第42話 巣立ち

『あの恐ろしい事件発覚から一ヶ月がたちました。第二層の人口のおおよそ三分のニが犠牲になったマチダでは……』

「アラタは本当にサガミに戻らなくていいのか?」

 ガレージでラジオを聞いていたら、皮手を外しながらヒカルが言った。バイクの最終調整が済んだようだ。無事、意識が回復した親爺さんの手も借りて整備されたバイクは更なる進化を遂げ、以前よりも洗練したデザインになっていた。騒音もかなり軽減されたそうだ。

「一応、死んでいることになっているし、今更戻ってもね。あの人はどうにかするって言っていたけれど、こっちから丁重に断ったよ。ヒカルこそ、マチダに残らなくていいの? せっかくお父さんと再会できたのに」

「あの親父がいるなら尚更帰りたくないね。いいように使われるだけだ」

 ヒカルは苦々しげな表情だった。彼をこんな顔にする人はそうそういない。

 虚偽告発により軟禁状態に置かれていたヒカルの父親は、敵対していた派閥が今回の事件によりスズメバチに殺されたか、責任をとって辞職に追いやられてほぼ一掃されたため、晴れて自由の身となり表舞台に再び戻り、スズメバチにより荒廃したマチダの復興と周辺藩との交渉に明け暮れていた。

 初めは戦争に敗北したマチダの土地をほぼすべてヨコハマの管轄下に置く方向へ話が進んでいたが、ヒカルの父親が引っ張り出されてきたことで、流れは一変し、まとまりかけていた条件の小さなアラをつつかれ引っかき回され、交渉は難航。ヨシツグも手を焼いているようだった。ヒカルはそんな父親が苦手なようで、彼が出てきたと聞けば、サガミの住まいをすぐに畳み逃げるようにトウキョウへと走った。

 機会があったので一度会ったが、ヒカルと同じ燃えるような赤髪でちょこんとした髭を生やし、にこやかな顔を浮かべ親しみやすい人だった。話せばさらに好感度はあがり、この人のためにならいくらでも身を粉にして仕えたいと思わせるものがあった。人身掌握術がすさまじいのだ。一方で、雰囲気から何から何まですべてが計算して作られたようなものだとも感じた。ヒカルを、一時も気を抜けず隙を見せればすぐに足を掬われる環境に長年置いたらこうなるかもしれない。ここ最近、ヒカルは何かにつけて父親と自分をすぐに較べていじけていたが、その様子が新鮮でちょっと面白い。もし言ったらむくれるのは確実などで口には出さない。

 ミズキの調べでは、巣の中にいたスズメバチの幼虫たちにはオスが相当数混じっていたそうだ。たとえあの時手を出さなくとも、帝国は新たな兵隊バチが生まれないまま働かないオスが増え続け、遠からず終焉を迎えていただろう、とミズキはそう報告書に結論づけていた。

 ――新女王バチさえ生まれていなければ、と注釈はつくけれど。


「そいじゃ、行きますか!」

 まだ誰も目が覚めていない明け方。他の藩をバイクで旅してめぐっていくという、あのヨコハマでの夜の約束を実現するため、借宿であったトウキョウを出発しようとバイクに乗り込もうとした時だった。

 行く先にゆらりと人影が見え、やっぱり来たかと思った。

 ハヤクモだった。

「こんな朝から二人してどこへ行く気だ?」

 いつもの穏やかな顔。だがどこか冷たい雰囲気があった。彼が長期間不在の間を狙い、脱トウキョウ計画を練っていたが、バレていた。

「とりあえずちょっくら西の方へ。この間、全国放送のために行った時は観光どころじゃなかったし」

「いろんな藩を見て回ろうって前々から二人で決めていたんだよ」

「トウキョウの何が不満なんだ?」

 ハヤクモの言葉は、俺に向けてのものだった。

「不満なんてほとんどないよ。ここでならヒカルも俺も一緒に気兼ねなく生きていける。こんなに蟲人と人間の距離が近い場所なんて他にはないし、一から作り上げたなんてすごいといつも思っていた」

「ならこれからもトウキョウにいてくれないか? 蟲人の未来のためにも、お前たちが必要なんだ。行かせたくない」

 必要なのは俺じゃなくて親父とのコネじゃね、とむくれたヒカルがボソッとつぶやいた。

「ハヤクモは誰よりも蟲人の未来を考えている。あなたに出会えなければ俺はとっくに研究所送りか野垂れ死んでいたと思う。本当に感謝している。でも、俺はいろんな場所をこの目で見たいんだ。これはどうあっても譲れない」

