2 アルティメット・カレー
大勢の人々が行き交う中、陽は中庭のベンチにぼーっと腰かけていた。隣スペースに木製のプラカードを立てかけ、秋空を見上げる。朝から大変な目に遭った。あちこち土まみれだし、なんかちょっと動物くさい。ニワトリなんかと熱い抱擁を交わしたせいだ。
騒動を起こしてしまった「西校舎動物園」には、本来なら何らかのペナルティが課されるべきところだったが、今回は客がいないうちに学生たちだけで問題解決できたので、AUWBである自分たちからの厳重注意で済ませることになった。
淡々と決まりきった注意の文句を並べる相澤。その姿を横から見下ろしながら、陽はほっと息をついていた。誰も不幸にならなくてよかったと心から思う。
「陽」
はっと視線を下界に下ろす。そこには後輩を待たせてどこぞに行っていた相澤が立っていた。両手にそれぞれ白いプラスチック容器を持っており、中から湯気が立っているのがわかる。なにか買ってきてくれたのだろうか。
相澤は「おつかれ」と口にしながら、容器の片方を陽に差し出した。ほかほかの米に、茶色のどろっとした液体がかかっている。使い捨てのスプーンが控えめに添えられたそれは、カレーのようだった。お礼を言って有難く受け取る。
「これは?」
「うんこだ」
「うんっ……!?」
思いもよらぬ返しに、陽はカレー(ないしうんこ)から若干距離を取る。
相澤はそういう、シンプルに下品な冗談を口にするタイプではない。おかしい。胡乱な目で相澤を見あげると、彼は親指で、ベンチから少し離れたところに位置する屋台を差した。
「見ろ、うんこだ」
決してうんこを見たいわけではなかったが、素直に彼の差すほうを向く。そこにあったのはうんこ――ではなく、派手な黄色い看板を掲げた屋台だった。決して広くはないカウンター内には所狭しと大鍋が置かれ、割烹着に三角巾の学生たちが数名てきぱきとそれぞれの業務をこなしている。店の前には長蛇の列ができており、列の最後尾ではスタッフが「最後尾!」と書かれたプラカードを持っている。一日目の午前中でこの行列を作り出すのなら、きっと去年以前からバカ売れしている名店(名屋台?)なのだろう。
『カレー味のうんこ』。
美しい明朝体で看板に堂々と書かれている店名だけが、そこにふさわしくなかった。
「ほんとにうんこだ……なんでうんこなんて最悪ネーミングなんですか?」
「うんこうんこ言ってないで食ってみろよ」
「最初にうんこって言ったの相澤さんですよね!?」
相澤はAUWBのプラカードを適当にどかすと、陽の隣に腰かけた。そしてシンプルに下品な店名をものともせず、自分の分のカレーをすくい上げた。陽も渋々それにならう。当然ながら匂いは普通のカレーだったが、具が少ない。陽はじゃがいもがごろごろ入っているカレーのほうが好きだ。顔をしかめながらスプーンを口に運ぶ。
うまい。
「は?」
びっくりして、もう一度カレーを口に運んでみる。本当にうまい。少なく見えた具は何時間も煮込んだ末に小さくなっただけらしく、ルーに玉ねぎや人参の甘味が溶けだしているのがわかる。舌に残るコク。鼻に抜けるスパイスの香り。カレーに合うよう少し固めに炊かれた米の甘み。どれもこれも素人に用意できるものではない。
「なんっですかこれ!」
「『究極サークル』だ」
スプーンを握りしめて叫ぶと、隣では相澤がもう食べ終わるところだった。
「『究極サークル』のカレーはもともと、最悪ネーミングを押しのけてどこまで売り上げを伸ばせるかっていうイカれた企画の中で誕生したものらしい。――まあ、今じゃもう、〝究極〟的にうまいってことが学校内外に知れ渡ってるらしいけど」
「いやこれ作った人、カレー屋からスカウト来ますよ」
