第18話 本性
かつては数千人規模の人間が働いていたという、四十五階建てのツインタワーが半分に折れ無惨な姿になっているのを横目で見ながら、案内された場所は家というよりも廃墟だった。
コンクリート二階建ての建物でところどころヒビが入っているのが見える。新入りいじめかと思いきや、見た目とは裏腹、内装はきっちりしており、床は板張のゴミひとつ落ちていない清潔な床で家具も洒落ていた。悔しいがマチダの家より快適だろう。
「一目見ただけでは人が住んでいると分からないように擬態している。地上に蟲人の巣食う町があるとバレると、敵対していた藩同士が一時休戦して攻めこんでくるかもしれないからなぁ。一定の場所にとどまらず、時々引っ越しもするし、町自体も一点に集中しないよう分散している」
ここで寝泊まりするようにと言われた部屋も手入れが行き届いていた。
俺の簀巻き状態を解除すると、ヨノは布団を敷きながら、食事は後で持ってくる、外に行ってもいいが、もうすぐ雨が降るからあまり遠くに出かけるなよ、と言って出て行ってしまった。
ぽかんとした。一人部屋に残され、何もすることがない。ちょっと前までは、マチダで殺虫剤をまく日々でこの生活が変わらなければいいと願っていたのに、今や人間かどうか分からない体のまま地上にいる。激変する環境に心は全然ついていけない。
とりあえず外の様子を見ようと窓に顔を近づけると、どんより黒い雲が遠くからやってきていた。地下都市では見ることのない光景で、迫り来る雲は生きているようで不気味だ。ぼうっと眺めていると、雲はトウキョウの上空までやって来て太陽を覆う。やがてぽつぽつと雨が降り始めた。日が陰るだけであたりはぐっと気温が下がる。気温も風景も目まぐるしく変わる。これが地上の世界なのだ。
体がブルっと震え毛布をかぶる。寝るにはまだ早く、建物内を探索することにした。空き部屋、誰かがいた形跡のある寝室、鍵がついていて入れない部屋、風呂場に手洗い場、リビングに台所。ひととおり周った中で、一番目を引いたのは二階の本棚で埋まった部屋だ。
旧文明の紙の本は希少価値が高く、投機目的で売買されるほどだ。そんな代物が何十冊も詰め込まれている。ここまで集めるなんてマチダの第一層に住まう人間でさえ難しいのではないだろうか。どんな本があるのだろうと眺めていると一冊の分厚い本の背表紙が目についた。
『大昆虫図鑑』
手に取り近くの机に置いて中身をパラパラ見ると、やはりヒカルが読んでいたものと同じ本だった。分類別に昆虫について詳しく載っており、スズメバチの項を開いて調べる。ここ数日で昆虫について何も知らないのだと思い知らされた。そもそもマチダでは居住空間に蟲という蟲が入り込まぬよう、徹底的に殺虫剤が配布され出会う機会がそもそも少なかった。己の中の機蟲についていくらでも情報が欲しかった。
読むのに夢中になっていて、ひんやりと冷気が部屋に忍び込んでいるのにようやく気づいた時には、外は闇に包まれていた。
光は月明かりのみで通りに人影はない。かわりに濃密な生き物の気配がした。蟲たちのざわめきや、時折聞こえる名の分からぬ動物の声を聞きながら、なんと賑やかなのだろうと思う。地下都市は人間の作り出した居住空間であるが、地上は人間がお邪魔する立場なのだ。
コツコツと扉を叩く音が聞こえた。振り返るとハヤクモが雨の匂いをまとって部屋に入ってきて、思わず身構えた。
「そろそろ腹が減っただろう? 一緒にどうだ?」
思い出したように腹の蟲がなる。けれど一対一での食事はしたくないと露骨に嫌そうな顔をすると、まぁいいがと言ってから、ハヤクモは出入り口付近に置かれた椅子に腰掛け足を組んで本を読みだした。苦手な相手と部屋に二人。気まずいことこの上ない。会えば礼を言わねばという想いが、彼と対面すると霧散するのが不思議に思えてならない。見ているとハヤクモは顔を上げて見返してきた。
「そういえばこれを渡していなかったな」
机の上を滑らせて差し出してきたのは電子手帳だった。あっと声が漏れそうになる。ヒカルが持っていたものと同じものだ。
「この部屋の本のデータ、日本地図と旧地下道の詳細な情報。それとヒカルの言伝も入れておいた」