「アラタ、私はお前の秘めた力が心の底から恐ろしい。その気になれば一人でこの日の本を制圧できる力だ。お前を野放しにしたくない。それにこの世界はお前たちが思っているようには甘くない。もしお前がこの先、辛い目にあった時にお前は人を憎まずにいられるか?」

「はっきりと断言はできない。ヒカルを傷つけられたら俺は平静ではいられなくなると思う。でもこれだけは言える。俺は絶対に兵隊には頼らない。敵は俺自身の力でうつ」

「俺だってそう簡単にやられるつもりはないし」

 隣でヒカルが笑って言った。

「どうしても行くというのか?」

「ああ」

 静寂があたりを包む。ハヤクモの顔がすっと無表情になっていく。仮面が剥がれた時の冷ややかな、あの目をしていた。

「ならば、こちらも手段を選ばない」

「こっちだって押し通すまでだ」

 ハヤクモと向き合い、機蟲形態へと体を変化させ、針を構える。ハヤクモもまた体をカマキリに変化させ、足を一歩引き、両鎌を構えた。

 心の中の機蟲は戦わずに逃げろと騒ぐ。ハヤクモに真正面からぶつかって勝てるかと言えば自信はない。だが、どこかでハヤクモと相対することができたことに喜んでいる自分がいた。

 じりじりと睨み合いが続く。ハッ!とハヤクモが呼吸を吐いたのを合図に地面を蹴って飛ぶ。渾身の一撃の毒針は両手の鎌を交差して受け止められた。連続して打ち込んだ攻撃を、次々と鎌で優雅に受け流される。激しい撃ち合いにより、金属音と衝撃波が周囲を突き抜けていく。

「会った頃のお前はヒカルの後ろに隠れてばかりで、なんとも弱々しかった。それがここまで強くなれるとはな!」

 ハヤクモは数歩後ずさったかと思えば、目にも留まらぬ高速で鎌を振り回し近接してきた。

「く……!」

 迫り来る攻撃をすべてかわしたと思ったが、鎌についたギザギザの刃が何箇所か体をかすめ、あちこちから血が流れでる。

 一旦体制を整えようと、空中を飛ぶ。下降しながら突進する攻撃に切り替えるが、その度にハヤクモにはじき返される。少しでも反応が遅れれば、すぐに鎌が飛んでくる。まるで隙がなかった。

「アラタ。ここではないどこかに行きたいと言う気持ちが、本当にお前の意志だと思うのか?」

 何度目かの撃ち合いで、ハヤクモは俺の顎と腕を鎌で受け止めると、そのまま間合いを詰めてきた。

「何言って――」

「お前の意志だと思っているそれは、生まれ故郷を離れて新天地を目指したいという新女王バチの本能ではないのか?」

 間髪言わずにハヤクモは言葉をかぶせた。ギリギリと後方へと押される。単純な力較べなら体格負けする。なんとか受け流そうとするが振り解けない。

「お前はどちらかというと、誰かに頼って漫然と生きたい人間だった。だが羽化してからはどうだ? 積極的に機蟲を狩りに行くほど好戦的になり、わざわざ危険を冒す行動もする。これが機蟲による変化でないのなら、なんだと言うんだ?」

 ざわりと悪寒が背筋を駆け上る。

 そうだ。以前の俺だったら、ヒカルのそばにいることができればそれ以上のことは望まなかった。

 なのにどうして住み慣れたトウキョウを出たいと思った? 違う土地へと行きたいと思い込まされているのではないのか?