カレー屋が人材をスカウトで獲得するかはともかくとして、素直な賞賛が口をつく。「名前負け」の真反対、さらにその極地。こんなに美味しいカレーが、年に三日間しか食べられないなんて。
「ところで『究極サークル』って一体――」
陽がスプーンをくわえたまま尋ねようとしたそのとき、突然後ろからバン! と背中を叩かれた。ふたり揃ってスプーンを取り落としそうになり、急いで後ろを振り返る。
「やあ」
そこに立っていたのは、先輩である
「痛いぞ、若葉」
相澤が振り返りもせず、憮然とした表情で言った。若葉は一向に気にかける様子もない。
「仕事はどう? もうなにか起こった?」
「鳥類に足蹴にされました」
陽は苦笑いしながら返した。若葉はふたりの手元を覗き込む。
「あ、うんこじゃん」
「うんっ……」
若葉まで躊躇なくうんこと口にするので、陽はなんともいえない気持ちで彼女の横顔を眺める。
「それにしても人が多いねー。去年は初日もっとすいてた気がするけど」
若葉は中庭を見渡しながら呟いた。中央校舎に背を向けたベンチからは、人でごった返す中庭が端から端まで観測できる。遥か向こうに見えるのは敷地南の一号館と二号館、その間に隠れるように立っているのが前々学長の名前を冠した校舎・通称「旧校舎」だ。
「今年は初日が文化の日だからな」
相澤が相変わらず前を向いたまま言う。あえて若葉のほうを向かないのは、職務のために中庭を見張っているからだろう。休憩中でも気を抜くことのない眼差しは、仕事人間である陽の父を少しだけ彷彿とさせてくる。
「毎年学祭は十一月最初の金土日に開催されるけど、今年は初日が祝日だから端っから混んでるんだ。中高生も学校が休みだからか、ちらほら見かける」
相澤の言うとおり、行き交う人ごみには中学生や高校生らしき姿、親や兄姉に連れられた小学生の姿などが確認できた。朝からしっかり働かされてしまったので忘れていたが、世間的は休みなのである。今日も明日も明後日も。
「若葉さんはなにしてたんですか? もしかして、今来たところですか?」
陽が尋ねると、若葉は親指と人差し指で輪を作ってニヤリと笑った。オッケーサインにも見えるし、お金のサインにも見える。
「朝から麻雀サークルに行ってたよ。ボロ勝ちしちゃって申し訳ないね」
お金のサインだった。え、これはもしやAUWB的にアウトなのでは? 陽が隣の相澤を気にしてあたふたしていると、相澤がジト目で若葉に振り返った。
「賭け事はしてないだろうな」
若葉はさっとお金のサインを崩すと、その手をひらひらと振ってみせた。
「大樹は心配性だねー」
やってないとは言っていない。
「程々にしとけよ、若葉」
こちらもこちらで、そういう方針なのか。陽はふたりを交互に見比べる。相澤はそれ以上なにも言わず、中庭の監視に戻った。
若葉はベンチの背もたれに手をつくと、陽にぐっと顔を寄せて囁いた。
「ところで――陽くんさ、臨時収入があったから、ふたりでお茶でもしようよ」
「えっ」
危うくカレーの容器を地面に落とすところだった。お茶? それもふたりで?
「え、あ……ふたりですか?」
「うん。ふたり。デートしようデート」
若葉が面白がるように付け加える。うぶな反応をしてくる後輩を見ているのが面白くて仕方ないのだろう。客観的にそう判断できても、陽にはどうすることもできない。三日月形に細められた目がいかにも楽しげで、それが陽にとって少し悔しい。
「デ……デートですか」
肩越しに顔を覗き込んでくる若葉が、にっかりと白い歯を覗かせる。
「先輩が秘密の場所に連れて行ってあげよう」
口の前に指を立て、内緒話のように告げる。
相澤はなにも言うまいと決めたのか、黙って息を吐きだしただけだった。
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