第5話 脱藩
予想外の事態に呆けていた俺の腕を、ヒカルがつかんだ。
「逃げるぞ!」
「逃げるって一体どこへ!?」
「マチダの外。今日が脱藩決行日だ。ひとまず親爺さんところへ行ってバイクを回収しにいくぞ!」
「分かった!」
幸い、店は道を抜けたすぐ先にあった。
路地裏から飛び出てきた二人に、周囲の人々は怪訝な視線を向ける。
避難を促す警報は流れておらず、誰もこの緊急事態にまだ気づいていない様子だ。第二層の機蟲防衛課は何をしているのかと不審に思ったが、他人を気にかけている暇はなかった。
店の中へ駆け込むと、バイクをいじっていた親父さんは驚いて眉をあげた。
「どうした、そんなに慌てて?」
「機蟲が天井から侵入してきた! 早く逃げないとやばいよ!!」
「なんだって?」
親爺さんは窓を一瞥して事態を把握すると、ヒカルのバイクの固定を外した。
「お前のバイク、前に見た時よりもさらにじゃじゃ馬になったな。騒音・排気は少し抑えたが、エンジンの回転数優先だと大したことはできなかった」
「ありがとう。お代は?」
「いらん。ついでにこれも持っていけ。予備バッテリーと電子手帳だ。独立戦争時に作られた坑道記録がだいたい入っている」
どうしてこれを、とヒカルは言わず、こくりとうなずいた。
「出世払いでいい?」
「ああ、期待しているよ」
親爺さんはそばにあったもう一つのバイクの調整を始めた。
「何してんの。親爺さんも早く逃げないと!」
「まだもうひとりの受け取り人が来てねぇから離れられん」
ヒカルは何か言おうと口を開いたが、親爺さんの顔を見て黙り込んだ。
何を言おうと無駄だと、その目が語っていた。
「次に会ったときに、絶対払うから」
にかっと笑うと、親爺さんは黙って整備を続ける。彼の姿に二人で一礼し、そしてバイクに乗り込んだ。
「いくぞ、アラタ!」
「ああ!」
店を出る時には、町は阿鼻叫喚に陥っていた。
上空を見あげれば、百体を優に超える数の機蟲たちがブーンと低い羽音を立てながら空を飛び交っている。一体一体の大きさが大型犬ぐらいでかい。ドクロのような頭、黄色と黒の縞模様柄の体で、見ただけで根源的な恐怖を引き起こすようであった。
彼らは集団で人に襲いかかり、大きな顎を使って攻撃していた。あたりに悲鳴と怒号と鳴き声が響き渡るが、こんな事態になっても避難を促すアナウンスは流れていない。
家や車の中へ逃げ込む人もいた。けれど締めだされた人間の方が多く避難場所を求めて逃げまどっていた。
道端にはいたるところに人が倒れている。もがいていたり、真っ青な顔をしてピクピク痙攣している人たちもいる。おそらく毒だ。
最悪なことにこの機蟲は毒も有している。それを証明するかのように今まさに目の前で男が機蟲に襲い掛かられ、そのお尻についた鋭い針で刺され、絶叫をあげる光景が繰り広げられていた。
パニック映画さながらの光景だが、現実だった。
「しっかり捕まっていろよ、アラタ!」
ヒカルがエンジンをかけると、シリンダーが点火し、モーターが駆動する振動で体が揺れる。煙を吹き上げ、バイクは跳ねっ返り生まれるのように急発進した。
「うわっ!?」
ヒカルの腰に手を回した手が強い力で引っ張られる。
エンジンを吹かし、バイクは悲鳴のような声をあげる。音がすごい。隠密には不向きの大騒音だ。親爺さんが少しは抑えたと言っていたが十分うるさい。
「よくこんな大音量を立てるバイクでこっそり藩を抜け出せると思ったね!」
「あー! 音がすごすぎて何言ってんのか分からないわ!」
「絶対、聞こえているでしょう!」
バイクは機蟲や人をかき分け、走る、走る。
