16 上じゃなくてこっちを見ろよ

「なんなんだよ、ここは」

 一番後ろで相澤がぼやく。陽も旧校舎に足を踏み入れてから、一応道を覚えようとトライはしてみた。が、右に三回と左に二回、階段をひとつ下った辺りからもうわからなくなった。

「陽くんはもう覚えたよね!」

 前方でスキップする若葉が今度は左に曲がって階段を上った。覚えたよね、どころか迷子になったら相澤とふたりで遭難するしかないのでもっとゆっくり先導してほしい。

「本当にこの旧校舎で『究極サークル』が集合してるのか」

 胡乱げに相澤が問うが、若葉と同様、陽にもそれが確からしいことはわかっていた。この校舎には『エル珈琲』があり、そこは塩崎の拠点のひとつだ。撤退を余儀なくされ、時間を持て余した『究極サークル』が集うにはちょうどいいと言える。

「ほんとは大樹を連れてくるかどうか迷ったんだけどねぇ」

 猫のようにむにゃりと口元を緩めながら、若葉がとある教室の前に立つ。看板こそ出ていないが、香りだけでそこが正解の部屋だということはすぐにわかる。

 若葉が扉を開け放つと、そこには昨日と同じく優雅な空感が、

「いい加減にしろよ! 誰かが入れてないとおかしいわけだろ!?」

「だからって私が入れたとは限らないでしょ!? 何回も言ってるじゃん聞いてくださいよ!」

広がってはいないと扉を開けてみる前から音でわかっていたわけだが。

 芳しきコーヒーの香り。そこに飛び交う強烈な非難の声(そしてわずかなカレー臭さ)。

 おおよそ『究極サークル』のメンバーと見られる学生たちが、決して広くはない店内にひしめきあっている。決して多くはないテーブルを占拠し、決して小さくはない(むしろめちゃくちゃデカい)声で大揉めに揉めながら。

「学祭で起こる揉め事はAUWBで解決でしょ? じゃ、頑張ってね」

「えっ」

 スマホで時間を確かめながら、若葉がスチャッと片手を上げていく。廊下の向こうにその後ろ姿がさっさと消えていくのを、陽と相澤は沈黙しながら見送るしかなかった。

「……え、あれ、まずくないですか」

 陽はふと気が付いて相澤に同意を求めた。

「なにがまずいんだ」

「俺、ここから校舎の出口までの道知らないです」

「……」

 相澤がわかりやすく閉口する。

 そうなのだ。自分たちはこの迷宮校舎から出る術を持たない。

 唯一の手段を言えば、目の前で揉めに揉めまくる連中に頼ることくらいだ。

 相澤が深くため息をつく。

「しょうがないな……」

 そうして相澤と陽は、恐る恐る『エル珈琲』内に足を踏み入れてみた。普段の相澤であれば「どうでもいいけど許可は取ってるのか、これは」くらいのことは言いそうだが(恐らく彼は人に迷惑がかかっていなければ割とどうでもいい)、さすがにそうも言っていられない状況である。

 こちらのことなど目に入っていない様子の部員たちに、相澤がいつものように声をかけた。

「AUWBです。ちょっとお話ーー」

「でもナツメグを入れ過ぎてたのは事実だろ。入れ過ぎたなら、調理担当の線が一番あるだろ!」

「なんで決めつけるんですか? 盛り付けのタイミングで入ったのかもしれないじゃないですか!」

「盛り付けで香辛料ぶっかける馬鹿がうちにいるか?」

「調理段階でレシピを間違える馬鹿もいないはずなんですよ、うちには!」

 もはや相手の男子部員につかみかからんばかりの勢いでテーブルに身を乗り出したのは、昨日半泣きで陽を屋台に呼び寄せた女子部員だった。確か火加減をじっと見ていたはずの部員だ。話し合いの中で書記を担っていたのか、手元にノートとボールペンを置いている。

「みんなで確認しあいながら作ってるじゃないですか!」

「あの、AUWBですが」

「どうやってそこで間違えるんですか!?」

「AUWB……」

 すごい。まるで聞こえていない。あの相澤が、相手の意識に入れてもらおうとしてはあえなく失敗している。ここまで気付かれないことってあるんだろうか。

「煮込んでいるときは全員が鍋を見張っていたわけじゃないだろ。火加減を見ていたお前を除いて」

「でも、もし鍋の段階でナツメグが大量に入ってしまっていたなら、もっと大勢の人に被害が飛んでいたはずじゃないですか!」

「でも売り子班では入れてない!」

「調理でも入れてない!」

 ヒートアップする二部員の周りで、他の部員がそれぞれの後ろにつく。曰く、調理班のミスだろ、そーだそーだ、いやでもそんなミスわざとじゃないとしないでしょ、そーよそーよこの子がわざとそんなことするわけないでしょ、等々。

 激しくお互いを責める言葉が飛び交う中で、火加減女子が思わず、と言った感じに手元のノートを手に取った。

 それが言い合っていた男子部員に向かって力任せに舞ったのと同時に、相澤が動いた。

「あっ」

 気が付けば陽の手にあったはずのプラカードが消えている。相澤はとっさに奪ったそれを持って男子部員の横に立つと、くるくると縦に回転しながら飛んできたノートをぱしんっと打ち返した。

 哀れなノートは再び高く舞い上がると、天井のシャンデリアにちょうどよくひっかかって止まった。

 天井付近でゆらり、と繊細な細工が揺れる。それを見て部員たちは一瞬、顔を上げて身構えた。落下する、と思ったのかもしれない。

 が、シャンデリアがその程度のことで落下してくるはずもなく。

「いいですかね」

 ようやく部屋の中まで通った声には、やや苛立ちが滲んでいた。相澤はプラカードを肩に立てかけると、フンと鼻を鳴らして名乗りを上げた。

「AUWBです。ちょっとお話伺いたい」

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