14 ここは退屈、
「結局、若葉はなんでプロレスなんか見に行ったんだ」
ジョッキを下ろすと、相澤がテーブルに頬杖をついて向かいの陽たちを見据えた。隣の若葉はご機嫌にハイボールをがぶ飲みしており、まるで説明する気がない。
学祭の開催時間は朝九時から夕方五時までと決まっている。AUWBの活動時間もその範囲に定められており、アフターファイブは各々の自由だ。
自由とはいえ、大方のメンバーはともに飲みにいくのが常なのだそうだ。さっき初めて相澤からそう聞いた。
「ファンの選手でもいたのか?」
若葉の強制連行から早々に逃げ出した相澤が、その後の様子を尋ねてくる。陽はストローを差したウーロン茶のグラスを目の前に置きながら、首を傾げた。
「いや、特にそういうわけじゃないそうなんですけど……よくわからないです。でもすごい盛り上がってました」
「なんだそりゃ。若葉が格闘技好きとか聞いたことないぞ」
手にした箸で唐揚げを自分の皿に移すと、相澤は胡乱げな顔を若葉に向けた。若葉はアルコールで上気した頬を上向ける。
店内はオレンジ色の蛍光灯で薄暗く、若い客層のせいでどこもかしこも騒がしい。長く繋げたテーブルを他の客と分け合う形式であることも手伝って、様々な会話内容が織り交ざって聞こえてくる。逆に向こうの席に座っている三、四年生たちの会話がまるで聞こえてこないので、陽は近くに腰かける相澤と若葉としか話すことができない。
「あたり前のように若葉さんが来るのも不思議ですけどね」
「嬉しいでしょ、陽くんも」
「彼氏さんはなにも言わないんですか、男だらけの飲み会に行ってて」
「言ってなかったっけ。学祭が始まる前に別れたよ」
事も無げに告げる若葉に、もはや陽もあまり驚かない。最初に陽が彼女の破局報告を聞いたのが五月頃。その次が九月頭。そして今日。
「今度はふったんですか。ふられたんですか」
「ふられちゃったー。勉強と俺とどっちが大事なんだーって」
ハイボールを高く掲げながら、若葉が芝居っぽくがなった。五月に別れた彼氏にも同じことを言われていた気がする。相澤が鼻で笑い飛ばした。
「勉強している以外はうちの部室で麻雀打ってたような女が、彼氏を大事にできてるとも思ってなかったけどな」
「前回同じこと言われてふられたときに、今度は『そんなこと質問させてごめんね』って答えようと思ってたんだけど」
「だけど?」
「そう言ったら『そうじゃなくてどっちが大事か答えてくれ』って逃げ道塞がれてさ」
すでに嫌な予感がする。陽はウーロン茶のグラスを両手で握りしめながら、口を尖らす若葉を横目に見た。
「答えたのか」
向かいの相澤はむしろ面白がっている。
「答えたらふられたよね」
やっぱり。ずっこける陽とは対照的に、相澤は珍しく声を出して笑っていた。酔いが少し回ってきたのかもしれない。入学して早半年以上。何度も相澤とは宴席をともにしてきたが、彼は恐らくそんなに酒が強いわけではない。飲み方が上手いので乱れたところは目にしたことがないが、そんなにたくさんは飲めないだろう。
向かい合わせに笑みをこぼす相澤と若葉は、少しだけ似ている。陽は若干面白くない。
「……でもまあ、若葉さんも少し落ち着いたらどうですか。次に彼氏作るまで、ちょっと間空けてみるとか」
「同感だな。なにをそんなに焦ってるんだ、お前は」
陽が先輩たちの会話に口を差し挟むと、相澤もするりとこちら側についた。矛先の若葉が鬱陶しげに手をひらひらと振る。
「うるさいな、あたしの勝手でしょ」
「よくよく考えないで付き合うから色んな人間が傷つくわけだ。大して興味のない男と付き合うのやめろよ」
相澤がそう言って唐揚げに噛み付いた。かーちゃんのような台詞だが、陽もぜひそうしてほしいと強く思う。正直どこの男が傷ついても陽には関係のない話だが、新しい恋人ができるたびに陽自身がショックを受けているのは無視できない事実だった。
「確かにそうなんだけどねー……なんだかなぁ」
テーブルにほとんど突っ伏しながら、若葉がため息をつく。
「誰かちょうどいい人、いないかなぁ」
彼女の箸が取り皿からテーブルに落ち、カラコロと音を鳴らした。それを見て若葉がふふっと鼻を鳴らす。
「塩崎さんみたいな」
「あ?」
相澤がぶちっと唐揚げを噛み切る。目が若干据わっているのは、気のせいじゃない。
「聞こえなかった? しーおーざーきーさん」
「聞こえてたよ。不必要に煽るな」
相澤は箸を取り皿の上に置くと、腕を組んで明後日の方向に顔を向けた。
「なんでよりによってあの人なんだか……」
「ちょうどいいからねぇ、ほんとに」
若葉も転がった箸を取り皿の上に戻すと、体勢を直して頬杖をついた。
昼間にも聞いたような気がするが、ちょうどいいってなんだろう。陽は頭に疑問符を浮かべる。塩崎はちょうどいい。なら、自分は? ――相澤は?
