【 Irritation:side cigar 】

 その日の朝、出勤前に妻と言い合いになった。


理由は下らないことだ。全員の朝食後、食器の片付けをしている時に妻から、

〝イヤホンの音漏おともれがうるさい〟

〝音楽を聴くのを止めろ〟

と、苛つかれたからだ。


 向こうの言い分は理解出来る。


朝食の準備をし、ぼけまなこの子どもの尻を叩いて着替えさせ、同時に自身の仕事の準備もする。


そんなバタバタと忙しい朝に耳障みみざわりな音があれば、いらつくのも仕方しかたが無い事。


 いつもなら軽くあやまって音楽を切り、いらつきを覚える程の妻の負担を少なくしようと考え、こまめに動くと思う。


しかしこの時は、俺も虫の居所いどころが悪かった。


 (好きな曲を聴いているだけだろうが。)

 (なんで、んな事言われなきゃいけねぇんだよ。)


 本来の性格の悪さが、胸に黒く広がってきた。


 俺だって責任の重さに気分が上がらず、出勤したくない時だってある。


だからって逃げるわけにもいかず、家族の為にかせがなきゃいけない。せめて好きな音楽を聴いて、行きたくない気持ちを抑えて。


(前向きになろうとしてるんだろうが・・・!)


 俺はいつも家庭のことを第一に考えている。どうすれば温かく平和でいられるか。自分の事より妻や子供。それは当たり前・・・当たり前で。


(それでもたまには、自分の事を考えたっていいじゃないか。)


 流石に言葉に出すことは出来ないが、心の中ではドロドロと愚痴ぐちを垂れ流した。


『音楽聴くくらい好きにさせてくれよ』


 心で思うだけのはずが、無意識に小さく、声に漏れ出てしまっていた。


言葉になってしまった事に気付き、慌てて妻の方を見た。妻は目を見開いて驚き、次の瞬間、眉間にしわを寄せていらつきを増した。


 いつもの反応と違う事にも困惑があったのだろう、かぶせるように文句もんくを言ってきた。


(まずいな・・・)


そう思いつつも、だからといって、こちらも言葉が出てしまった以上は引っ込みはつかない。


 互いの立場を理解し、思いやる事はとても大事。だが、気持ちに余裕が無ければ出来ないことなのだ。


些細ささいな事がそれを爆発させた。


 しかし・・・ここで大喧嘩おおげんかをするわけにいかない。自分たちを不安そうに見る我が子の目だってある。怒鳴どなり合うなどもっての外だ。


険悪けんあくな雰囲気の中、〝もう仕事の時間だから行くわ〟と、ぶっきらぼうに言い放ち、通勤用のバッグと車のキーを乱暴につかんで自宅をあとにした。


 ギスギスした気持ちのまま、エンジンスイッチを乱暴に押し、愛用の電子タバコのスイッチを入れた。


加熱を待つ時間がいつもより煩わしい。


紙煙草かみたばこに戻ってやろうかと思いながら、加熱完了のホルダー振動を待った。


 いつもより気持ち、アクセルを強めに踏んでしまう。強めに電子タバコを吸い上げ、強めに水蒸気を吐き出す。


 (やってらんねぇよ!ああ、こんな小さいことでなんなんだ・・・こんな事でいらつく、自分にもいらつく・・・)


 いつもの駐車場に着き、運転席のシートを広げてモゾモゾと動き、ツナギに着替える。


いつもならキチンとたたむか、綺麗に座席シートにかける私服のシャツも、叩きつけるように後部座席に投げた。外に出て服の着心地きごこちととのえ、八つ当たりでドアを強く閉めた。


 弁当を持ってきていない事に気付く。


 (コンビニに寄るか・・・ああもう!)


 会社の隣にあるコンビニでカップ麺とおにぎりを買い、そのまま従業員出入口から事務所へ入る。自分のデスクにコンビニ袋とバッグをドサリと置くと、気持ちを落ち着けようと、給湯室でコーヒーをれてきた。


 一口すすり、少しだけいきをつく。デスクに肘をついてうつむき、くせのある前髪をくしゃくしゃと触った。


 なんとか落ち着かなくちゃいけない。他人様ひとさまの車という、精密機械を扱う仕事だ。ミスをする訳にはいかないんだ。


 (・・・クソ、頭にくる・・・)


 もうすでに、何に対して怒っているかも分からない。なんでこんなに怒りが取れないんだろうか・・・。いつもの俺らしくない。


 事務所に、他の従業員が挨拶をしながら入ってきた。瞬時に顔をあげて穏やかな笑顔を作り、おはようございますと挨拶をする。猫をかぶる切り替えの早さは天下一品だなと、心の中で自嘲じちょうした。


 作業に入るが、独りになるといらつきが再燃さいねんして上手くいかない。いつもなら丁寧に扱うはずの部品も乱雑に手に取り、少しでも思い通りにならなければ舌打ちをしてしまう。


 (上手くいかねぇ・・・)


作業台に手を付き、ため息をつく。


 (いつもはもっとしっかり対処するだろうよ、俺・・・!なんなんだよ!)


 予約で入っていた、車体しゃたい下回したまわりの作業を午前中に終わらせ、交代で取る少し遅めの昼休憩ひるきゅうけいに入った。デスクに戻って、買ってきたカップ麺にお湯を入れ、3分待つ間に電子タバコを吸い始める。


 周りに誰も居ないのをいい事に、椅子の背にだらしなく頭を乗せて上を向き、口を開けたまま水蒸気を吐き出した。


 (・・・仕事なんかしてられっかよ)


 そう思った自分に驚いた。


仕事においては、他人が困っていたり、都合が付かなければ、むしろ率先して仕事を肩代わりしないと自責の念にられるような俺には、とても珍しい事だ。


 頭を上げて、ホワイトボードに目を向ける。


記入してある業務予定を眺めると、後輩に代理が利くような業務ばかり。至急の仕事も、今のところは入ってきてはいない。


(今日は・・・もう・・・いいよな・・・)

(半日くらいサボったって、バチは当たんねぇだろ)


 そう決めてしまうと、少しだけ気持ちが楽になった。急いでカップ麺をすすり込んで食事を終わらせ、早退するための算段さんだんを取る。


 隣の上役部屋うわやくべやに居る上司に、頭痛が酷いと嘘をついて早退の許可をとり、後輩に声をかけて受け持ち業務を頼んだ。


わざとらしく頭に手を当てながら、14時頃、職場を後にした。

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