 心の奥に一度生まれてしまった疑念は消えない。

 俺は本当に俺なのか。母のように、機蟲に人間性を侵食されていないと言えるだろうか。そもそも――意志とはなんだ。

 戦いの最中だと言うのに、考え出したら止まらない。心が動揺する。手元が狂い、隙が生まれた。それをみすみす逃すような相手ではない。

 ハヤクモが力を抜き受け流されると、勢いのまま体が前へと倒れる。 鳩尾へと膝蹴りをくらった。

「がっ……!」

 手痛い一撃を喰らい床に倒れる。

 痛む腹を抑え、すぐに立ち上がろうと顔を上げれば――鎌が喉元に突きつけられていた。

「本当に強くなったよ、アラタ。だが経験も技量も何もかもがまだまだ足りていない。このままではやがて機蟲に呑まれるぞ」

 ハヤクモの目に浮かぶのは憐憫だった。

 ――意思が機蟲に侵食されて乗っ取られることがある。そんな人間を何人も見送ってきた

 ヨノの言葉どおり、彼らは幾度も仲間たちとの別れを繰り返してきたのだろう。

「もう一度言う。私のもとでその力をふるえ」

 このままでは殺される、あいつに従えと心が騒ぐ。これも機蟲の本能だろうか。一方で果たしてそうだろうかという疑問も生まれる。

 ハヤクモと戦いたいという意志は紛れもなく俺のものだ。

 生き延びるためにハヤクモに従えと騒ぐのも、いますぐここから逃げ出したいという気持ちも間違いなく俺のものだ。

 蟲人は人間であるとハヤクモは答えた。けれど、俺はミズキの言うようにどこか違う存在だと思う。俺は人間と機蟲を区別しない。拒絶もしない。すべて俺なのだ。

「断る。誰がなんと言おうと、これは俺の意思だ!」

 ハヤクモの視線が射抜く。返すように真っ直ぐ見据えた。

「残念だ」

 鎌が軽く押し当てられ、鋭い痛みが走る。切られた首からは血がじわりと滲んだ。

「まずは羽をもぐ。その次は足だ。途中で止めて欲しければ泣いて懇願するんだな。始める前に何か言いたいことがあれば言え」

「……ハヤクモってさ、どこか人間を下に見ているところがあるんだよ。――だからヒカルの動きを見ていないし気づけない」

 ハヤクモがはっとして顔を動かした。ようやく近くの木の上に登ったヒカルの存在に気づいたようだ。だがもう遅い。

「はっはー! ミズキ先生特製対ハヤクモ新兵器、喰らええええ!!」

 ヒカルは楽しげな声をあげ、ハヤクモに向けたバズーカ砲の引き金を引いた。

 白い閃光が放たれる。それは俺とハヤクモを捕らえるようにどんどん網状に広がる。その形状はヨコハマで見た雲の糸に似ているが、幾重にも重なりながらあたりを白く染め上げる様は霧のようで、さらにパワーアップしている。今思えばあの武器もミズキが開発に関わっていたのだろう。

 ――通称、雲霧。ハヤクモをいつか殴る時に備え、ミズキが密かに何年もかけて開発していた武器だ。今回、トウキョウ出発にあたり、絶対ハヤクモの横槍が入るに違いないとミズキに相談すれば、快く無償でプロトタイプをくれた。あのミズキにここまで執念深く恨まれているなんて、本当にこの二人の間に何があったんだ。

 ハヤクモが雲霧に気をとられている隙に、隠し持っていた数個のスーパーボールを投げつける。ハヤクモは素早く反応して鎌で切ったが、瞬間、中に仕込まれていた殺蟲剤が飛び散り、ハヤクモの顔にベシャリと振りかかる。

「ぐっ……!!」

 運悪く目にも入ったのだろう。顔を抑えながら、動きが鈍っているハヤクモを尻目に、あたりを包み始めた霧から飛んで間一髪で逃げる。

 逃げ遅れたハヤクモは迫り来る霧を鎌で断ち切ろうとしたが、ねろりと鎌にまとわりついた。

「――!?」

 ハヤクモが目を見開く。振り回そうとした鎌に体に次々と糸が絡む。身動きが取れなくなったハヤクモに向かって空中から一気に降下すると、顎を広げハヤクモの左鎌に食らいつく。その勢いのまま、鎌をちぎり取った。

 血が噴き出て顔に飛沫がかかる。再び空中へと高く飛び、一度大きく旋回すると、木から降りたヒカルのそばに降り立った。

 ハヤクモは千切れた左鎌の傷をおさえることもなく、ただ血が流れるまま静かに立っていた。

「絶対に叶わない相手に、正面切って馬鹿正直にぶつかるわけないじゃん。ちなみに玉はもう一発あるよ」

 バズーカ砲を油断なく向けながらヒカルが言った。

「弱い弱いと油断していると足元すくわれるって以前、言ったよね。確かに俺は弱いよ。なら弱いなりに戦う前に準備するまでだ。ハヤクモ、あなたにはお世話になった。これ以上傷つけたくない。だから黙って行かせて欲しい」

 ハヤクモは黙りこくったままだった。顔を下に向けており表情が見えない。

 明け方の冷え冷えとした空気があたりを包む。日が少しずつ登り、大地を明るく照らし始めているのに、より一層冷え込んだようであった。背筋から首の裏のあたりが急に薄ら寒くなり、体が震えた。

 ――いや、気温が低いからではない。まるで巨大な蛇に睨まれているような恐怖を感じているからだ。それはハヤクモから発せられているのだと理解した瞬間、ハヤクモの様子がおかしいことに気づいた。

 顔が下へと下がっていき、丸まった背中が現れた。よく見れば亀裂が走っている。亀裂はめりめりと大きくなっていき、そして――ハヤクモの背中が割れた。

 ビリビリビリと殺気を放ち、何かが背中から出てくる。

 あれは――なんだ?

