【Coffee】

 午後8時。


 辺りが暗くなり、う車のライトが眩しく感じる頃、駐車場へと続く暗い道を、リズムの良いヒールの音が響き渡る。


 香苗は、年度末ねんどまつ恒例こうれいの書類の山に追われ、定時よりもかなり残業をしてから事務所を出た。


 独身である香苗は、子供のお迎えがある同僚を先に帰らせ、その分の仕事を請け負う事が多かった。


(そんな事をしても、給料はあまり変わらないのにな)


 だが、女性社会を穏便に過ごしている手前、恩を売っておくのも悪くは無い、という気持ちに切り替える。


 あまりにもこなす書類が多ければ、むしろ達成感は大きい。疲れというよりも、やっと帰れるという喜びを噛み締め、駐車場に向かう。


 同時に、スタスタと軽快に鳴るスニーカーの足音。


 海斗も同じく、年度末で押し寄せる修理や購入依頼、同時期に来るタイヤの交換に対応し、遅くまで仕事を受け持っていた。


 もうすぐ1年目が終わろうとする新人後輩が、初めて迎える、年で一番の繁忙期はんぼうきに疲労の色を隠せておらず、〝少しずつ慣れた方がいい。今日はもう帰って休みな〟と、先輩風せんぱいかぜを吹かせた。


(まあ・・・帰りが遅くなるけどな)


 少しの後悔は感じるが、それよりも後輩が倒れる方が問題だ。慣れている自分が仕事を受け持つ方が、精神的には楽だ。


 あらかたの仕事をませ、明日の予定を整理し、使う材料を揃えてから帰り支度をして、解放感と共に従業員出入口を、背伸びをしながら自車のある駐車場に向かう。


 頼りない街灯がいとうで照らされた、薄暗い道。


 ヒールの足音に、スニーカーの足音が追いつき、嬉しさをにじませた声が弾むように響く。


『よぉ香苗!おつかれ!』


「あれ、海斗?おつかれさま。遅くまで大変ね。」


 香苗が後ろを振り向くと、街灯が照らす微かな光の中に、小走りで来た海斗が見えた。


 やっぱり犬みたいで可愛い。ブンブンと振っている尻尾が見えるようだと、香苗はフフっと笑う。


『そっちもだろー?大変だよな、この時期。』


「覚悟してるけど、毎年きっついよね。」


『だよなー・・・ おっと、なんか飲む? コーヒー買うけど。』


「あ、オゴり? やった、ありがと。」


 もう閉店時間を過ぎてシャッターが降りた小さい商店に設置された、違和感があるほど浮いて光る自販機の前で、二人は立ち止まる。海斗が千円を入れ、それぞれに好きなボタンを押した。


 海斗はブラックコーヒー。香苗はカフェオレ。


 数日前あんな事をしたのに、変に意識する事無く、〝友達〟として接し合っている。少しの罪悪感を心に隠してはいるが、互いに互いを感謝していた。


 話しながら並んで歩き、いつもの駐車場に辿たどり着く。まだ話し足りない二人は、海斗の車に近づいていき、脇にある塀に背中で寄りかかる。それぞれ手に持っているホットコーヒーを開けた。


「ブラックって、眠れなくなんない?」


『んー、俺、すぐに眠くなるからな~。あんまり思ったことねぇな。』


「そうなのね。」


 香苗から話題を振るのは、少し珍しい事だ。海斗は話題を引き延ばそうと、香苗の持っているカフェオレを軽く指差す。


『カフェオレとそんなに変わらんとおもうけどなぁ。香苗は眠れなくなるのか?』


「んーまあ、ブラックどうこうじゃなく、寝付きは悪いね。眠れない時もあるわ。といっても、寝れる時は長時間起きないけど。」


『不規則なんだな・・・神経使ってそうだもんな。』


「そんな事もないけどね。」


『そっか。』


 海斗が気をつかってるのを察し、香苗はかすかに表情を柔らかくした。


「ふ、相変わらずお優しい事で。」


『そーゆーわけじゃねぇけどさぁ・・・。』


「あんまり、私に気をつかってくれる人って居ないのよ。」


『そうか?』


「職場じゃ人当たり良くしてるけど、仕事に関しては厳しくしてるし。」


『はは、それっぽい。』


薄情はくじょうとか冷徹れいてつとか呼ばれてるわ。」


『えー、ひどくね?』


「そうしてるからね。言われて当たり前。」


『・・・本当は、優しいのにな。』


 穏やかにつぶやく海斗から、香苗は目をらした。何も答えずに静かに微笑ほほえみ、カフェオレを1口飲む。これ以上しゃべると心がコトリと落ちそうになる。


 海斗の何気なにげない、こういう所にかれる。

 そして怖くなる。


 ああ、嫌だ。こういう人に、何度も騙されてきた。最初はみんなこうしてやってくる。そして自分の事を知ると、利用しようと、本性をあらわにしてくるのだ。


 海斗がどうかは分からない。だが、〝友達〟のままでいればこの穏やかな関係が続くのだと、香苗はみずからをりっした。


 話題を変えようと、香苗はぬるくなったカフェオレを一気に飲み干して、再び話し始める。


「忙しい時期終わったらさ、またカラオケ行こうよ。黙って仕事してるから、喉がにぶっちゃいそうなのよね~。」


『喉がにぶるって、なんだそりゃ。』


 海斗は目尻にシワを作り、楽しそうに笑う。香苗の真似をするように、ブラックコーヒーを一気飲みした。


「さてさて、夜遅よるおそいし、そろそろ帰ろっか。ごちそうさま。」


『いやいや、こんなもんで良ければいつでも。』


「あは、気前きまえいいじゃない?」


『だろー? さすが俺!』


 二人は笑いながら軽口をきき、手を振りあって別れ、それぞれの車に乗り込んだ。


 煙草を取り出し、火をつける。

 ホルダーのスイッチをいれる。


 少しだけ交わしたなんでもない会話。

 これがこんなに疲れさえも癒すのかと、二人は別々の場所で、想いを噛み締めた。


 香苗はスマホを取り出し、LINEのアイコンをタップする。感謝の気持ちを伝えたいが、迷惑になるような文面にはしたくない。


 少し考えてから、なんとなく買ったスタンプの一覧を表示させる。海斗がよく使う、犬のデザインのものだ。


 その中から〝ありがとワン!〟と、犬が可愛くお辞儀じぎをしているものをタップする。


 すぐに既読が付き、シュパッと言う音と共に、〝どういたしまして!〟と犬が親指を立てているスタンプが送られてきた。1分ほどおいてから〝またね!〟と、犬が手を振るスタンプがLINE画面に現れる。


 こんなスタンプのやり取りだけで、なんでこんなに嬉しいんだろう。まるでうぶな中高生だと、香苗は苦笑いを浮かべた。


 でも・・・やっぱり、どこかで警戒している。


(どうせそのうち、私には興味が無くなるくせに。)


 今まで皆そうだった。


(海斗だって、いまにそうなる。だって、海斗には自分の家庭があるじゃないの。帰る場所がある人でしょう。)


 気遣きづかってもらった嬉しさと同時に、過去の経験のつらさが湧き上がり、海斗にまで決めつけをしてしまう。


 海斗は、最近仲良くなった友達。今までの人間関係とは何も関係ないのにと思いつつ、香苗は助手席にスマホを強めに放り投げた。

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