【Refrain:side cigarette】

一体、何年ぶりだろう

満ち足りた気持ちがずっと続くのは。


通勤用の地味なパンプスを履きながら、玄関の定位置に置いている車のキーを取る。ひとり暮らしの部屋を背に、無言でドアを開ける。


朝の光のまぶしさが、電気を消した部屋にするどし込んで、くらみすら覚えた。


アパートの駐車場に置いた自車のロックを解除して乗り込み、車のキーを差し込んで回す。ブルンと音を立ててエンジンがかかり、あたたまるまでと、煙草を1本くわえる。


流れるように火をつけ、深呼吸をするように、大きく吸い込む。


生活費の為だけに行く仕事へのうれいと一緒に、少し開けた窓に向かって煙を吐き出す。


1本を吸い終わると吸殻を押し潰し、ゆっくりと発車させた。


数日前


私は、罪を犯してしまった。


いつも使っている駐車場で、綺麗な声で歌う男性と意気投合した。お互いを知るうちに、いつもは言わない本音が、口をすべり出るようになった。


素直で犬の様に可愛い印象のその人は、いつもは穏やかで軽口を言うのに、誰にも言えない弱音をこぼした時、受け入れ、なぐさめたいと思った。


久しぶりの、感覚だった。


これまでの経験から自らの心を凍らせ、誰であろうと私には関係ないと、人をこばんでいたのに。その時は強い母性と快感があった。


だが、相手は既婚者だ。自分を、そして相手を大事にするのであれば、確実に隠し、罪を繰り返さないようにせねばならない。


そして、ひとりで生きていくと決めた事、それはつらぬくつもりでいる。


それなのになぜ、後悔を感じないのだろうか。


いつもの私なら、失敗したと思えば、反省と対策が、頭の中でグルグルと機械のように処理される。


なのに・・・


あの事は、凍らせた心を少しだけ溶かすようなあたたかさをもたらしていた。昔はあったであろう、人の感情がほんの少しだけよみがえる。私の中にそんな物がまだあったのかと、驚きさえ感じる。


不貞を犯してしまったという事実にさえ目をそむければ、これまでより少しやわらかな日々を過ごす事が出来ているのだ。


愚かと言えば、愚かなんだろう。


何かよく分からない充実感が身体に満ちている。忘れていた感覚。だからと言って誰でも良い訳では無い。


その男性じゃないと考えられない。


行き倒れた旅人に、差し向けられた温情おんじょう

そんな場面に近い。

その温情おんじょうが、本当は独占欲だったとしても。


ああ、馬鹿だな、私は。

理解していて、またほっしてくれと願う。


いつもの駐車場に着き、いつもの場所、一番奥の人目ひとめにつかない一画いっかくへ車を停めた。渋滞が無かったせいかいつもより早く着くことが出来た。時間に余裕があるなと、また煙草を1本取り出した。


その時に、見知みしった車があるはずの方へ目を向ける。


あの男性は・・・海斗はまだ来ていないようだ。


駐車場の出入口を入ってすぐ、壁伝かべづたいにある、とある会社が借り上げている一画いっかくの一番奥の端。海斗の車は無く、ぽっかりとした空間にグレーのへいがあるだけ。


それを見た時、短いいきをついた。


顔を見れないのは淋しい・・・けど、

心を持っていかれそうで怖い。


少しの失望と安堵あんどを覚えてから、そんな自分にハッとした。〝私はこんな事を考える人間じゃないはず〟と自問自答し、焦りを覚えた。


今のは・・・母性や快感だけじゃなかった。

違う感情だった。


駄目じゃないの・・・私。


あの時は、海斗が辛そうにしていたから、友達としてなぐさめようと思っただけ。たまたま男女だったから、あの流れになっただけで・・・。こんな事思うこと自体、家族を大事にしている彼には、迷惑になってしまうじゃないの。


そして、私自身、ひとりで生きると決めたのよ。誰かに愛情を向けた所で、裏切られて終わりなの。ずっとそうだった。両親も、兄弟も、今までの恋人達も。自分自身の身体さえ、私の希望を裏切っているじゃないの。


〝一番愛さなきゃいけないのは自分〟なんだから。



・・・〝愛さなきゃ「いけない」〟?



〝愛したい〟のは誰の事?



止めよう。そんな事に気づいた所で、何もとくなんか無い。海斗は、偶然出会って歌という共通項で意気投合した、大事な〝友達〟よ。


それが一番、幸せなのよ。


ああ、こんな歳になって、また同じ間違いを繰り返すつもり?もう捨てたはずの、人のきずななんて、信じちゃいけない。


それが嬉しいと感じる自分が、一番の愚者ぐしゃだ。


様々な思考が頭をよぎるが、いきを煙草と一緒に押し潰し、車から降りて、会社へと歩いていく。


正面玄関から入り、靴箱くつばこの前で室内用のサンダルにき替える。キッチリと揃えてパンプスを入れ、自分のデスクに向かう。


後ろにあるロッカーにバッグを入れ、飲み物とスマホを取り出し、デスクの片隅かたすみに置く。


PCの電源を入れ起動を待つ間に、事務所に入ってくる隣のデスクの同僚に挨拶をする。人に心を開かなくても、上辺うわべだけで笑顔を作るのは得意だ。


いつもの書類に加え、年度末はファイル書類の整理や、新年度に向けて、相手先からの急な書類作成依頼も多い。


残業になるかしらね・・・

海斗も、仕事が詰まり残業があると言っていたわ。

帰りの駐車場で、ばったり会うかもしれない。


そう考えてから、またハッとした。


残業の疲れより先に、海斗の行動の予想が思い浮かんだ。どうしてよ、こんな頭から離れない様な恋愛感情なんて、意味無いわ。


・・・


〝恋愛感情〟?


ああ・・・はっきりと、自覚してしまった。


〝これは恋心なのだ〟と。


駄目よ・・・


〝友達〟でいないと・・・


壊れるのが怖い。

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