第41話 最深層
クリーム色の煙のかたまりがふわりと地面から舞い上がり、口に入ると吐き気が込み上げ一度吐いた。耐性があるとはいえ、キツイものはキツイ。気持ち悪さを無理矢理抑えながら男の服をあさりスイッチのようなものを見つけると、とりあえずすべてのボタンをOFFにしていく。これでハヤクモたちのいる場所の殺蟲剤の散布も止まればいいが、ヘルメットがない以上、あちらの状況を確認する術はない。無事であることを祈るだけだ。
やがて煙で覆われていた視界がクリアになっていく。視界の片隅でヨシツグが見えた。片膝をついて槍に縋って、痙攣を起こしたように体がビクビク揺れている。装備は見る影もなくボロボロだ。足元には二人の蟲人が倒れ、いずれも腹部に大きな穴が空いていた。
「大丈夫?」
近寄るが反応はない。目は虚で、倒れないよう姿勢を保持するだけで精一杯な様子だ。
スズメバチに刺された時のためにと、ミズキに持たされていた解毒剤とエピネフリンの入った注射器を首に突き刺すと、びくりと大きく体が揺れぐらりと横に倒れそうになったところを支える。しばらくはゼェゼェと浅い呼吸を繰り返し、朦朧と顔を左右に動かしていたが、やがて揺れもおさまり呼吸が少しずつ落ち着いてきた。一度大きく深呼吸をすると、ゆっくりと顔を持ち上げた。俺の顔が視界に入ると、大きく目を開いた。
「……あいつは?」
「あそこでくたばっている」
ヨシツグは立ち上がろうとするものの、すぐにもんどりうって倒れそうになり慌てて体をおさえる。体格差に加えて先程槍で刺された右手の傷が響き、うめき声が喉から出た。
「いった……! その様子じゃまだ動くのは無理だよ」
「俺がやらなくてはならない。俺がもっと早く行動していればこんなことにはならなかった……!」
こっちの負担も考えずに再び体を動かそうとしたヨシツグに無性に腹が立ち、手をはなす。案の定、ヨシツグは地面にそのまま激突した。
「ぐが……っ!?」
「あんたが何を考えてんのか、何をしたいのかさっぱり分かんないんだよ! 一体、なんなの!? ちゃんと話せよ!」
ヨシツグは黙ったままだった。沈黙が続く。これ以上、時間を無駄にはできないと立ち上がり背を向けたようとした時、声が聞こえた。
「……俺はお前を殺そうとした」
「それこの間、聞いたし。それに、俺を新女王バチとしてあのクソ野郎に使われないようにするためだったんでしょう? わざわざ憎まれ役を買ったのだって、俺をサガミへ戻ってこないようにしたかったからでしょう?」
再び沈黙。沈黙は答えのつもりかと思うとますます腹が立つ。近づいて頭をベシッと叩けばふがっという声が聞こえた。
「それで? あとは?」
「お前を死んだ者とした」
「そうだね。でもお墓参りに時間があれば必ず来ていたって義母さんから聞いたよ」
「……お前の姉妹たちも大勢殺した」
「それは俺だって同じだ。ここまで来るのに姉たちを殺しまくった。それに俺は俺で同じような生まれであっても、同じ存在じゃない。俺というただ一人の人間を必要としてくれる友人がいるんだよ」
ベシベシとヨシツグの頭を叩く度に、うめく声が聞こえた。
「俺さ、あなたにずっと憎まれていたと思った。でも、そうじゃないのなら嬉しい。それが俺の本心だよ」
ヨシツグが目を見開いて何か言おうとしたが、言葉を呑む。かわりに大きく息を吐いた。
「……すまなかった」
絞り出すような声だった。欲しかったのは謝罪の言葉ではなかった。でも、うなずいて応える。
「少し休んでて」
最後にベシッと頭を叩き、立ち上がる。視線の先には下に続く階段が見えた。前に進もう。俺が積み上げてきたものを壊されないためにも行かなくてはならない。あの先に女王バチがいる。
卵。卵。卵。
帝国の最深層はいたるところ卵だらけだった。
その真ん中で彼女は座っていた。
