12 カレーは鍋に帰らない
敷地内東側に位置する正門前から救急車を見送ってから、陽は中庭へと踵を返した。大学職員がほとんどすべて対応してくれたので特段の問題はないと思うが、すぐに相澤に報告しなければ。
相澤はどこに行ってしまったのだろう。東校舎前で上がった花火を追いかけて、その途中で自分が離脱して……彼はひとりで向かったのだろうか。なにも起こっていなければいいが、自分がいないことで迷惑が掛かっていないか心配だ。無論、相澤ひとりでだいたいのことはどうにでもなりそうな気もするが――
「AUWBさんっ!」
人ごみを掻き分けながら東校舎を目指していた陽を、後ろから何者かが引き止めた。思いきり奥襟をひっつかまれた陽はぐえっと鳴きながら、屋台の並ぶ通りの真ん中で急停止させられた。
「AUWBさん、助けて! うちの大事な商品が……!」
振り向くと、小柄な女子生徒が半泣きで陽に縋りついてきた。見覚えがあるような、ないような、あったとしても後ろ姿を見かけただけのような。
「――もしかして、『究極サークル』で火加減を見てた人ですか?」
記憶をたどりながら陽が尋ねると、小柄な女子学生は「とにかく来て!」と陽の腕をなりふり構わず引っ張った。剣幕に負けて引っ張られながら、陽は首を回して相澤の姿を探す。女子学生がこんなに困っているのだ。自分ひとりで対応できる問題とはとても思えない。そして運よく相澤がヒーローのように現れることも、当然ない。
『究極サークル』の屋台がある中央校舎前に近付くにつれて、すれ違う人々がざわざわと後ろを振り返っているのが目についた。彼らはいったいなにを見てきたのだろう。なぜそんな驚いたような、剣呑な、あるいは不憫そうな顔つきをしているのだろう。
「AUWBさん、あれ……」
自分を散々引っ張ってきた小柄な女子生徒が、なにかに気付いて不意に立ち止まる。道いっぱいに横たわる光景が、彼女の肩越しに、陽の目にも飛び込んできた。
「……」
むわっと立ち上るスパイスの香り。地面に転がった胴鍋。石畳の道に広がっていく茶色。
「そんな……」
立ち尽くす女子学生の後ろで陽も思わず絶句していた。が、ここにいるAUWBが自分ひとりであることを思いだす。さっきみたいに、なにもできない自分でいたくない。
「あ、AUWBさん!」
屋台の前にいた男子学生が、陽に気付いて声をかける。さっき土田と相対していた男子学生だ。見た感じ、塩崎の次のサークル代表だろう。
「AUWBの野々宮です。なにが起こったんですか?」
「学祭委員とかいう奴らが来たんだ。あいつら無茶苦茶だよ」
代表は怒りと悔しさをにじませながら、事の顛末を陽に語って聞かせた。
「俺たちのカレーを食って体調を崩した人間がいるからカレー鍋を調べさせろ――って言うから、待ったをかけて事実関係を確認させてほしいって返したんだ。そしたら無理くりカレー鍋を奪おうとして、もめているうちに鍋がひっくり返って……」
「怪我人は? 誰か火傷とかはしなかったんですか?」
「いや、鍋が熱いことは百も承知だから、こちらもほとんど手は出せなくて――屋台の下から運び出した瞬間に、奴らカレー鍋を地面に落としやがって」
代表は石畳にぶちまけられたカレーを見下ろしながら、大きく舌打ちを漏らした。腰に手を当てながら、「おかしいと思ったのはその後だ」と話し続ける。
「押収目的とはいえ、商品をだめにしたなら一言くらいに謝りが入るはずだろ。それがその『学祭委員』とかいう奴ら、一目散に逃げていきやがった……今思えば、偽物だったんだろうな」
陽もその見解には同意だった。
この大学における『学祭委員』は、学祭におけるイベントの企画や当日のスムーズな運営を担う集団だ。事件が起こった際、強制的に証拠品を押収するのは大学職員の役割であり、それまで現場を保全しておくのは自分たちAUWBの仕事だ。こんな、場を引っ掻き回すだけ引っ掻き回すやり方は、まともな組織ではない。
「――とりあえず、また作り直すしかない。体調を崩した人がいるってのも、どうぜ俺たちから鍋を奪うためのデマだろうしな」
代表が屋台の下で震えている部員たちを奮い立たす。それを聞いて陽は「あっ」と声を出した。
さっき倒れた女子高生のそばには、カレー皿が落ちていた。あれは間違いなく、『究極サークル』の『カレー味のうんこ』だった。
もしかしたら、彼女は本当にカレーを食べて地面に倒れ込んだのかもしれない。そしてそれは、彼女が救急車に乗るまで付き添っていた大学職員が知っている可能性が高い。
でも、だとしたら、情報が回るまで時間が早すぎるのではないだろうか。
「ちょっとどいてください――ごめんなさいね――」
陽が不穏なことを考えていたちょうどその瞬間、陽がやってきたのとは反対の道から、険しい顔をした大人たちの群れがやってきた。首から下げたカードケースには大学の校章が刻まれた職員証が入っており、一目で大学職員群とわかる。
先頭に立っていた若い女性職員が、石畳に広がったカレーを見て顔を引きつらせた。
「……代表さんはいらっしゃいますか? カレーに問題があったという連絡を受けて、調査しに来たのですが」
一応の前口上として、女性職員が屋台の中を覗き込む。ぶちまけられたカレーを片付けるためのちりとりとバケツを用意していた部員たちが、ぎょっとした顔で振り向いた。