 目が離せなかった。動けなかった。ただそれが出てくるのを見ている。

 初めに見えたのは、日の光を受けて鈍く緑色に光る大きな逆三角のかたまりだ。大人の背丈ぐらいの大きさで、二つの黄金色の瞳が見えた。あれは頭部だ。続いて三つの体節に分かれた体がずるりと現れ、その巨大さに息を呑む。全長五メートルは優位に超えるだろう。六つの鎌は鋭い棘が幾重にも生えた羽のような形態だ。機蟲でも蟲人でもなく、モンスターとしか言いようがないそれは、ハヤクモの割れた背中から現れた。

「だ、第二形態……? そんなのミズキ博士からも聞いてな――ッ!?」

 凍てつくような視線に射られた。

 そう感じたのは一瞬で。次の瞬間には体が後方へと吹き飛ばされた。

 木に激突し、鈍い音がした。骨が折れる感触があった。

「かはっ……!」

 息が詰まる。血が口から流れ、体はビクビクと痙攣を起こしている。視界がかすみ意識が持っていかれそうになるのを、なんとか気力を振り絞って阻止する。目眩を払い、地面に手をつけ顔を上げれば――炎のように燃える金色の瞳が、鼻の先でぴたりと俺を見据えていた。

「あ……」

 それに見つめられ、恐怖で身がすくむ。目の前には死があった。

 たとえハヤクモ相手でもヒカルと一緒ならなんとかなる、そう思っていた。一体、何を勘違いしていたのだろう。どうして、何でもかんでも自分の思い通りになると思った? 己の愚かさに無力さに笑いが込み上げてくる。

 カパリとそれの口が開いた。思い出した。俺は食べられる存在なのだ。どうしてそんな当たり前なことを忘れていたのだろう。被食者が捕食者に食われることは世界の理なのに。それに身を委ねるように、目を閉じる。痛みのないよう祈る。

 ――それでいいのか。

 けれど、心が問いかけてきた。そんなの嫌に決まっている。当たり前だ。俺はこの世界で生きていたい。なけなしの想いをかき集め、目を見開く。どれだけの苦痛を受けようとも最後まで抗ってみせる。大顎をカチカチと鳴らして威嚇する。その大きな口で食われる前に、噛みついてやろうとしたその時。

 ――それは横に吹っ飛び、目の前から消えた。

「え?」

 困惑する俺の前に、大きな人影が着地し、仁王立ちした。

「その意気や良しっ!! ハヤクモをあの姿になるまで追い込んだ上、向かい合っても心折れずにいられるとは、さすが我が愛弟子! それにしても地べたに手をつけたハヤクモは久々に見たなぁ! 獲物を前に油断したか?」

