13 恐らくサボりとは呼ばない観戦
「撤収は呆気ないもんだな」
看板とカウンターだけが残された屋台を見上げながら、相澤が努めて淡々と口に出すのが横から聞こえる。陽は背中を丸めながら「そすね」とほぼ吐息だけで応えた。
『究極サークル』が諸々の器具の片付けを大学側に命じられてから約一時間。変わらず賑やかな中庭の中において、彼らのサークルが抜けた空間だけがぽっかりと静寂を湛えており、石畳に残された茶色い染みだけが惨状の形跡を物語っている。
「倒れた女子高生ってのは、陽が介抱したのか」
不意に相澤が尋ねてきて、陽は「はい」と反射的に返す。が、一拍置いてから「ん?」と顔を相澤に振り向けた。
「言いましたっけ。なんで知ってるんですか?」
「介抱しているときに、周囲の人間に助けを求めただろう。そのうちのひとりが俺の知り合いだっただけだ」
「そうだったんですか」
「適切に対処できたそうだな。なかなかやる」
まったく褒めていなさそうなテンションながらも、相澤は陽を見上げてわずかに口元を緩めた。あまりこうして褒められることもないので手放しで喜ぶべきなのかもしれないが、陽は「いやー……」と苦々しく否定する。
「彼女、すごく苦しそうでした。なにかもっとしてあげられることがあったんじゃないかって、すごく思います」
苦しげに胸を上下させながら、なにかに怯えるように震えていた少女を思いだす。目の前で人があんなふうになっていたのに、自分は怖くて固まっていた。頭の中が真っ白になった。冷静になれなかった。
「悔しいなぁ……」
俯きながら陽は小さくこぼす。
相澤がなにかを言いかけて口を開いた。が、しばらく迷った末に沈黙の継続を選んだ。なにか言ってもらえたら陽も嬉しかったかもしれない。しかし、なにかを言ってほしくてこの話をしたわけでもなかった。
女子高生は病院に運ばれていってしまった。『究極サークル』も撤退を余儀なくされて、この三日間で復活することは難しい。
AUWBとしての自分にできることはもうない。ならば、ここに居続けることにも意味はないだろう。
また次の職務に向かおう。陽は片手に持ったプラカードを強く握りしめた。
「暗い顔してんね」
決意を新たにした陽の肩に、突然柔らかな重みがのしかかってきた。びっくりして目を剥きながら、声のする左肩を見やる。
「若葉さん!」
「暇そうじゃん。なにしてんの?」
「重い」
右腕を陽の肩に回しながら、にぱっと陽光のような笑みを見せる若葉。その向こうで、相澤が顔をしかめながら文句を垂れている。彼も陽と同じように、若葉に無理やり肩を組まれているのが見えた。
「ってか『究極サークル』いなくなってんじゃん。なんで?」
ふたりの肩にのしかかりながら、若葉が一緒になって屋台を見上げた。看板に書かれた『カレー味のうんこ』という馬鹿みたいなネーミングと彼女の気の抜けた声が絶妙にマッチしており、陽の心も幾分がほぐれる。
「ここのカレーを食った客が倒れたらしい。事実確認が取れるまでは営業停止だ」
若葉の腕から抜け出そうとしながら、相澤が端的に説明を施す。
「それは大変。塩崎さんは?」
「なぜか大人しく言うこと聞いてるよ。離せ」
「まあ、お上相手にぐだぐだ抵抗するようなタイプじゃないもんねあの人。離さなーい」
なぜか隣でじゃれ始める先輩たちだったが、陽はそれより、若葉に言わなければいけないことがあった。そういえば自分も塩崎も、この人にすっかりからかわれていたのではなかったか?
