15 二日酔いと香辛料

「頭が痛ぇ」

 翌日、AUWB全体の集合場所に現れた相澤は、陽の顔を見るなりすこぶる不機嫌そうな顔つきでそう言った。他の先輩方も似たような有様で、各々が各々の二日酔いに苦しんでいる。頭を押さえたり、口元を押さえたり、なぜかスンとした顔で空を見上げてみたり、反対に俯いて吐きそうになってたり。人はなぜ、翌日も職務があるとわかっているのに飲みすぎるのだろうか。

「頭が、痛ぇ」

「俺に言われても……」

「陽は大丈夫なのか」

「未成年なので昨日は飲んでないです」

「真面目だな」

 真面目なのだろうか。陽にとっては至極当たり前のことだと思っていたので、褒められてもいまひとつピンと来ない。

「若葉さんは……」

「あいつは大丈夫だと思う」

 相澤はこめかみの辺りを押さえると、よく晴れ渡った空を睨みつけた。午前八時四十五分。本日の学祭も晴天である。

「……昨日はあいつに助けられたな」

 昨日は、で陽も思い出す。突然絡んできた知らない連中。沈黙を通す相澤。勝ち誇った笑みの若葉。

「あいつら、なんだったんですか?」

 全体のミーティングが始まり、各自の割り振りが発表される。陽は昨日聞けなかったことを、小声で相澤に尋ねてみた。

「お前が若葉と行動してる間に俺がとっ捕まえた連中だよ」

「もしかして自転車で轢かれたときの?」

「そのあと、別件でもう一回絡まれてな。ほら、あの花火のとき」

「ああ、あれ!」

 自分が倒れた女子高生の介抱をしているときだ。知らないはずである。

 納得する陽の横で、相澤は口元に手を当てると、考え込むようなポーズを取った。目を伏せているのだろう、陽の角度からだとほぼ閉じているように見える。

「ただ、そのときに気になることを言っててな」

「気になることって?」

「相澤と陽ペア、聞いてんのか」

 こそこそと話し込んでいたふたりに、ミーティングの進行をしていた四年生が咎めるように声をかける。相澤は手を下ろして休めの姿勢を取り、陽は知らず知らずのうちに相澤に合わせて丸まっていた背筋を伸ばした。

「すみません」「聞いてます」

「今日ふたりは東校舎前からスタートだからな。昨日の西校舎動物園みたいに、よろしく頼むよ」

 ああ、とすでに若干遠い記憶を辿る。色々なことがあり過ぎてちょっと忘れていたが、西校舎の裏でニワトリを捕まえたのも昨日の話だった。ついでに、塩崎とのファーストコンタクトもそのときだった気がする。火薬越しだったけど。

「あの時点が一番平和だったな」

 相澤が腰に手を当てながら、やれやれといった顔で陽を見上げた。陽にとってはそんなに平和ではないイベントだったが、相澤と自分ではこの学祭において見えているものがきっと違う。

「今日こそは平和に済むといいんだがな」

 相澤は誰へともなくそう言うと、再びこめかみの辺りを指先で押さえた。



「昨日、連中が花火を上げていたのがこの地点なんだ」

 最初の巡回ポイントに着くと、相澤が唐突に地面を指差した。見ると、石畳が少し焦げている。

「市販の花火ですか?」

「ああ。直後には箱が転がってた。……今はもう片付けられたけどな」

 陽はしゃがみ込みながらその跡地を観察してみる。今はもうわずかな焦げ跡しか残っていないが、事が起こった当時は辺り一帯は大変だっただろう。見回してみると、油を使う飲食店も多く目立つ。昨日の水ヨーヨーの店の主人はパイプ椅子に腰掛けながら、呑気に開場時刻を待っていた。

「あれだけ派手な火薬パフォーマンスだと、塩崎さんなんかも黙ってなさそうですね」

 何の気なしに発した台詞だったが、相澤は途端に眉間を寄せると、「大正解だ」と表情にそぐわない言葉を返した。褒められていないことだけはわかる。

「正解……というと」

「塩崎さんだけじゃない。聞けばうちの先輩方も花火を見たり、人からの通報を受けたりして、真っ先にこの東校舎前に向かっていたんだ。……つまり、どういうことかわかるか?」