ヒカルが運転に専念できるよう、背後に注意を払う。機蟲は騒々しいバイク音に反応することもあったが、彼らが向かってくる前にバイクは凄まじい速度で駆けていく。出会い頭に人をひきそうになっても、ヒカルの卓越したハンドルさばきで上手に回避していた。
「こりゃあすげぇや」
ヒカルが感嘆の声を出した。
彼の背中から顔を出すと、ハンドルの中心に青いガラスのような板がハンドル中央に浮かんでいる。ヒカルは片手でタッチを繰り返しピッピっと電子音を奏でながら操作していた。
「何それ?」
「親爺さんがくれた電子手帳に入っていた電子マップだ。俺が今日まで調べてきた坑道が全部載っているわ、知らない坑道もわんさかでてくるわ、目的地を設定すれば現在地から最適なルートまで示してくれるぞ。あの人、何者だ?」
「不思議だけれどさ、考えるのは後で、今は目の前の事態を対処しない?」
「大丈夫。脱出経路のあたりはつけてある。この第一層と第二層を繋ぐ通路から立入禁止区域への坑道へ行くぞ! 待ちに待った脱藩だ!」
電子手帳をこちらによこすと、ヒカルはさらにギアを上げ、速度を早めた。
最悪の出発日だ。
この日に備えて準備していた保存食料のかわりにあるのは、背中のバックパックに詰まった酒と煙草とお菓子。働いてコツコツ貯めていたお金もパーだ。寝袋どころか着替えの服もない。そもそも明日の心配よりも、現在のこの窮地を脱却できるかどうか。
でも、とヒカルの背中を見る。彼とならどこまでも行ける気がした。
「そこを右!」
バイクが傾き、大通りにでる。百メートルほど前方には他の階層へとつながるルートが見えた。遠目からでも人々が群がっているのが見える。
だが、人は後から後から増える一方で減る気配がない。望遠でのぞき、すぐに理由が分かった。
人の出入りを管理するゲートは高さ十メートルほどあり、カメラの絞りのように円を描いて開閉する仕組みになっている。その鋼鉄のシャッターがまさに閉じられている最中だった。人々は無情にも閉まっていく出口を前に、大混乱に陥っていた
「ヒカル! ゲートが閉まろうとしている!」
「嘘だろ、このまま二層の人ごと閉じ込める気かよ!」
ここに来て避難警報が鳴らなかった理由が分かった。
地下第五層の人間たちは、二層に機蟲が侵入した報告を受けて、被害が他の階層に広がらないよう、即座に機蟲ごと二層を隔離することを決定していたのだ。
「どうする、ヒカル!?」
「このまま強行突破だ! 離されるなよ!」
ヒカルはアクセルを開け続ける。エンジンはさらなる爆音を鳴り響かせ、真っ黒な煙が噴き上げる。前輪が浮き直立し、近くの歩道橋の階段を登った。
ガタガタと振動で体が上下に揺れまくる。口を開いたら絶対に舌をかむ。階段をあがり続け、上がり切ったところで、エンジン出力を最大にした。ぐんぐん加速しながら。そこでようやく彼が何をしようとしているのか分かった。
「行くぞ――――!」
歩道橋の手すりを打ち壊し、屋根から屋根へと飛び移る。そしてゲート近くの移民管理局の緩やかな傾斜の屋根に達すると、スピードをさらに加速させ、今まさに閉じようとしているゲート目掛けて飛び出した。
バイクは大きな弧を描く。そのまま、閉じゆくゲートへと滑り込み、間一髪でくぐり抜けた。
着地とともにドンと衝撃が走る。バイクのスピードはだんだん落ちやがて止まった。そのとき、背後で大きな金属音が聞こえた。振り返ればゲートが完全に閉じる音だった。先ほどまで聞こえていた人々の怒号や悲鳴が消える。ただあたりを静寂だけが包んでいた。
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