「子供が欲しいの。いっぱい欲しいの。あふれるほど欲しいの」
まるまるとした卵に囲まれて、歌いながら、彼女は笑っていた。
「ああ、なんて可愛らしい。でも足りないの。もっともっと欲しいの。流れてしまうから死んでしまうから殺されてしまうから。だから生むの。いっぱい、いっぱい、いっぱいね」
――アヤメさんは流産と早産を繰り返して子供ができないことをひどく苦しんでいたの
義母の言葉が頭をよぎる。
母の子供を生みたいという願い。そして女王バチの子供を生み育て帝国を作る本能。二つの意思の方向性が一致し、そして内外の複雑な事情が絡み合った結果、今のこの事態を引き起こしたのだろう。母が蟲人にならなければ、父が母を人間に戻そうと考えなければ、マチダが兵器として母を利用しようとしなければ。何か一つでも違ったらと思わずにはいられなかった。
「母さん」
呼びかけると母はこちらを見て、首を傾けた。
「あら、あなた。いつも子供たちの世話を見てくれてありがとう。ご飯を運んでくれてきてありがとう。おかげさまで子供たちは元気に成長しているわ。さぁ次はこの子。今、生まれるわ」
彼女が両手で抱えていた卵の殻が破れ、中から幼虫が顔をだした。
「もう止めよう、母さん。これ以上、二層の人を犠牲にできない」
「いやよ。子供が欲しいの。いっぱい、いっぱい欲しいの。足りない、足りない、足りないわ」
コロコロと笑いながら童のように歌い続ける。
たとえ日の本を覆い尽くそうとも彼女はやめない。ただ望みのままに生み、そして彼女の子供たちはその願いを叶え続ける。この手で終わらなせなければならなかった。
「母さん」
「なあに?」
彼女は呼ばれて嬉しそうに笑う。
「俺を生んでくれてありがとう。あなたがいたから今の俺がいる」
毒針を構える。せめて苦しみのないよう、一瞬で仕留められるように。
「そして、ごめんなさい」
この針を胸に突き刺せば終わる。なのに。
――できなかった。
すべての元凶だというのに。今までも同じように何人もの蟲人を殺してきたというのに。
母と目が合った。
――生まれてきてくれてありがとう
遠い昔。この世に生を受けた時に、頭をなでられながらそう言われた。
初めて俺を見てくれた、愛しんでくれた目があった。それだけで体が動かなくなる。
そんな様子を母はただただ無邪気に笑って見ている。
ずっと見つめあって、母は不思議そうに顔をかたける。その口からたらりと口が垂れた。あっと声が漏れた。その胸に槍が突き刺さっていた。
「お前に母殺しの咎を背負わせるものか」
背後から気配が伝わる。振り向けば兄がいた。
母は蟲人の形態から人の姿に戻る。俺とよく似た顔をした女性が血を流しながら、にこやかな笑みを浮かべ両手を俺たちに向けた。
「ああヨシツグ、そしてヨシナガ。愛しい息子たち」
彼女の目に一瞬、瞳に正気が戻る。
「大きくなったわね」
けれど、すぐに目から光が失われ、どうと体が崩れた。
静寂が部屋を押しつつむ。穏やかな笑みを浮かべたまま、一人の女性が息絶えていた。ヨシツグがそばに屈むと、そっと乱れた髪を整え手を合わせる。同じように手を合わせ、ただ冥福を祈った。
二人ともしばらくなにも言わずにいたが、ふいにヨシツグが動いたかと思うと、視界が覆われた。体が何かにすっぽり包まれる。兄に抱きしめられていた。
「アラタ……生きてくれてありがとう」
温もりが体にゆっくりと伝わる。ぽたりと頬に温かいものが落ちてきた。見ればボロボロとヨシツグの目から涙が溢れて出ていた。腕をその背中に回し抱きしめ返すと、さらに力強く返される。安堵と悲しみが心に満ち、嗚咽が込み上げる。どちらかのものか分からない涙が頬を濡らし続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます