第3話 ヒカル
除染通路を通り、いくつもの扉をくぐり抜け、ようやく辿り着いたセミクリーンゾーンで防護服を脱ぐ。
頭上のモニターでは「気分がすぐれない方は健康管理センターまでお越しください」というアナウンスが流れるが、誰一人として向かおうとしない。もし行けば、採血一回で済むところを検査やら入院やらで面倒になることをみんな知っていた。
先の廊下では両側にスクリーンが永遠と続き、同じアニメーションが流れている。
何千回と見てきた、そしてこれからも見続けるのだろうその内容は、機蟲に寄生されたらどうなるのか、だ。
動画はちょうど、おどけた顔をしたサルが機蟲に産卵管でブスリと刺されるシーンだった。
機蟲に刺されたことを知らないまま、日常を過ごすサル。けれど体内では卵が孵化し無数の蟲たちが生まれ、宿主の体液を吸って脱皮を繰り返し成長していた。
そして明るいポップな音楽が不穏なBGMに切り替わると同時に、サルは青い顔をして倒れる。手でおさえた腹から成長した蟲たちが皮膚を食い破って現れ、なすすべもなく餌となるサルを食べ終わると、蟲たちは蛹となりやがて羽化して成虫になり、新たな獲物を襲いにいく。
『機蟲はとても恐ろしい存在です。ですが安心して下さい』
画面が切り替わると、真っ白な空間に白衣を着た男が現れる。男は微笑を浮かべ、独自開発した殺虫剤の効果がいかに素晴らしいかを語る。
人には害がないと宣伝しているが、嘘っぱちもいいところだ。
防護服越しだろうと浴び続ければ体はだるくなり、熱っぽくもなる。
「あなたの体質によるものでしょう」
この仕事につく前に適性検査のため初めて殺虫剤を浴びた日。
嘔吐し続けベッドに運ばれた俺の隣で、医者は血液検査の結果を見て言った。
「この殺虫剤は細菌で機蟲の消化管の働きを阻害し、死に至らしめるものです。選択的に機蟲にだけ作用するので、人がここまで過敏に反応することはあまりないのですよ。基剤がダメなのか、もしくはあなたの体の一部が機蟲と似通っているのかもしれませんね」
珍しい症例だと散々検査されたが原因は分からないまま、幸か不幸か、殺虫剤を浴びる回数を重ねるにつれ、症状は和らいでいった。恐らく耐性がついたのでしょうとヤブ医者は言った。
日当と一週間分の食料配給コードを受け取り、家に戻ってきたのは日が暮れ始めた頃だった。玄関前で深々と被ったフードを外すと、スイッチが切れたのかどっと疲れが出た。
そのまま部屋に直行してベッドに倒れ込みたかったが、そうはさせじと庭の方から声が響いた。
「おい、殺虫剤臭いぞ。そのまま家に入ったら怒るからな」
裏手へ顔を向けると、同居人のヒカルが顔と真っ赤な髪をススと油で汚しながらバイクをいじっていた。
「ヒカルの方こそ油臭いじゃないか。人のこと言えないよ」
「は? この薪木を焼くような香りが分からないとかニワカか。それにこの調整が終わったら浴びるさ」
ヒカルは立ち上がり額の汗をぬぐうと、腰のストレッチを始めた。背丈も肩幅もそんなに変わらないのに、筋肉は見かけよりついていて、ヒョロヒョロの己と較べてはうらやましいと思ったのは一度や二度ではない。
目を見れば満足はしていない様子だ。この調子だと調整とやらは夜までかかるだろう。
「完成しそう?」
買っておいた栄養ドリンクを手渡しながら隣に並ぶ。ヒカルはサンキュっとつぶやきくとすぐに蓋を開け一気飲みをしてプハッと一息をついた。
「ああ。残すは騒音と排気ガスの調整だ。明日にでも親父さんところに行って相談だな。ついでに脱出経路の確認もしておこう。この藩を抜け出す日はそう遠くないぞ」
「何か手伝うことある?」
「いらん。今日も毒まきで疲れているだろう? いいからシャワーを浴びて早く寝ろよ。その代わり、明日は付き合ってもらうからな」
「分かったよ。んじゃ、お先におやすみ」
手のひらをひらひらと動かし、庭に設置した簡易シャワーへ向かう。服を脱ぎ蛇口を回すとぬるいお湯が体を伝い、本部で落としきれなかった薬剤が流れていく。
(嫌いじゃないんだどな、この臭い)
ヒカルに限らず、マチダの住民は殺虫剤散布の仕事を毒まきと言い従事者ごと嫌っていた。
機蟲は何メートルもある長い産卵管を地面に突き刺し、地下に暮らす人間へと伸ばすこともある。過去にそうやって卵を生み付けられた人間が、あのアニメのように知らず知らずのうちに苗床となり蟲を孵化させてしまったことが地下一層でたびたびあったそうだ。
数年前から殺虫剤を散布するようになってからは、機蟲の被害は目に見えて減り、表向き死者は統計上0人となっている。実際は、地上で死んだ者は行方不明扱いとなっている、というだけだが日の本一安全な藩として人々を安心させるには十分であった。
散布の仕事は簡単だ。所定のポイントで支給された噴霧器の中身がなくなるまでまくだけ。日当は悪くなく、食事も支給されるし医療費交通費住居費も免除。けれど機蟲に殺される危険を承知で最前線に立つ仕事を率先してやる人間は限られており、下の階層で重犯罪を犯して追放されたような、脛に傷のある表の仕事につけない者が大多数であり、好き好んでやっている俺のような人間は少数派だった。
