第33話 サガミ
宿屋の扉を開けると、香ばしい肉の香りと酒の匂いが腹をくすぐり、楽しげに談笑する声が耳に入ってくる。中は広く木製の円形テーブルがいくつも並び客が数人ほど。昼間だというのに酒を食らっている人もいる。彼らは入ってきた見慣れぬ男二人組に一瞥するとまた視線を戻した。
給仕の男にハヤクモが指を二本立てると、彼は手前のテーブルへと手のひらを向け、席に着くとすぐに近づいてきた。
「今晩はこちらにお泊まりで?」
「ああ。風呂つきでベッドが二つの部屋を食事代と合わせてこれぐらいで足りるか」
「ええ。準備が整いましたら案内しますのでそれまで食事をお楽しみください。ビールはいかがですか」
「頼む」
男はペコリとお辞儀すると去っていく。
机の上に置かれていたメニューを開くと、食事のお値段はピンキリだ。
「お兄ちゃん、僕このマグロの刺身ってやつを食べたい」
「贅沢言うな。宿代の倍はする天然物だぞ。就活がうまくいくまで、しばらく節約生活だ」
「じゃあ、マグロがいっぱい食べれるぐらい出世してね」
「お兄ちゃんに任せとけ」
ニコニコと互いに視線をかわす。内心、なんでハヤクモをお兄ちゃんと呼ばなければいけないのかと思うがぐっと飲み込む。
士官先を求めてサガミを訪れた屈強な兄と弱々しい弟。それが現在のハヤクモと俺の設定だった。
「そこの肉を皿に乗せて僕によこして、お兄ちゃん」
「これぐらいの量でいいか」
「その三倍は欲しい。あとできれば一口サイズに切って欲しいんだけれど。僕がフォークより重いもの持てないの知っているでしょう?」
「そうだったな。ほらこれでいいか?」
「ソースもちゃんとかけて」
病弱弟設定を利用してハヤクモを徹底的に使おうとしても、彼はあくまで弟想いの仮面を崩さない。どこまでいけば剥がれ落ちるだろうかと考えていたら、声が聞こえた。
「ここいらで見ない顔だな。お前さんたちもあれかい? 例の戦争目当てにサガミを訪れた口かい?」
声をかけてきたのは近くのテーブルで連れ合いと食事を楽しんでいた恰幅の良い男だった。彼はハヤクモを品定めするように無遠慮にジロジロ見ていた。
「ええ、士官先を探しているですよ。これは一大チャンスと思い訪れた次第で。なにしろ、弟を食わせねばならんので」
頭に手を置かれると、ゾワりと鳥肌がたつ。俺の中の機蟲がめちゃくちゃ嫌がっている。ハヤクモも同じだろうに構わずに手を左右に動かし頭を撫で続けてくる。先ほどの意趣返しか、この野郎。
「弟は昔、機蟲に襲われ顔にひどい傷を負ってしまいまして。それ以来、人前では顔を晒したがらないのですよ」
男は室内にも関わらずフードを被ったままの俺を見て納得したようだ。
「なんとも可哀想こった。だったらタイミングが良かったな。明日から一般志願兵の募集が始まるんだよ。確かこの宿屋にもチラシがあったはずだ」
「ご親切にありがとうございます。あとで確認します」
「いやーしかし、あの宿敵のヨコハマと手を組み、マチダに攻め入る展開になるとは、この世の中何が起きるか分からなねぇな。前の藩主様が隠居されてヨシツグ様に当主が変わってからこの藩はどんどん変わっていくな」
「は! くだらねぇ!!」
背後で怒鳴り声とグラスをどんと力任せに叩く音が響いた。横目でちらりと見れば、隣の長椅子で壮年の男がわめいていた。顔は真っ赤で相当酔っ払ってヤケ酒をあおっているように見えた。彼はぐいっとコップを傾けると、酒臭い匂いを漂わせながら口を開いた。
「あいつは、しょせん庶子だ。正妻の子であったヨシナガ様こそ、正式な嫡男だったというのに、あの男はヨシナガ様を殺して後継の座を奪い取った、偽りの藩主だ。そんな奴に仕える人間に未来はねぇ! 聞いているのか、そこの男!」
男は立ち上がりハヤクモのそばまで来ようとしたが、完全に千鳥足ですぐにひっくり返り、床に倒れると「何にもうまくいかねぇよぉ……!」とおいおい涙を流し、そのうちいびきをかき始めた。
しばらくして店の者が部屋の端へと転がしていったのを見ると、日常茶飯事のことなのだろう。
「気を悪くしないでくだせぇ。あいつはもともと曽祖父の代から藩主様の家に仕えていて、コネで藩庁に勤めていた人間だったんだ。それをいいことにやりたい放題だったのを見かねたヨシツグ様が諫めて追い出したのさ。それ以来、酒屋で飲んだくれてあのざまさ」
「ヨシツグ様は能力主義者だもんな。家系とか関係なしに能力なしとみなせば容赦なく地位を奪い去る。当然、やっかみが多く敵を作りやすいから、あることないこと噂を流されちまう。まぁお前さんは頭も運も良さそうだ。それ相応の力を見せつければ、いいところまでいけるんじゃないか。弟さんのためにも頑張れよ」
風呂からあがり部屋に戻ると、男らに賭けに誘われていたハヤクモがほろ酔い気分で帰ってきていた。
賭けはハヤクモを大いに満足させる結果に終わったようで、その証拠に上等な酒瓶を手にしていた。
「お兄ちゃん、ものすごく酒臭いんだけれど。ゲロなんかしたら許さないからね」
酒の入っている状態ならハヤクモに勝てるかと思ったが、いつもの機蟲の声は即座に無理だと断じた。
「分かったよ、弟よ。いや、サガミ藩主の元嫡男どのと言った方がいいか? あの男たちも当該人物が目の前にいたとは思わなかっただろう」
「一応、死んだことになっているからね。それも元服前に調子乗って勝手に六本槍を持ち出して、一人で機蟲倒しにいって返り討ちにされて死亡という、目も当てられない理由でさ。あながち間違っていないけど釈然としないよね」
「しかし、それがどうしてマチダにいたんだ?」
「俺のことを憐んだ人が身分を偽って寺に預けてくれたんだけれど、そのあとすぐに周辺藩のいざこざに巻き込まれて寺が燃えて、行く場所がなくて放浪していたところをヒカルに拾われたんだよ」
「そういうことだったのか。それで肝心のヒカルの手がかりはつかめたのか?」
「全然」
出発前にあれだけ啖呵を切っておいて、とハヤクモは口にださないもののその顔にはっきり書いてあった。
しかし、ないものはしょうがない。ヒカルもヒカルだ。サガミで待っている、とメッセージを寄越してきたのに関わらず、他には手がかり一つ残していない。何か見落としているのかと色々当たってみたが今のところ、空振りに終わっている。
「ところで母さんのことで何か情報あった?」
「聞いてもいないのにあっちから教えてくれたよ。噂によれば、兄と共謀してお前を罠にはめて殺したことを後悔して出家したそうだ。本当に会いに行く気なのか?」
「どうしても聞きたいことがあるんだ。それに噂なんて当てにならないよ。母さんは蟲も殺せないような人だ」
「お前がそう決めたなら止める理由はない。だがはっきり言って事情が色々と立て込んでいる。今度ばかりは助けられないからな」
「分かっている。いざとなったら切り捨てられるのも覚悟している」
義母なら俺が生まれた時のことを知っているだろう。
これまでずるずると先伸ばしていた、このちらつく影の正体の答え合わをする時だった。
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