【 Silence 】

 何年かぶりに本能を解放した二人は、心地よい疲労感ひろうかん充足感じゅうそくかんいしれた。海斗は、先程さきほどまであった不安と疲労が払拭ふっしょくされ、いとおしむように香苗をまた抱きしめた。


 しかしそれはつかの夢にぎない。


 少しずつ理性が戻り、時計に目を向けると、既に入室から1時間半が経過していた。


 汗でべとつく身体からだを流す為、順番にシャワーを浴びに行く。一緒に行ってしまっては、また行為をほっしてしまうだろうと思った。理性を取り戻した二人は、そんな時間に余裕は無いとわかっていた。


 二人はシャワーで汗を流し終えると、ベッド周りに脱ぎ散らかした服を再び着る。冷静を取り戻すように、ソファに並んでまた一服した。紫煙しえんが、水蒸気が、先程さきほどよりもまろやかに感じられた。


『ありがとな』


「うん」


 それだけの会話で、全てを分かり合えた気がした。


 それから二人は部屋を出て、香苗の車に戻ると、きらびやかなホテルを後にした。少し眠気を感じる二人は、目を覚ますようにまた喫煙きつえんしながらいつもの駐車場へと戻る。


『なぁ』


「んー」


『次・・・は』


「・・・決めないでおこう」


『そうだ・・・な』


「約束は、しちゃったらさ・・・」


『わかってる』


「どうしてもの時だけ、だよ」


『わかってる』


「偶然の時だけ」


『・・・わかってるよ』


「うん・・・」


 冷たい言葉なのだろうかと、香苗は少し後悔した。それでも海斗の・・・いや、お互いの為だ。所詮しょせんなぐさめあっただけ。それは分かってるから、海斗も淋しさを乗り越える様にうなずく。


 許される事じゃない。

 法律はみとめてはいない。

 社会もみとめてはいない。


 流石、仕事をサボった時に偶然出会っただけはある、ずるい関係性。だがそれが、お互いの身勝手な負の感情を落ち着かせているのも事実で。


 ずるい、ずるいな。

 こんな事してしまったのに。


 必要悪ひつようあくなんて聞こえはいいが、詰まるところは罪、共犯だ。絶対に誰にも悟られてはいけないと、二人は先程の出来事を、胸に閉じ込めた。


 駐車場に着き、香苗が海斗の車の左隣ひだりどなりに静かに停車すると、海斗は助手席から降り立った。


 すぐ目の前にある、自車の運転席のロックを解除してドアを開ける。先程の熱が嘘のように、車中は静かで冷たい。


 ああ、さっきの事は本当だったのだろうか。それすらもうたがいたくなるほど、そこには空っぽの空間しか無かった。


 運転席に乗り込む前に、海斗はどことなく淋しそうな笑顔で、香苗の方を振り向く。


『じゃあ・・・』


「うん」


『また・・・ね』


「・・・うん」


 香苗は強がるように、少しだけ笑顔を浮かべて手を振り、先に車を走らせた。


 海斗はそれを見届けると、シートに深く座り、また電子タバコのスイッチをいれた。シートを少しななめに倒してゆったりと背をもたれ、先程の出来事を反芻はんすうする。


 いつもは冷静な香苗があんな姿をさらけ出すのは、今、俺の前だけなんだろうか。


 疲労感の中に、少しの独占欲がよみがえってきた。・・・いや、今はもう考えてはいけない、海斗は頭を振って考えをはらった。


 その時、ホルダーから加熱完了の振動が来た。深く深く吸い込み、思い切り吐き出す。


 今から俺は〝良い夫、父親〟に戻らねばならない。これを吸い終わったら、いつもの俺だ。


 そう決意し、また一口、水蒸気を吸い込んだ。


 これから


 海斗はあたたかい家族が待つ家庭に帰り、妻が用意した夕飯を食べ、我が子が学校であった事を必死にしゃべるのに、温和おんわな笑顔で耳をかたむけるのだろう。


 香苗は、冷蔵庫に入っているありあわせの食材で1人分の夕飯を作り、味を楽しむ事なく流し込み、家事を済ませて、仕事の準備をするのだろう。


 何事も無かったかのように、

 何も責任など無いかのように。


 それなのに、身体に熱だけは微かに残ったままで。


 なんてあやふやな想い。

 でも、それでいい。

 それが、自分達だ。


 元々、むすんではいけない関係なのだから。

 ただただ、堕落だらくして満たしあっただけ。


 それでも仮初かりそめに感じた互いの体温を思い出し、大事に抱きしめるように、それぞれ独りで眠りにつく。


 翌朝


 また、朝が始まる。


 海斗はあわただしく顔を洗って、髪をセットし、妻が用意してくれた朝食をかきこんでから、車に乗り込む。


 香苗は毎朝まいあさ決めているトーストをかじり、ブラックコーヒーで流し込んで、定刻ていこくに部屋を出て車に乗り込む。


 今日から、今までと少しだけ違う事。


 いつもの駐車場で、互いに友達だと踏みとどまっていた相手を、今まで以上に目で追ってしまうだろう事。


 確証は求めない。それでも、都合つごうの良い時には相手を感じて安堵あんどする。香苗は、胸元むなもとに付けられた赤いあとを服の上から守るように触り、少しだけ海斗の存在を意識した。


 久しぶりの行為をした次の日だ。まだ、疲労感が付きまとっている。嫌な気はしないが、仕事にはさわりがあるかもしれない。


 ああ、なんなんだろう


「『 良くない事は分かってる 』」


 それぞれの車中で、同時につぶやいた。

 一緒にいるわけでもないのに。


 そうやって


 先端に火をつける。

 本体のスイッチをいれる。


 法律が認めている薬物。

 自分たちとは似ているようで真逆の物。

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