「あの毒が人体に100%影響がない訳ないし、何十年たって支障が起きる可能性もある。人体実験も兼ねているって話だぞ。お前なら他の仕事があるだろう? それなのにどうして続けるんだ? 体を痛めつけたいのか?」
ヒカルとは仕事をめぐって何度か言い争ったこともあるが、他の全部を捨てても、これだけはどうしても譲れない一線だった。
人から期待されるのも、誰かと較べられるのも嫌だった。
他者から望まれる理想の自分を演じて生きて、別の誰かに真っ向から否定されることに恐怖を感じていた。
そもそも、どうして生きているのかという問いは、俺にとってどうして呼吸をしているのか、と同じ質問だった。
意識をして呼吸をしているわけではない。止めようと思えば止められるけれど、わざわざ止める必要性を感じられない。いや、勇気がない。
お腹が減るから食べる。食べ物のために働く。眠いから寝る。朝が来たから起きる。毎日をただ本能に従って漫然と生きている。そうやって、誰の物語に登場することなく、片隅で目立たずひっそりとしていたい。
その点、殺虫剤散布の仕事は非常に相性がよかった。
防護服という規格品を着ることで個性が消される。誰が誰だか分からない群の中、指示された単純作業を淡々と行う時の一体感が好きだった。そう言うとヒカルはわざとらしく、デカデカとため息をついた。
「発想が十代のそれじゃねぇ。まったくどうしてこんな変な奴を拾っちまったんだろう」
「拾ってくださり感謝感激。今日も屋根付きの小屋で生きていけるのも同い年なのにしっかりしているヒカル様のおかげです」
「棒読みの謝意なんていらねぇよ。そう思うなら毒まきやめろって言っているのに、言うことを聞きゃあしない。この頑固ものが」
「でもここでご機嫌を伺うためにやめるような性格だったら、ヒカルは俺のことをすぐに見捨てていたと思う」
「あっているからなおムカつく」
ヒカルは俺の頭をぺしっと叩くと、またどでかいため息をついた。
他人は苦手だったが、ヒカルだけは別だった。
芯があって言いたいことをズケズケ言う表裏のなさが好きで、彼の隣にいると安心した。
ヒカルは俺と違い、力がすべての、弱い人間は搾取されるのが常識の、治安の悪い地下第一層で一人で生きていく術を持っていた。
元々は地下五層の人間だったらしいと、噂好きのご近所さんは聞いてもいないのに教えてくれた。家に住まわせてもらう条件の一つに、お互いの過去を詮索しないことが掲げられているため本人に直接聞いたことはないが、恐らくそうなのだと思う。その証拠に、回収された廃品から、四層や五層でしかお目にかかれないような壊れた高級家電をめざとく見つけては修理して、簡単な使用説明書をつけて一層や二層で売り飛ばしていた。
そんな彼の夢はマチダからでることだった。
マチダは安心という誘蛾灯に誘き寄せられた住民を逃さぬよう、一人一人タグをつけ管理しており、逃げようとすれば強制労働が待っていた。
脱走に成功した人間がいるかどうかは公表されていないため分からないが、失敗した人間は殺虫剤散布時にちょこちょこ見かけていた。見せしめのために、防護服なしで地上へ放り出されるためすぐに分かるのだ。
「こんなジリ貧の藩、絶対に抜け出してやる」
ヒカルがどうしてマチダを出たいのか知らないが、彼の過去に関係しているのだろうと感じていた。
彼は、仕事の合間に時間を作ってはバイクをいじっていた。独立戦争時に作られた無数の坑道をバイクで疾走して逃げると言う作戦を初めて聞いた時は半信半疑だったが、廃品から掘り当てたパーツだけを使ってバイクができ上がっていく様は、彼の不屈の闘神が形をなしていくようだった。本当によくここまで組み立てたものだと思う。バイクのことはよく分からないが、カッコよさは分かる。ヒカルのバイクは今まで見てきた中で一番クールだった。
俺は別にここで暮らすのは悪くないと思っていたがヒカルが望むならついて行きたい。流れるままに生きている俺にとって、ヒカルはその名のとおりの存在だった。
彼のいる庭におやすみ、と呟きベッドに倒れ込み目を閉じると、すぐに眠気はやってきた。
また変わらぬ明日を夢見ていると、どこからか声が聞こえ心がざわめいた。
この声が初めて聞こえたのは二ヶ月ほど前。
最初は一つ。
それが少しずつ増えていき、ざわめきは大きくなっていった。
明瞭な意味をとらえることはできないし、意識をそちらに向けて探ろうとすれば、スッと消える。朝、起きる時には違和感だけを残してすっかり忘れてしまうが、夜になるとまた思い出す。
何が発している音なのか分からない。でも何かの声だとはどうしてか知っていた。日を追うごとに確実に声は大きくなり、こちらへ近づいて来ている。それがこちらに到着した時にどうなるのだろうと不思議に思うが、恐怖はなかった。どこか懐かしさを感じられるからだろう。
音に誘われて、意識は遠のいていく。
また朝になれば忘れるのだろう、と思いながら。
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