「塩崎さんと言えばさ」
若葉が近くの皿に盛られていた枝豆を手に取った。
「カレー食べて、人が倒れたんでしょ? なんでだったの?」
「さあな。まだ大学側はなんとも」
相澤がメニュー表を手に次の酒を考えながら、首を横に振る。
「陽くんはその現場にいたんだよね。どんな様子だった?」
若葉がこちらに振り向き、かじった枝豆の殻を殻入れの器に捨てた。陽はできる限り詳しく現場を思い起こす。詳細に振り返ると、まだ少し怖い。言葉を探りながら繋いでいく。
「呼吸困難? に陥ってましたね……身体も震えてて、汗がすごくて――あと、なにかに怯えているようでした」
「怯えていた?」
若葉が片眉を上げた。
「こう、見えないなにかに対して怖がっているような……普通の体調不良とは、そこが明らかに違っていたというか……」
若葉は次につまんだ枝豆を咥えながら、なにか考え込んでいる様子だった。据わっているようで実はまったく酔いの見えない目が、どこか遠くを見つめている。
「若葉さん?」
「若葉?」
男ふたりで若葉の思案顔を覗き込んだそのとき、
「あ、隣AUWBじゃん」
明らかにいやらしい悪意のこもった声が、自分たちの座席に飛んできた。
気が付くと隣のゾーンにいた客が撤退しており、いつのまにか別の客が通されている。
「…………」
相澤は一瞬隣を見やると、すぐに目を逸らして自分のビールに口をつけた。知らない連中だった。男が四人、女が一人。いかにも陽キャラっぽいというか、ヤンキー上がりっぽいというか。
「大樹の知り合い?」
さっきまで考え事に耽っていた若葉が、こてんと首を傾げて相澤に問う。そんな彼女を見て、先頭に立っていた男が「おっ」と前のめりになった。
「めっちゃ可愛いっすね。お姉さんもAUWB?」
「大樹、知り合い?」
「無視しないでよぉ、もう」
男はわざわざ相澤の隣の席に腰かけると、彼のジョッキのすぐ近くに肘をついた。
「昼間、ちょっと色々あってこのAUWBくんに注意されちゃってさ。――あ、大したことじゃないよ。でもこいつが騒ぎ立てるから」
「自転車騒ぎが大したことじゃないのかよ」
相澤がいかにも面倒くさそうにため息をついた。男は「なんか言った?」と形式的に相澤に凄む。
陽は男に絡まれる相澤を目の前にしながら、どうするべきか考えあぐねていた。
向こうに座る上級生はすでにできあがっていて、なんなら半分くらい酔いつぶれて寝ている。助けは期待できそうにない。
「でも、結局その後ひとりじゃなにもできないってわかったもんな? あの塩崎に助けてもらってたし」
「塩崎さん?」
意外なワードに反応を見せると、男が今度は陽にも顔を向けてきた。
「ウーロン茶飲んでんじゃん。一年生? 真面目だな」
「えっと……」
「後輩くんにも見せてやりたかったな。こいつがスマホ投げられてあたふたするところ」
男がそう言って笑うと、後ろにいた仲間たちがつられて下卑た笑いを響かせた。陽の胸に黒い靄が広がる。なんなんだ、こいつら。いったいなにを言っているんだ。顔が強張るのを感じながら、膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。
相澤はまるで聞こえていないように、その一方的な会話を無視していた。口元を強く引き結び、やかましい風が通り過ぎるのを待っている。
感情的に言い返さないところは、AUWBとしての職務中の彼とまったく同じだった。しかしそれが、相手をさらに焚きつける材料になるのは簡単だった。
「なんか言えって、AUWBくん。いじめてるみたいじゃん」
「悔しかったよなぁ」
「涙目になってたりしない?」
言い返してこないのをいいことに、さらなる風が強く吹きすさぶ。
「結局、学内でイキってるだけで外じゃなんにもできないもんな」
ちょっと、と陽が中腰で言いかける。
コン、
と固い音が響いたのはその瞬間だった。
「そういうのって、つまんなぁい」
口を尖らせながら、若葉がくるくると毛先をいじる。今の音は彼女が、ハイボールのタンブラーをテーブルに打ちつける音だった。
「ねえ?」
「え」
美女に声をかけられた男が、わずかにたじろく。若葉はにっこりと微笑んだ。
「ここ居酒屋だしさぁ、一緒に楽しく飲もうよ」
ちょっと、とさすがに陽が口を挟む。相澤も同じだった。罵られてもまるで反応を示さなかった視線が動揺に泳ぐ。
「お兄さんたち、お酒強いの? あたしお酒強い人と飲むの好きなんだぁ」
明らかにかわい子ぶった若葉に、男四人がにやついた顔を見合わせ、紅一点の女が不快そうに顔をしかめた。お姫様はふたりもいらない、といった顔だ。
「物騒な話はやめてさ、仲良く飲もう。ね?」
若葉が頬に手を当てながら、花開くように笑う。
「飲み比べでもしながらさ」
一時間後。テーブルには男たちの屍が突っ伏しながら並んでいた。テーブルに倒れたグラスからこぼれた酒が遠慮なく彼らの服を汚していくが、うめき声が聞こえてくるだけで対処しようとするものは誰もいない。彼らの仲間である女だけが、テーブルの端で口を押さえて怯えている。いや、吐くのを我慢しているのだろうか。彼女も相当飲まされたはずだ。
「大樹、陽くん」
さすがに目の据わった若葉が、立ち上がってその惨状を眺めながらふたりを呼ぶ。
「……ああ」
「……はい」
実は向こうサイドの女と同じくらい怯えながら、相澤と陽が返事をよこす。このわずかな時間で、いったいなにが?
「先輩たちも」
ゆっくりと振り返りながら、若葉がふっと息を吐いた。瞳の翳りに、怒りの赤が滲んでいるような気がした。
目元の凄みとは裏腹に、若葉はにっと口元を広げる。先ほどの花が開くような笑みとはまったく別の、ちょっと獰猛な感じがする、陽の畏怖する笑み。
居酒屋の薄暗さに八重歯の輝きが映える。
「クソつまんねぇから帰ろう」
発した言葉はやや乱暴で、それがかえって彼女を一際美しく見せた。
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