【Light】

 海斗の話をさえぎり、部屋を出た香苗は、足早に階にあるトイレの手洗い場へとい、すがりり付くように、鏡に自分の顔を写した。


 思ったより無表情の自分に、目付きを鋭くする。


 不器用に自分を追い詰める海斗の想いに、香苗はそのまま手洗い場のふちに手を付き、眉をしかめて下を向く。


 海斗の独占欲が強い事はよく分かっていた。だからこそわざわざ、心の深い場所に触れる事を拒絶していたのに。


 それなのに、それなのに、心配というにせの感情でわざと踏み込んできた海斗に、苛立ちすら感じる。


きらわれたく、ないのに」


 思いがけず、つるりと漏れ出た自分の言葉に、香苗はハッと顔を上げた。目の前の鏡には、目を見開く自分が写る。


 自分の過去を語れば、海斗はショックを受けるだろう。それが分かるから、どうあっても言うわけにはいかない。


 香苗は、今まで目をたそむけていた感情と、不意に出てしまった言葉が絡み合い、観念かんねんするように吐き出す。


「私は、海斗の事が……好きなのね……」


 諦めとも納得ともつかない言葉を飲み込んで目をつむり、大きく一つ、深呼吸をする。


「そんなこと、認めるわけにいかないのよ」


 既婚者に恋慕れんぼなど、許されない。


 香苗はそう決心すると、冷静を取り戻す為に、手洗い場の蛇口じゃくちの下に手を差し出す。


 勢いよく出てくる水の冷たさをじっくりと感じる。


 備え付けのハンドソープを手に取ると、丁寧に手をこすり合わせた。想いと一緒に、丁寧に泡を洗い流し、備え付けのペーパータオルで入念に手を拭く。


「これで、もう、大丈夫」


 ポツリとつぶやくと、そのまま部屋へと足早に戻る。


 香苗がゆっくりとドアを開けると、明らかに心配顔の海斗が声を掛けた。


『あ、おかえり……』


「ただいま。あれ、歌ってなかったの?」


『歌えるかよ』


「ふふ、そう?」


 とぼけて、薄く笑う香苗が、また別人になった気がして、海斗は再び焦燥感を覚える。


『香苗……?』


 海斗の呼び掛けに香苗は答えず、海斗とテーブル越しの向かい合わせにソファに腰掛け、こともなげにセリフを吐く。


「何かあったら私を助けたいって、さっき言ってたわよね」


『うん、言った』


 即答する海斗に、香苗はゆったりと目を細めた。


「たしかにね、私は一人暮らしで、他に頼る所もないわ。倒れたりすれば、大変よね」


『そう、でも、香苗の事をちゃんと知れば、すぐ駆けつけたりできるから……』


「海斗はさ、私の事が分からなくて、それが出来ないんじゃないかって、不安なのね」


『そう、かな』


「それなら、私の過去の事なんて知らなくてもいいじゃない」


『うん、でも』


 香苗は、続けようとする海斗の言葉をさえぎる。先程さきほどとはちがい、優しくさとすように。


「今のまま、居てよ」


『え?』


「友達でしょ。変わらずに居てよ」


『うん……』


「灯りでいてよ」


『あかり?』


 思いがけない言葉に、海斗は不思議そうに、香苗の方を向いた。


「そう。私は、海斗をそう思ってるから」


 物憂ものうげなのか、微笑ほほえんでいるのか分からない顔の香苗に、海斗はそれ以上なにも言うことが出来なくなった。


『……そう、か。わかった』


 海斗がそう答えると、香苗はまた一口ウーロン茶を飲む。海人も、全てを飲み込むように、コーヒーを一口飲み込んだ。


「そしてね」


 香苗はコップを置くと、海斗の方を向かずに、ゆっくりと、言い放つ。


 本心を抑える、柔らかな仮面をかぶったままで。


「海斗の幸せは、家族にあるって事を、忘れちゃ駄目よ」


 そう言い放ち、香苗は、雰囲気に合わず流れるカラオケの騒騒そうぞうしいCMを、意味もなく眺めた。


 海斗は、指を組んで下を向き、それ以上何も言えなかった。香苗は続けて言い放った。


「これでも私はね、海斗の幸せを願っているのよ」


『香苗……』


「海斗の事が、大事だからね」


 海斗が顔をあげると、いつもの薄い笑顔に戻っている香苗が目に映る。


「海斗は、私のあかり。色んな意味で。だから、海斗は、自分の幸せを考えなきゃね」


『色んな意味?』


「そうよ」


『どういう、ことだ?』


「あなたが幸せでいるなら、それでいいって事」


『……わかんねぇよ』


「わかんなくていいわ」


 海斗は、香苗を真っ直ぐに見つめると、静かに言い放つ。


『お前の〝本当〟って、なんなんだ?』


「……え?」


 海斗からの予想外の言葉に、香苗は振り向いた。


『ひとりで〝本当〟を探してるんだろ』


「何を言ってるの?」


『だから俺が、気になるんだ?』


「何のことよ」


『家庭があって、調子が良くて、仕事が上手くいっている海斗が〝幸せ〟だと思っているんだろ』


「……ええ」


『この前〝それ以外〟を、お前にみせたよな』


「そうね」


『俺だって〝本当〟なんて、どこにもないんだよ』


「まあ……ね」


『お前は、ひとりで、それを過ごしてきたんだな』


「だからそれは」


『もう聞かない、聞かなくていい、でも』


「なに?」


『俺には、どんな過去があろうと、それを経てきた今の香苗が〝本当〟だから』


「そう……ね」


 抽象的な言葉を使い、まとまらない話をしてくる海斗が何を言いたいか、香苗はなんとなく察した。


 少し柔らかくなった沈黙の中、鋭くコールが鳴り響く。近くに居る海斗が受話器をとり、終わるむねを伝える。


 部屋を出て、いつものように会計を済ませた二人は、また香苗の車に乗り込み、いつもの駐車場へと向かった。


 軽くなった雰囲気に、車内はいつもの無駄話が飛び交う。二人はあからさまにホッとしながら駐車場に到着し、置いてある海斗の車に、香苗は横付けする。


 助手席から降り立ちながら、海斗はなんでもないように香苗に声をかける。


『な、香苗』


「どうしたの?」


『俺はさ、たしかに近くには居れない。でもちゃんと、〝友達〟として、そばにいるからな』


 そう言うと、海斗は答えを聞かずに自分の車に乗り込む。それを見届けた香苗は、声に出さずに〝ありがとう〟と呟いた。

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