「若葉さん、そういや塩崎さんってあの店員さんだったんですよね? 目の前で噂話始めたんですか、人が悪い」
「あれねー、塩崎さんももっと面白い反応してくれたらよかったのにね。ポーカーフェイスでつまんないの」
「ひ、人をおもちゃに……」
「事情は知らんが、簡単におもちゃにされるようなメンタルじゃないだろ、塩崎さんは」
ようやく若葉の腕から抜け出しながら、相澤がおざなりに口にした。
「若葉はなにしてたんだ。そっちこそ暇なのか」
「暇だったよーさっきまで。でもこれから楽しいことしにいくところ」
それこそ新しいおもちゃを見つけたかのように、若葉の瞳がきらりと光った。フロントライトのような強い輝きが、なぜかそのまま陽に向く。
「な、なんですか……」
若葉のこの目に弱い陽は、たじたじになりながら一歩後ずさる。もちろん、肩を押さえられているので若葉も一歩下がるだけだが。
変わった社交ダンスのようなことをしているふたりを、相澤が胡乱気な目で遠巻きに眺めている。助けてくれないだろうか。
「楽しいことって……?」
巻き込まれる気配を濃厚に察知しながら、陽は恐る恐る尋ねてみた。若葉は待ってましたとばかりに、にんまりと微笑んだ。
かくして陽は、熱気に湧く観客席にいた。それも最前列の一番いい席に。
なぜ自分は、職務中にプロレスを観戦しているのだろう。
「……?」
おかしい。さっきまで自分は、己の不甲斐なさを相澤の隣で粛々と省みていたのではなかったか?
「そこだ、いけー! やれー! 大橋ー!」
それもこれも、ここまで無理やり引っ張ってきた先輩女子に起因するのだが。(百パーセント無理やりだったかと言われれば陽も沈黙せざるを得ない。)
現在自分の隣では若葉が他の客に負けない声量で応援しており、普段見られないテンションの彼女に陽は動揺を隠せない。きらきらと目を輝かせながら興奮しきった笑みを見せる若葉は、陽には少し眩しすぎる。心底相澤にいてほしいと思うが、その相澤は光の速さで逃亡したため跡形もない。
若葉の応援する大橋という選手は、身長一九〇センチはあろうかという大柄な男子学生だった。一号館前、青空の下に設置されたリングに堂々と立つ姿は勇ましく、たてがみのような頭髪が相手と組み合うたびに激しく乱れる。
美声の実況による最初の選手紹介では、経済学部に在籍する四年生であると高らかに喧伝されていた。こんなに大きな人が学内を闊歩していたら目立ちそうなものだが、もしかして有名人なのだろうか。
相手の選手がマットに倒れ込み、大橋がその背中に乗り上げて足をがっちりとつかむ。そのまま足を持ち上げて相手の身体を大きくのけぞらせると、苦悶の声とともに審判のカウントが始まった。サソリ固めだ。
「陽くん! 陽くんあれ! 勝てる! 強い! やったね!」
陽の肩をつかんでがくがくと揺さぶりながら、若葉が興奮しきった様子で伝えてくる。視界を揺らしながら陽はなんとか応えた。
「つ、強いですね……。大橋選手、有名なんですか? 前からファンだったとか?」
「ううん知らなーい」
「え?」
「楽しいねぇ陽くん。元気出たぁ?」
「ええー? ……多分出ました」
もはや適当な返事しかできない陽だが、若葉は気にもとめずリングの上を見つめていた。
やがて試合のゴングが鳴り響き、レフェリーが大橋選手の勝利を告げる。途端にこれまでとは段違いの歓声が上がり、観客席の人々が立ち上がって拍手喝采を送った。
レフェリーに片手を持ち上げられても、大橋は決して客席には笑みを見せなかった。ただ息を切らしながら眉をひそめ、前だけを睨み続けている。送られる賞賛には見向きもしない。そういうキャラで売っているレスラーなのだろうか。
「おーおはーしさぁん」
歓声に包まれながらリングを降りていく大橋に、大勢の人々がねぎらいの声をかけていく。若葉も意外なことのそのひとりで、リングの横に三角コーンとポールで造設された選手用通路のそばまで、わざわざ人混みを掻き分けながら近づいていく。陽も慌てて後を追う。
「みんな大橋さんが勝つと思ってたって。すごいね」
さざ波のように押し寄せる人々の声の中で、若葉は確かにそう言った。大橋のことを知らないと言った口で、今度はこんなことを嘯く。陽には若葉の真意がまるでわからない。
当の大橋は、一瞬だけ若葉のほうを振り向いたように見えた。そう見えただけで、実際は違ったのかもしれない。少なくともそれは本当に一瞬のことで、彼は足早にリングを後にしていった。
実況が明日の試合の時刻をスピーカー越しに伝えていく。その美声が校内放送で流れていたものと似ていることに気付いたのは、そのときのことだった。
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