机に近づき手にとる。ネット通信網が全国に張り巡られていた旧文明と違い、藩ごとに異なる規格で管理されている現代では、どこにいるか分からないヒカルと連絡はできない。けれど手にしているだけで彼と繋がっているように感じられた。
ありがとうと言おうとして顔を上げた先に、ハヤクモがいなかった。そのかわり――背後から気配がした。迂闊だった。警戒せよと何かがずっと叫んでいたのに手帳に意識をとられ、ハヤクモがすぐ後ろに近づいていることに気が付けなかった。
慌てて離れようとした途端、ハヤクモの腕が伸び、後ろから抱きすくめられるように手首をつかまれ、全身が凍りつく。体格も体力もはるかに上回った相手に力づくで振り切ることができなかった。
「どうして俺のことが苦手なんだ?」
顎をつかまれ上に向けさせられ、顔を覗きこまれる。普段の穏やかさを感じさせない冷ややかな視線と声。いつもの紳士面をかなぐり捨てた、こいつの本性だ。答えずにいると、つかまれた手首に指に力が入り食い込む。言わねばこの拘束はゆるまない。
「……お前は敵だと心が騒ぐからだ」
「だろうな。私の中にいるカマキリとお前の中にいるスズメバチは生来天敵同士だ。それに始めに出会った時はお前はサナギで今は羽化したての無力そのもの。食われると危機感を覚えるのも無理はない」
――時々、別の意思が体の中にあるような気がすることがあるだろう?
ヨノの言葉が脳裏に浮かぶ。俺の中にいる機蟲の意思。思い当たる節はいくらでもある。けれど、お前は知らない何者かに操られているのだと指摘されているようで、気分は良くない。
「二つの体に二つの意識を持つ。蟲人はそういう生き物だ。お前の中の機蟲が私に危機意識を持っているように、私の中の機蟲はお前をサナギのうちに殺せと言ってた」
「ならどうして助けた? 殺す機会はいくらでもあったはずだ」
「私自身には弱者をいたぶる趣味はない。それに路傍の石が磨けば輝く原石と知って踏み砕くなどあまりにも惜しい。人間社会に対抗しうる力を得るためにはいくらでも人手は欲しい」
顎にある手がするりと滑り頬をなでられ、不快感に全身が粟立つ。
「お前は弱い。早く強くなれ」
ハヤクモの眉間に三つ目が現れ、爛々と怪しく光る。獲物を前に、興奮を抑えきれない捕食者の目だ。
「でないと身の内を焦がす衝動のまま――お前を食い殺してしまいそうだ」
恐怖がせりあがり、口から漏れ出そうになった声を唇で噛み締め耐える。叫んだら、刺激したら、食われる。怖じ気づくのを誤魔化すように、ぎりと睨みつける。
「お前こそ、俺を弱い弱いって油断していると足元すくわれて、とって食われるぞ」
ハヤクモは口角を釣り上げ、クックっと楽しげに喉を震わせた。
「楽しみだ」
つかんでいた俺の手を離すと、食事はリビングの冷蔵庫にあるから適当に食べてくれと言って部屋をでて行った。彼の去りゆく背中を見ながら、まんまと蜘蛛の巣に誘い込まれたのではないかと思わずにはいられなかった。
部屋で一人になるなり、布団に頭から突っ込んだ。心も体もくたびれていたけれど、神経は張り詰めていてすぐには眠れそうにない。ハヤクモに感じていた違和感の正体が分かったが、開けない方がよかったパンドラの箱だった気がしてならない。蟲人と人間に差異はないとハヤクモは言っていたが、少なくとも普通の人間は人間を見て食いたいという気持ちは湧かない。とにかく早く、この身に宿る力を使いこなさなければ命が危うい。蟲人なんて嫌だと弱音を吐けば間違いなく食われる。
俺の中にいる機蟲、スズメバチ。今が羽化した状態ならば、幼虫、そして蛹になったことがあるはずだが遠い記憶を辿っても、昔のことは霞がかかっており不鮮明だ。
電子手帳を広げる。もしやヒカルの言伝が入っていないのではと思ったが、きちんとおさめられていた。そういうところは面倒見がいいし律儀な男なのだ。俺を食いたいとか言っていたけれど。
生きていこうと決めたというのに、先行きに不安しかない。こういう時ヒカルなら――本を読むだろう。知識はいくらでも身につけておきたい。うじうじしていても仕方ないのだ。眠りにつくまでさっきの図鑑の続きを読もう。
真夜中を過ぎても、雨はしんしんと降り続けていた。
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