 カブトムシだ。蟲人の姿のヨノが大きな角で蹴散らし、俺を守るように前に立ち塞がっていた。

 吹き飛ばされたそれは、体の形をどろりと崩し、地面へと溶けていく。やがてドロドロの緑色の泥のかたまりからぬらりと蟲人形態のハヤクモが現れた。

「……そこをどけ、ヨノ」

 地の底から這い出たような声だった。

「断る。こればっかりはたとえハヤクモたっての望みだとしても無理だな」

「俺を裏切る気か?」

「いいや。でもな、師匠は弟子の新たな門出を祝うものだ。ハヤクモ、どうして俺をアラタの面倒をみさせた? お前が本能のままこの子を殺さないように、だろう!?」

 ――ああ、そうだったのか。

 ハヤクモに次いで強いヨノ。もしハヤクモの抑えが効かなくなった時に備えて、ヨノを俺のそばにいさせたのか。

「悪いが俺はここから一歩も退く気はない。さぁ、十年振りかの大げんかをしようじゃないか、ハヤクモよ?」

 ハヤクモはペッと血混じりの唾を吐いた。

「……十五年の間違いだ。相変わらずの適当さだな」

 二体の蟲人が向き合う。チリチリと一触即発の空気があたりを制した。

「ヨ……ヨノ!!」

 思わず叫ぶと、ヨノはむすっとした顔をして振り返った。

「なんだ、その不安な声は。弟子が師匠の心配なんて千年早いぞ」

「でも……!」

「グダグダ言うな。なあに、ハヤクモとは数え切れないほどケンカをしたものだ。最近は全然乗ってくれないから寂しかったぐらいだ」

 ヨノは楽しげにククッと喉で笑った。

「ぐずぐずしないでとっとと行け、我が愛弟子よ! その旅路に幸あらんことを!!」

「し……師匠!! 今まで……本当に、ありがとうございました!!!」

 ヨノは大きく眉を上げ、そしてニコリと笑ってウインクをした。相変わらず下手くそだった。

「ハヤクモ! いつかお前を倒してやるぐらい強くなるからな! その首、洗って待ってろ!」

 ハヤクモは、こちらに顔を向けて何か言ったようだったが聞こえなかった。

 痛む体を支えて立ち上がり、ヒカルはどこに飛ばされたのかとあたりを探す。崩れ落ちそうになりながらも、足を踏みしめ歩いていれば、少し離れた場所にいた人影が見えた。彼を見て思わず驚き凝視した。兄だった。

 兄のそばにはぐったりと横たわるヒカルがいた。

「ヒカル!!?」

 よろよろと駆け寄り、そばで膝をつく。胸は動いており呼吸をしている。

「ちょっと気を失っているだけだ。しばらくすれば目を覚ますだろう」

「よかった……」

 ホッとし、息をつく、兄はそんな俺をじっと見て言った。

「さっきのハヤクモへの捨て台詞、完全に三下みたいだったな」

「うっ……うるさいなぁ! そもそもなんでこんなところにサガミ藩主がジャストタイングでいるのさ!?」

「ミズキ博士から、ハヤクモが殴られるところを見れるかもしれないと聞いたからだ。そんなチャンス、見逃せるわけない。博士から撮影も頼まれている。あと、お前に渡したいものがあった」

 兄から差し出されたのは六本槍の穂先の部分を加工してアクセサリーにしたものだった。あの時のような恐怖は感じない。もしかしたら、持ち手の意思があって初めて機能するものなのかもしれない。

「……俺への嫌がらせ?」

「違っ……! 道中、お前たちが機蟲に襲われないようにお守りとしてだ! いやでも、そう受け取られると考えていなかったのは俺の落ち度で……!」

「嘘だよ。多分だけれど、ミズキから提案されたんでしょう? 六本槍を加工できるチャンスだと考えながら、すすめる姿が思い浮かぶよ。兄さん、ありがとう。大切にする」

 にこりと笑うと、兄は気恥ずかしそうにぼりぼりと頭をかいた。

「たまにはサガミに帰って来てほしい。俺も母さんも待っている」

「うん」

 ふがっと声が下から聞こえた。見ればヒカルがパチパチと目をしばたいている。しばらくぼーっとしていたが、やがてはっとした顔して頭を素早く動かして周囲を確認し、俺と兄の顔を交互に見て、大きく眉を上げた。

「もしかして邪魔した?」

「ううん。兄さんから餞別もらったところ」

「へーこれって六本槍? すごいじゃん、高く売れそう」

「売らないよ!?」

「売るなよ!?」

「冗談だよ。そんな二人同時に勢いよく突っ込まなくてもいいじゃん。やっぱり兄弟だな」

 けらっと笑うヒカルに、兄と顔を見合わせ、そして笑いあった。


「さぁ今度こそ行くぞ」

「うん」

 後部座席に座ると、ヒカルはエンジンをかけ出発する。ヨノとハヤクモが引き起こしている爆撃を背に、姿が見えなくなるまで兄に向けて大きく手を振り続けた。

「しかし俺もまだまだだなぁ。正直悔しい。あんなに手加減されてさ」

 だいぶ距離を稼いだ頃、ヒカルがボソッと言った。

「手加減? あれが?」

「だってさ、ハヤクモさんがどうしてもお前を従わせたかったら、俺を人質にしていたはずだろ?」

 はたと気づいた。ハヤクモは俺がなによりもヒカルのことを大切にしていることを知っている。考えつかない訳がない。

「俺の足の一本でももいでしまえば、こうやって逃げることは無理だったし、殺していればお前の心は折れて戦いどころではなかった。でもそうしなかった。手段を選ばないと言っておきながらめっちゃ選んでいるじゃん。これが手加減じゃないならなんだっていうんだ」

 ヒカルの体をじっと見る。よくよく観察すれば、擦り傷以外の怪我はどこにも見当たらない。絶妙な匙加減だった。

「……強くなりたいな」

「俺もだ。まぁ悔しさをバネに武者修行に行こうか。進路は西! 行き先はオオサカ!」

「意義なし!」

 バイクは進む。生まれ育った場所、そして生き方を学んだ場所に別れを告げ、旅立つ。まだ見ぬ世界を目指し前に進み続けるために。

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蟲人ヴェスパ ももも @momom-

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