ10分。僅かなこの時間に事件は起きた。

「えっ待って。悠真いないんだけど!」

「あいつ、トイレ行くって言ってから戻ってきてなくない!?」

「えっ!ラストどうすんの!?」

 舞台裏に下がった悠真は、限界を迎えた、と言ってそそくさと消えていった。

 皆があたふたとする中、一樹だけは妙に冷静であった。

「代役、呼ぼう」

「いやいやいや、今さら無理だって。確かにシルエットだから衣装も演技も必要ないけど…身長差だけは…」

 有紗が今世紀最大といっても過言ではないほどの絶望顔を浮かべる。演出から脚本、全てを手掛けた身として堪らないのだ。

 すると、一樹は落ち着いた様子で

「大丈夫」と口にする。

「悠真と同じくらいの身長で、この話をよく知ってる人がいるから」

 そう得意げな顔で言うものだから、有紗は呆気に取られた。

 その刹那、舞台裏に困惑した晶が顔を見せる。

「あ、来た!」一樹は嬉々として、晶の腕を引く。

「悠真から、一樹が呼んでるから舞台裏に、と言われたのだが…」

 状況を飲み込めない晶に一樹は屈託のない笑みを浮かべた。


 その頃、悠真はというと――


「えっ!?悠真なんで!?」

 観覧席で舞台を眺めていた眞琴は、突如やってきた悠真に驚愕した。劇はまだ終わっていない。主演の出番がもう終わりとも限らない。ならばなぜ、この場に悠真がいるのか、不思議でならないのだ。

 悠真は凛々しい眉を下げ、秘密だと言う様に唇に人差し指を当てる。

 そして、眞琴の手を握った。

「ごめんね!眞琴のことちょっと借りちゃうね!」

 眞琴の友達にそう一言詫びを入れ、悠真は眞琴の手を引いた。

「悠真!劇は!?」

 人をかき分け、体育館を出ると、眞琴はずかずかと歩く悠真に問いかける。体育館から離れたところで、ようやく歩みが止まる。

 悠真は眞琴の方へ振り返り、無邪気な笑みを浮かべた。

「大丈夫、晶さんが上手くやってくれるから」

 眞琴は呆気に取られながら、

「どう言うこと…?」と首を傾げる。繋いだ手は熱を帯びて、汗ばんでいた。しかし、どちらも離そうとしない。

 悠真は意味深な笑みを浮かべたまま、

「それより!最後の文化、一緒に…好きな子と回りたいんだ」

 悠真の瞳は真っ直ぐと眞琴を見つめている。眞琴は赤らんだ顔を見せまいと顔を晒す。しかし、悠真の告白を真摯に受け止めたい、と思った。

「もう、知らないよ…!」

 眞琴は悠真に顔を向け、そう呟いた。二人は顔を合わせ、笑い合った。



 ***



「30秒間、見つめ合って、残りの10秒間はいかにも唇が触れ合う様に顔を近づけてください!」

 有紗は突如現れた代役を偶然通りかかった和装紳士としか捉えていない。春日井渚はBL小説家に転身してから、メディアに顔を出した事がない。その為、有紗は晶が物語の作者だとは知らないのだ。

「では、よろしくお願いします」

 いよいよ最後の見せ場。姫と殿が見つめ合い、心を通わせ、引かれる様に接吻する場面である。


 一樹と晶は舞台の真ん中で向かい合った。一度、暗闇に包まれた舞台に光が差す。観客の目には姫と殿のシルエットが映し出された。


 晶を上目遣いに見つめる一樹の眼差しは愛情に満ちている。それが役に入った事で殿に対するものなのか、それとも晶自身に向けたものなのか。

 どちらにせよ、晶が一樹を見つめる眼差しも愛情に満ちていた。

 そして、幕が下りる10秒前。

 晶は一樹に顔を近づけた。まるで唇が重なる様に、少し位置をずらして――

 すると、観覧席から、きゃー、と小さな歓喜が上がる。

 舞台袖でも、有紗や詩音が赤面した。


「ん…」

 晶はハッと目を見開いた。目の前で一樹が長いまつ毛を下に向けている。そして、柔らかな唇の触感を認めた。

(なぜ、俺は一樹と…!?)

 10秒間。ただ、触れるだけのキスを二人は交わした。


 幕が下りると、観覧席から大きな拍手が鳴る。しかし、晶の耳にはその音すら遠くに聞こえた。それほどに頭の中がぼんやりとしていた。

 一樹は屈託のない笑みを浮かべていた。

「俺のファーストキス、貰ってくれてありがとう」

 晶は漠然と唇に触れる。確かに、この唇に一樹の柔らかな唇が触れたのだ。

 激しい鼓動に目眩がした。





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