【Avoid】

 月曜日


 前日の日曜日、泣き腫らした目を気にして外出がいしゅつをする気にもならず、部屋に引きこもって眠りに眠りった香苗は、少しだけ早く出社しようと、準備をして部屋を出た。


(海斗に、会いたくない)


 面と向かえば、どんな態度を取ればいいのか分からない。自然に話せる事に、自信はない。かといって冷たく接してしまうのも間違っている気がする。


 ぐるぐると考えた末、自分が冷静に落ち着くまで、海斗をけようと結論づけた。


 30分だけ早く駐車場に着くと、やはり海斗の車はまだ無い。妙な安堵感が胸に広がり、いつもの奥まった場所にめた。


 いつもの香苗なら、一服しながら仕事への気分を整えるが、そのまま煙草を吸うこともなく、そそくさと降りて会社へと足早に向かった。


 わざとらしく笑顔で挨拶をしながら事務所のドアを開けると、既に居た工事部長から〝おや、おはよう。随分ずいぶんと早いじゃないか〟と声を掛けられる。


〝早く起きちゃったんですよね〟と、適当な嘘を並べながらロッカーに荷物をいれると、自分のデスクの後ろにある、様々な申請様式を入れている引き出しから、1枚の用紙を取り出した。


〝フレックス勤務申請・報告書〟と書かれたそれに、翌日から1ヶ月間の日付と、その横の予定時間に10:30~19:30と記入をする。


 そのまま工事部長の元へ行き、承認をう為に差し出すと〝フレックス?突然どうした?〟と、当然の事ながら尋ねられる。


「私は週に2~3時間の残業がありますが、同僚との就業時間の兼ね合いの為で。私が多少遅く来て、引き継げば良いだけかと。同僚もそれを気にしてますし、私も負担が減ります。残業代も発生しません。良いことばかりですから、試行的に1ヶ月ほどやってみませんか」


 香苗は、前日に必死で考えた建前たてまえを、工事部長へと一気まくしたてた。


 珍しく語る香苗に、多少圧倒された工事部長は〝ほう…?まあ、事務たちで考えがあるなら、やってみな〟と、承認欄へとサインをした。


 それを受け取り、総務部へと行く。同じ理由を説明しながら総務部長へと提出すると、〝そうねぇ…働き方改革も必要か…社長には話を通しておくわね〟と、承認印を押し、受領された。


(これで、1ヶ月は海斗と会わなくて済む……)


 フレックス申請の本当の理由が〝海斗と駐車場で会わないようにする為〟である事は、誰にも言わない様にしようと思いながら、自分のデスクへと戻った。


 隣に同僚が来たところで、提出してきたばかりの申請書の話をした。申し訳なさそうにしながらもホッとした表情の同僚に、私的に利用した気分になった香苗は、申し訳なくなった。


(皆の都合が良いなら、それでいいじゃない。私は悪くないわ)


 言い訳を心の中に並べ立てながら、香苗はパソコンの電源ボタンを立ち上げた。


 同時刻。


 家族の前ではなんでもない振りをしながらも、せかせかと自宅を後にした海斗は、電子タバコを吸う気にもなれず、駐車場へと到着した。


(香苗と、何を話せばいいのか。でも、なにか話さなくちゃなんだ)


 そんな海斗の目に飛び込んできたのは、もう既に人の影が無い、香苗の車だった。


(今日はもう、行っちゃったのか……)


 香苗と話すことが出来できずに肩を落とすと、海斗は、自分の指定の場所に車を停めた。いつものようにモゾモゾとツナギへと着替えるが、仕事に向かう気持ちに切り替える事は難しい。


 ため息をつくしかないが、それでも仕事は待ってくれない。重い足取りのまま、海斗は職場へと向かった。


 ・・・


 午後6時。


 香苗はまだ、自分のデスクにいた。


 急ぎの仕事は特に無いが、ファイリングしなくてはならない書類は、引き出しに入れっぱなしだ。たまには、片付けなくてはならない。


(海斗を避ける為の、言い訳だけどね……)


 自分の都合で会社に残り続ける事に後ろめたさを感じ、定時でタイムカードは押してしまった。


(今、帰ってしまえば、駐車場で海斗と会ってしまう。顔を合わせたくない。何を話せばいいか、分からない)


 その一心いっしんで、すぐに処理する必要も無い書類を仕分けし、ふたつ穴をあけ、ファイルにじるという作業を続けた。


 工事部長から〝さっきタイムカードを押してただろう? 早く帰りなさい〟と言われるが、静かに微笑ほほえみを返すだけで、香苗はなにも答えない。


 何かあるのだろうと、肩をすくめながら帰宅準備をする工事部長に、香苗はまた薄く微笑ほほえんだ。


 叩き上げの頑固者で扱いづらいくせに、こういう所では口を出しすぎない。香苗が工事部の事務を希望する理由は、ここにあった。


 少しの疲れを感じて深呼吸をすると、香苗は給湯室へと向かった。皆が持ち寄って置いているスティックコーヒーの中からカフェオレを選び、愛用のマグカップに入れ、湯を注ぐ。


 デスクに戻り、1口啜る。身体を走る温かさに一息つくと、海斗が完全に居なくなるであろう時間を目指して、また書類のファイリングを始めた。


 同時刻。


 海斗はいつもの日報を書き上げ、帰宅準備をして、自分をかすように駐車場へと向かった。


(香苗、まだ居るかな)


 いつもの駐車場の歩行者用道路に入り、奥を見つめると、香苗の白い車が見える。人影はまだ無いが、少しの希望が、海斗の心にともる。


(少しだけでも、話さねぇと……)


 海斗は自車に戻ると、香苗がいつ来てもいいように、駐車場の奥をチラリチラリと眺めながら、私服へと着替える。


 少しだけ安心が広がった心で、電子タバコにリフィルをつめ、スイッチをいれる。


(何を、話せばいいんだろう)


 何が悪い訳でもない、ただ、家族で出かけただけの事。社会的に間違っているのは、自分と香苗の関係。それでも、香苗を悲しませたのは自分。


 海斗は複雑な心境で、加熱完了の振動がきた電子タバコを大きく吸い込んだ。


(…来ないな…?)


 自販機にコーヒーを買いに行き、車に戻って飲み口を開ける。また電子タバコを吸う海斗は、そのまま30分ほど待ったが、香苗が戻ってくる気配は無い。


(おかしい、いつもはこんなに遅くない)


 やきもきしていると、LINEの着信音が鳴り、妻からの〝今日は何時なんじに帰ってくるの?〟との通知が見えた。


(今日は、諦めるしかないか…クソ…)


 海斗はいらつく心を切り替えられず、助手席にスマホを放り投げる。


 エンジンスイッチを乱暴に押すと、薄暗うすぐらくなってきた辺りあたをヘッドライトで照らし、白い車を惜しむように、ゆっくりと発車させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る