「うちのカレーが、なにか……?」
「さっきここのカレーを食べた高校生の女の子が、体調を崩して救急車で運ばれていきました。運ばれる前に朦朧としながら『カレーを食べていたら急に』と話してくれたので、なにかここのカレーに問題があるのではないかという話になりまして」
「そんなこと言われても……」
代表の目が泳ぎ、地面に落とされる。確かめようにも――と言いたげな視線だ。陽が間に割って入る。
「AUWBの野々宮です。ついさっきですが、『学祭委員』を名乗る連中がカレーをひっくり返して逃げていったそうです」
「学祭委員が?」
女性職員がぽっと出のAUWBに向き直ってくれる。陽は焦りながらも、自分の思うことを一息に乗せた。
「おかしいと思いませんか? 俺も現場にいましたけど、女子高生が倒れたのはついさっきのことです。それから学祭委員が来るまで早すぎますし、カレー鍋をひっくり返して逃げていくのも意味不明です。なにかこう……大きな悪意みたいものを感じませんか? このサークルをはめてやろう、みたいな……」
尻しぼみな言葉を吐きながら、大学職員たちの顔色を窺う。大半が不可解そうな顔をしており、突然目の前に現れたAUWBに懐疑的になっている。
女性職員が困り顔のまま、場を仕切り直すように咳払いした。
「ともかく、衛生面のこととか、材料のこととか、きちんと裏が取れるまで営業は許可できません。誰が悪いとかじゃなくて、学祭を運営する上でそういう決まりになっているんです」
「そんな!」
代表が屋台のカウンターに手をつき、身を乗り出した。
「うちは誰よりも衛生面に気を使ってますし、材料にも特段問題ないはずです!」
「しかし、実際に急病人が出て、原因がはっきりしない以上、運営を認めるわけにはいかないんです」
女性職員が眉を寄せながら、身を乗り出してくる代表を片手で諫める。
「どうかわかってください。そういう規則なんです」
「今年もうちのうんこはうまいな」
場に似合わない、気の抜けた声がした。その場にいた全員が瞬時に地面を見下ろす。
地面にしゃがみ込み、ぶちまけられたカレーを指にすくって口にしていたのは、『究極サークル』終身名誉代表兼クレイジーソルト・塩崎だった。
「ばっちいっすよ、塩崎さん」
そしてそれを心底嫌そうに横から見下ろしているのは、自分の先輩・相澤だった。
「落ちてるもんだし、うんことか言ってるし、最悪っすよ」
「相澤さん」
陽は思わず泣きそうな声で相澤を呼んだ。相澤がこの場に来てくれたからといって、なにかが劇的によくなったわけではないが、この場にいるAUWBが自分ひとりだけではなくなったということだけが、陽を著しく救ってくれたように思えた。
「塩崎さん!」
そしてそれは、『究極サークル』にとっても同じことだった。みんながみんな、屋台から身を乗り出し、塩崎の登場に安堵している。
地面にしゃがみ込んだ塩崎は、すでにその異様な出で立ちのせいで大学職員群からは奇異の目で見られていた。無理もない。カマーベストに前掛けエプロン、肩にライフル銃を担いだイケメンが突然現れたとなれば、場もざわつくというものだ。
「いやー、マジでうちのうんこはうまいんだがなあ」
口元を親指で拭いながら、塩崎がゆっくりと立ち上がる。
「大学側がおっしゃることはわかる。うちはしばらく休業だ。それは仕方ない」
「そんな……」
やけに物わかりよく、塩崎が大学職員群に目をやりながら屋台に呼びかける。部員たちはショックを受けながらも、先ほどのように激しく反駁はしなかった。
意外だな、と陽は目を瞬かせる。塩崎であれば、部員たちよりもっと激しい抵抗を見せるかと思ったのだが――大学側には逆らわないと決めているのだろうか。
「大学に怒っても仕方ないからな」
いつのまにか横に立っていた相澤が、ポケットに手を突っ込みながらぼそりと呟いた。陽が驚いて思わず飛びのく。
「びっくりした……相澤さん、探しましたよ」
「怒るべき相手は別にいるって、誰よりもわかってるからな――見ろよ、あの顔。こえーよな」
相澤に言われて見てみるが、陽にはよくわからない。ただ、目を細めながら部員をたしなめる塩崎が優しげで、そのせいで逆に彼の考えていることがまるで読めなかった。
肩に担がれたライフルの先がゆらりと揺れる。陽はその様が、実家で飼っている猫の尻尾と重なって見えた。
窓辺に丸まって機嫌良さそうに尻尾が揺れている。かと思えばそれが、急に鞭のように地面を打つ。
近くに座っていた陽は、よくそれでびっくりして心臓が跳ねたものだった。
「陽くんもありがとな」
突然呼ばれて弾かれたように姿勢を正す。気が付けば、塩崎が覗き込むように陽の瞳を窺っていた。
同じように瞳を覗き返してみる。あまり黒目が動かないのは、完全に捕食者の瞳だ。実家の猫と同じ。いや違う。猫なんかよりもっと厄介で凶暴な--
「いや、とんでもないです……」
思わず視線を伏せて逸らしてしまったが、陽にははっきりとわかる。クレイジーソルト・塩崎の瞳。そこに物腰のような穏やかさはなく、馬鹿に機嫌の悪い獣が暗闇に繋がれているのが、わずかに垣間見えていた。
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