 相澤はポケットに手を突っ込みながら、爪先で地面をトントンと蹴りつつ、陽を見下ろした。えぇっと、と陽はしゃがみ込んだまま答える。

「巡回してた人々……と塩崎さんが、みんな東校舎前に集まる……ということですか?」

「それも正しいが『そこ以外の警備が手薄になる』と答えられたら満点だったな」

「あっ」

 気付きを得て、陽は思わず声を上げる。ただし、それが意味することにはすぐに結びつかない。相澤はふぅと息を吐き出した。

「鈍いな。俺たちがここに呼び寄せられている間に中庭でなにが起こった?」

「あ!」

 今度こそ陽は理解して、ポンと手を打つ。

 相澤が花火の打ち上げられた場所まで行ってしまったとき、中庭では女子高生が倒れ、直後に『究極サークル』のカレーが地面にぶちまけられた。

「……でも、花火とカレーを結びつけるには、情報が足りないんじゃないですか? ほら、偶然かもしれないじゃないですか」

「それがそうでもない」

 相澤はゆっくりと立ち上がると、東校舎と中央校舎の間の隙間を指差した。

「中央校舎の裏に林が広がっているのは知ってるな?」

「そのうち授業で行く予定ですが……」

「農学部はそうだよな。俺はそこの水ヨーヨー屋から、花火を打ち上げた奴らが裏の林に逃げていったことを聞かされたんだ」

 相澤はそのままゆっくりと林に向かって歩を進めていった。開場時間まではまだ少し間がある。陽は中庭のほうを振り返ると、先を行く相澤の背中を追った。

 相澤はそう広くもない林の中を歩きながら、後ろの陽に語りかける。

「ちょうどこの辺りで、俺は昨日の連中に絡まれたんだ。スマホを掠め盗られたりしてな。まあ情けない話だよ」

「そんなこと……」

「AUWBが好かれない集団なのはよくわかってるつもりだったが、それでもヘイトの管理とかその他諸々できることはあったはずだ。次は上手くやるさ。……で、だ」

 相澤は不意に立ち止まると、振り返って陽を見上げた。

「さっきの話の続き……連中が気になることを言っていたんだ」

 瞳には珍しく、鋭さと明るさが立ち並んでいる。鋭さはともかく、彼の目にこうして探究心のような光が宿っているのを見るのは稀なことだ。どちらかというとこういう目は若葉の専売特許で、相澤はそれを横から胡乱げに眺める担当である。

「気になること……って?」

「ああ。聞き出したところによると、花火を打ち上げたのは土田という学生の指示によるものだったらしい」

 土田。つい最近聞いた名前だと思ったら、最初に『究極サークル』に因縁をつけていた男子学生のことだった。毎年毎年因縁をつけてくる、もはや何留しているかわからない男。

「完全に『究極サークル』狙いじゃないですか」

「恐らくな。次見かけたら問い詰めようとは思うが……ただ、決定的な証拠がない。言い逃れのしようはいくらでもあるだろうな」

 それと……と相澤が陽の脇をすり抜け、校舎のほうへと戻る。陽も即座に踵を返した。もうすぐ九時。開場である。

「話が本当なら、奴は『真夜中組』だ」

「まよなかぐみ?」

 初めて聞くワードに陽は一瞬戸惑う。相澤は当たり前のように知っているみたいだが、もしかしてAUWBなら当然知っているべきことなのだろうか。

「陽は知らないよな」

 そんな陽の戸惑いを見透かしたかのように、相澤がちらりと陽を振り返る。その目が「心配いらない」と言っているようで、陽は幾分か安心できた。

「大学を根城にするヤクザな集団、とでも覚えておけばいい。関わりがないならそれが一番だーーもっとも、陽は前に連中と話したことがあると思うぞ」

「え、どこで!?」

 必死に記憶を手繰り寄せる。そんな変な輩に話しかけられたのなら、AUWBとしてきちんと対応していなければいけないはずだ。なのにまったく覚えがない。

 なぜ?

