【Ask】

 午後5時50分。


 冬の暗さも次第に明るさを取り戻し、光をたもって赤く焼けている空が、事務所の窓から眺められる。


 海斗は数分前、作業日報を書きながら、香苗にLINEを送った。


 « おつかれ!こっちは定時確定!そっちは?»


< お疲れ様。こっちは帰る用意してるとこ。6時過ぎには駐車場に行けるよ >


 « りょ! それじゃ後でな!»


< はーい >


 この流れを経て、日報を書く海斗の手が、一段いちだんと早まる。


 いつもより乱雑な字で書き上がったそれを、海斗は、事務所のすみに置かれている日報提出用の白いカゴに投げ入れた。


 バッグを取り出すのももどかしいほどに、かと帰宅準備をすると、すぐさま事務所の出入り口を出る。


 今にも踊り出しそうな両足を抑え、足早にいつもの駐車場へと向かう。まだ薄暗うすぐらい道が、いつもより明るく見えるなぁと、海斗はぼんやりと流し見た?


 いつもの駐車場に戻り、歩行者用の通路に入ると、見慣れた女性の後ろ姿が視界に入る。


 事務服に、地味めなシュシュでポニーテールにまとめられた髪。駐車場の奥へといそぎ歩く、その後ろ姿。


 海斗はバレないよう、静かに小走りで近づき、驚かそうと、突然声をかける。


『かーなーえ! おーつー!』


「ふあ!?」


 ビクッと肩を震わせ、目を大きくして、香苗は後ろに振り返る。イタズラが成功してニシシと笑う海斗を見ると、胸をなでおろした。


「ああもう、ビックリしたー 」


『へっへ、いつかのお返し』


「そんな事もあったわね…」


『忘れたとは言わせないぜい!』


「そうね。はいはい、お疲れ様ね」


 初めて出会った時に、突然声をかけられて驚かされた事を引き合いに出し、海斗は更にニヤニヤと笑う。香苗は苦笑しながらも、楽しそうに海斗に挨拶を返す。


 それぞれの車に戻り、海斗は荷物を置いて、私服に着替える。香苗は助手席に置いていた小物こものを後部座席へと片付けた。


 着替え終わった海斗は、香苗の車に近づく。


『香苗の車、乗らせてもらって大丈夫?』


「そうね、いつも通り」


『いつも悪いな』


「まぁ……そーゆーものだから」


 既婚者の海斗と未婚の香苗が同行する時は、香苗の車に乗ることを暗黙の了解としている。〝あんな事〟をしてしまった後、その思いは余計に強くなっていた。


 海斗が助手席に乗り込みシートベルトを締めると、香苗も同時に運転席に乗り込み、いつものカラオケ屋へと向かう。


 5分程度しかない道中どうちゅうの車内では自然に、昼間に偶然、出くわした話になる。お互いに驚いた顔が面白かった、意外な感じだったなどと喋り合っているうち、いつものカラオケ屋へと到着した。


 いつもの様に奥まった場所へ停め、並んで歩く間少しだけ距離をとるのは、いつもの通りだ。


 ガタガタと立て付けの悪い自動ドアから入り、カウンターにいる無愛想ぶあいそうな店員に向かう。海斗が会員カードを出しながら『2時間で』と伝える。


 店員が手馴れた様子で処理し、マイクとフリードリンクのコップが2つずつと、伝票が入っているカゴを差し出されると、香苗が流れるように受け取り、指定の部屋へと向かう。


 部屋に入る前に、廊下にあるドリンクバーに立ち寄り、カゴからコップを取り出す。海斗はアイスコーヒー、香苗はウーロン茶のボタンを、それぞれに押した。


『いつ来ても、最初を思い出すよ』


「そうねぇ、会員カード同時出しとかね」


『あったなー』


「私達、似てるって思ったわね、あの時は」


 たわいの無い話をしながら、指定の部屋へ向かい、厚いドアを開ける。


 いつも感じる、遮断された心地よい空間を感じながら、香苗はソファにそっと荷物を置いた。手ぶらで来た海斗はカラオケマシンに近づき、暗黙の了解のマイクの音合わせを始める。


 マイクの頭を軽く叩き、アーアーと声を出してふざけ合いながら、本体の音量やエコーのツマミを細かく回す。好みのチューニングになると、向かい合わせにソファに座った。


『ではでは』


「ふふ、偶然に」


「『カンパーイ』」


 二人はコップをカチリとぶつけ、これから歌う意気込みも含め、1口飲んだ。


『よぉぉし!いこ!』


「歌お!」


 二人は若い頃のように一気に盛り上がり、思い思いに好きな曲を入れ始める。海斗はメロディアスな曲を、香苗はハードロックを。共通しない音楽の趣味は、むしろ、お互いを認めるきっかけでもあった。


 小一時間こいちじかんも歌えば、どちらからともなく、休憩をする雰囲気をかもし出した。香苗は歌い終わった海斗に、廊下の突き当たりのすぐ近くにある喫煙所へとさそった。


 引き戸をあけ、色んな種類のタバコが混ざった匂いの、狭い空間へと入る。幸い他に誰も居らず、二人はスタンド灰皿の前に立った。


 香苗はがま口のタバコケースから細いタバコを1本取り出し、海斗は電子タバコのスイッチを入れる。


『それにしても、香苗の印象が変わったよ』


「あー、今日?」


『うん、あんなに表情が変わるのは、初めて見た』


「え?そんなに?」


『え、分かってないのか?』


「うん」


『マジかー…』


「海斗こそ、見直したわね」


『だろぉ?こう見えても仕事人間だからな!』


「頼りになると思ったのは、初めてね」


『え? は、初めて??』


「あ、つい」


 苦笑にがわらいし合ううちに、海斗の電子タバコの加熱完了振動が来る。それを口元に運ぶ海斗を見て、香苗も煙草に火をつける。


 深く深く吸い込み、二人同時に、長く煙を吐き出す。


『なぁ』


「んー?」


『香苗ってさ、前は何やってたんだ?』


「……なにが?」


『いや、なんとなく』


「別に、普通に」


『……そっか』


 香苗の、明らかな拒否感を嗅ぎとると、海斗はそのまま言葉を飲み込んだ。


 沈黙してしまった香苗から目を逸らし、気まずい空気を消すように、また一口、水蒸気を大きく吸い込んだ。

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