【 Mr.Cigar 】
疲れた体を引き
予約の整備をこなしている間にも、突発の修理依頼が次々に入り、予想以上の残業を強いられた。既に身体的な疲労はピークに達している。
いつもは仕事が終わった開放感でスタスタとリズム良く歩くが、今はスニーカーの靴底を
『なんなんだよ、クソが・・・』
海斗 38歳
周りに誰も居ない事を確認し、ブツブツと独り言を漏らしながら、少し離れた会社の契約駐車場を目指して歩いた。
車両整備の会社のくせに敷地が狭く、修理依頼の車を優先して停める為に、従業員の分は少し離れた駐車場の一部を借り上げるという、会社の間抜けぶりを
仕事後は余計な体力を使いたくない。今日のように本当に疲労した時に、この微妙な距離は本当に
簡素な作りの黄色い看板が見えてくると、脇にある歩行者用の通路に入り、自車を止めている場所を目指して歩いた。
見知った車がいつも停めている場所。
なんとなく立ち止まって、腰に手を当てて背伸びをし、身体を伸ばしている振りをしてそちらにを視線を向ける。
(・・・もう無いか。)
人目を
(そりゃ、帰ってしまったよな。)
なんとなく待っているんじゃないかと、淡い期待を失くしたような気持ちの反面、遅い時間まで独りで待つのは女性には危険、むしろ良かったと納得する理性。
諦めながらも少しスッキリしたという表情をわざとらしく作り、ポツリと停まっている自車へ向かった。
運転席のドアを勢い良く開け、シートに掛けておいた私服を手に取った。汗と油で汚れたツナギの作業着を上半分だけ脱ぎ、自分の好みで選んだラフなシャツに
少しだけ
本来の自分に戻れるような気分になる。
開放感に包まれながら運転席にどっかりと座ると、少しだけ目を瞑り、
妙な
後部座席を振り返り、先程放ったツナギに腕を伸ばすと、胸ポケットに入れておいた電子タバコの細長いケースを探り出した。同時に煙草スティックの青いパッケージも取り出す。
長細いホルダーのカバーを開けてスティックを挿し込み、ボタンを長押しして電源を入れる。加熱をしているこの微妙な間をボーッとしながら待つ。持っている右手に、加熱完了の合図の振動を感じ、ホルダーのランプが点滅しているのを確認した。
(
一口吸い込み、深く深く水蒸気を吐き出す。
少しだけ、責任も一緒に吐き出されるような
『こいつに頼っても、な』
淋しく笑いながら、その笑いが誰に向けての物なのか考えないように、飲み込むように呟く。今の俺の顔はとても
どっちの意味で言ったかなんて、自分ですら分からない。分かったところで、何も得るものなんて無いだろうに。
【どっちの意味】
俺には妻がおり、愛情を注ぐ子供がいる。休日には子供を連れて公園に出掛け、
なあ?
幸せに包まれている家族。人生のパートナーである妻には感謝を伝え、愛する我が子の成長を守りながら見届ける。仕事で疲れていても、それを見ると吹き飛ぶように無くなる。
それで正しい。それが正しい。
そのはずなのに、両手に
一体なんなんだ
望んで創り出したんじゃないか。それに全てを捧げて来たんじゃないか。何が不満なんだ、俺は。なにも不満なんか感じる必要はない。理性がそう叫んでいる。
俺自身は夫でも父親でもない、一人の男なんだと。
そんな事は社会が許さない。
法律だって許さない。
俺の良心も許さない。
なのにあの煙草を吸う女が気になってしまった。
どこかの事務制服を着ていて、眉を
少しだけだが、話すとよく分かった。俺のそれとは真逆なのに、考え方や価値観が重なる。話しているうちに自然と面白くて笑ってしまい、同時に足りない感情を満たしてくれるような感覚を与えてくれる。
そんなものは
煙草の女の本当の姿は、そんなものじゃない。
全てにおいて表面上だけで、心を守る為に壁を作る。独りで生きる事を決めたくせに、それにも耐えられず、言い訳をしながら快楽へ逃げ込む女だ。
そんな女から発せられる賞賛は、氷の表面を破ったかのように熱く、いじらしい。俺を酔わせ、勘違いだと理性で抑えている男性の感情が、起き上がってくるのだ。
生々しい欲情と独占欲が湧き、
どんどんと距離は近くなり、自分で創り上げた、良い人の顔が少しずつ剥がれていった。そうなればどうなるか。大人なら誰でも理解できるだろう。
身体まで交わしてはいけない相手なのに。
周囲には決して許されないのに。
そして
そんな女を手に入れたいと思ってしまった。
責任、社会、そんな言葉は頭から溶けて無くなる。
『馬鹿だよ、俺は。』
加熱終了直前のホルダーの振動を感じ、惜しむかのようにまた一口、大きく吸い込んだ。
役目を終えたスティックを抜き取りゴミ箱へと放り投げ、助手席にホルダーを置くと、車のエンジンをかけた。
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