「覚えてなくて当然だ。なんせお前は入学して三日目とかの一年生だったからな」

「あっ」

 途端に思い浮かぶは、かの懐かしき胡散臭い笑み。右も左もわからない新入生である自分に不躾に声をかけてきた、あの男。

「新入生を勧誘して妙なサークルに囲い込む……ああいう手合いも真夜中組によくいるんだ。覚えておくといい」

 そう提言しながら前を歩く相澤が、あの日と重なって見える。あのとき助けてくれた相澤は、AUWBのプラカードを担いでいたはずだ。そのときはまだ、自身がそのプラカードを担ぐことになるとは露ほども思わなかった。

「ちょうど開場だ。今日も人が多くなりそうだな」

 中庭の遥か彼方、敷地西側の正門を遠くに視認しながら、相澤が肩をぐるぐると回す。

「なにはともあれ、この学祭が平和に終わればそれでいい。今日もそれなりに働こうぜ、陽」

「ナツメグだったよ、陽くん」

 爽やかに開始しようとした相澤の声を、よく知った美声が遮った。東校舎と中央校舎の間を抜けようとしていたふたりの男たちは面食らって立ち止まる。今、どこから? 辺りをキョロキョロと見上げる。

「昨日聞いたときから変だと思ったんだよ。やっぱりそうだった。ナツメグ。食べすぎたんだね」

 声は東校舎の非常階段から降ってきた。カンカンカンカンという足音とともに、昨日散々飲んだくれていたはずの美女が駆け足で降りてくる。

 なぜだろう。不思議なことは特にしていないはずなのに、神出鬼没という言葉がよく似合う。

「若葉さん!」

 若葉は非常階段の一階部分に到着すると、陽の呼び声に応えるように、ひらりと欄干を飛び越えて地面に降り立った。運動神経がいい。

「なにしてんだ、こんなところで」

 相澤が怪訝な表情で尋ねる。ゆうべあんなに飲んだのに、こんな朝早くから学祭にわざわざ訪れるとは。

「わかっちゃったんだよねぇ」

 二日酔いなどまるで知らないといったすっきりとした顔で、若葉はずずいと陽に迫った。ひょえ、と陽は顔の前にプラカードを掲げる。近すぎて緊張してしまう。

「なにがわかったんですか……」

「カレーを食べて女の子が倒れた原因だよ。ズバリ」

 人差し指をプラカードにぐりぐりと押し付けながら、若葉が声に興奮を薄く滲ませるのがわかった。

「ナツメグだよ」

「ナツメグ?」

 彼女が何度も連呼するそれを陽が聞き返すと、若葉は「そう」と勢いよくプラカードから指を離した。反動で陽の体が前につんのめりそうになった。

「ナツメグ……って、スパイスの一種のか?」

 横から相澤が口元に手を当てながら尋ねる。再び「そう!」と若葉が勢いよく返した。

「症状で『怯え』って聞いたときから、変だなとは思ってたの。そしたらビンゴ! ナツメグによる中毒症状だったわけ。まったく天才で困るね」

 やれやれとわざとらしく両手を上げる若葉の台詞はスルーしつつ、相澤は質問を重ねた。

「そんな一般的な香辛料で、中毒症状なんか起こるのか?」

「起こすんだなぁこれが。人間の経口中毒量は五グラムから十グラム。意外とお気軽に呼吸困難とか幻覚症状とか引き起こせちゃうわけ」

 陽は昨日の様子を詳しく思い起こす。若葉の言うことが正しいとすると、昨日あの女子高生が見えないものに対して怯えているように見えたのは、実際に彼女の目にしか見えていないものに対して怯えていたという可能性が高い。

 しかし、そんなピンポイントでナツメグが原因だと言い切れるのだろうか。

「他の原因は考えられないのか」

 似たことを思ったのか、相澤が次にそんな質問をよこす。若葉はその場でくるりと回りながら「ないよー」と気の抜けた返事をする。

「少なくとも今回の事件に関してはね」

「どういうことだ?」

 くるりと回って振り返った若葉は、先ほどまでとは違う表情をしていた。飄々としつつも、どこかに冷徹さが見える顔つき。

 なにかがあったな、と陽でもわかる。思わず身構えた。

「例の女子高生が運ばれた病院から大学に連絡があった。今『究極サークル』で緊急会議してる」

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