17 証明

 先程とは打って変わって、『エル珈琲』には静かで重苦しい空気が流れていた。AUWBの二年が武器よろしくプラカードを担ぎながら乗り込んできたからだろう。

「で、結局誰がナツメグを入れたかってことで揉めてるわけすか」

 入口付近で手頃な椅子を引っ張ってきて勝手に腰掛けている相澤が、心底面倒くさそうに頭を掻く。逆さに置いたプラカードに片手を付きながら、彼は先程ノートを投げた火加減女子ーーもとい、前原(一年生・文学部)を指差した。

「そちらの主張としては、鍋には適量のナツメグしか入れていないと」

「そうですよ……それは調理班の皆が確認してるはずです。味見だってしましたし……」

「それに、前原ちゃんが分量を外すことも考えられないし」

 同じ調理班と見られる女子学生が横から弁護してきた。

「前原ちゃん、高校時代に学祭でうちのカレー食べて、その味に憧れて入学してきたんですよ」

 かなりすごい理由をさらっと言ってくるが、とりあえずここの大学は入っておけばまず間違いはないのでよかったと思う。とりあえずで入った陽は強くそう感じる。

「ーーで、そちらの言い分としては、渡すときに急にスパイス増量することはないぞ、と」

 前原を指していた指をそのままスライドさせ、次に相澤が視線を向けたのは前原が言い合っていた男子ーーもとい、売り子係の後藤(二年生・工学部)だった。

「……当たり前のことしか言ってないぞ。そもそも俺たちは金とカレーを交換する役目だからな。手元にスパイスなんて置いてるはずもないし、なにか入れてたら隣の奴にバレるし」

 さっきまで後輩女子相手にヒートアップしていたことに気まずさでもあるのか、後藤は丸テーブルに視線を落としながらボソボソと口を動かさずに証言した。

「相澤さん、どう思います」

 相澤の後ろから肩に手をかけ、ひそひそと耳の近くで尋ねてみる。相澤はほとんどこちらを見ずに答えた。

「相互監視の中だと、犯行に及ぶにはリスクが高い。売り子係たちの線は薄そうだな……共犯でもない限り」

「その可能性が……だとしても、なんのために?」

「さあな。わかったら苦労しない」

 行儀悪く足を組みながら、相澤が部員たちを薄い目で見据える。

「鍋があればな」

「鍋?」

「鍋があれば、少なくとも火にかけられている段階でナツメグが入り過ぎていたかがわかるだろ」

 つまり成分を調べるということだろうか。大学の設備を使えば可能かもしれないが、それもたらればの話でしかない。カレー鍋は中身をぶちまけられ、その肝心な中身はデッキブラシで綺麗にこそげ落とされてしまった。

「なくても問題はない」

 ひそひそと話し込んでいた陽たちの背中を、よく通る声が飛び越していく。陽はびっくりして振り返ったが、相澤は少しの身動ぎもしなかった。

「塩崎さん……」

 主役よろしく遅れてきた塩崎は陽と相澤の横を突っ切ると、テーブル席ではなくカウンターの中を陣取った。初めて会ったときもそこにいたような気がする。

「火薬くせぇと思ったんだよな」

 相澤がぼそりと呟いた。

「塩崎さん!」

 前原が座っていた席から半分腰を浮かせた。裁判長不在の裁判がようやく終わった弁護士のような、安堵の表情だった。

「塩崎さん、あたし……」

「とりあえずわかったことがある」

 皆まで言うな、とばかりに塩崎が彼女の言を遮った。前原は大人しく元の席に着座した。

「俺たち自慢のうんこは、昨日も間違いなく美味かったはずなんだよ」

 真面目な顔してなに言ってんだこの兄さんは。陽はげんなりしつつ相澤を見下ろす。相澤は眉のひとつも動かさず、塩崎の発言に耳を傾けていた。

「それは、鍋がひっくり返ったとしても揺るがない事実だったんだ」

 カウンターに手を付きながら、塩崎が言葉を続けた。

 陽は昨日の事件現場を思い起こす。ひっくり返った鍋。集まる大学職員たち。呆れ顔の相澤と、空気を読まない塩崎。


『今年もうちのうんこはうまいな』

『ばっちいっすよ、塩崎さん』


 もしかして。陽は思わず声を上げた。

「あの一瞬で、味見したんですか?」

「一瞬もなにも、一口は一口だからな」

 事も無げに言うと、塩崎はカウンターの向こうでカチャカチャとなにかを用意し始めた。コーヒーでも淹れるつもりなのかもしれない。

「ひっくり返った鍋からは、分量以上のナツメグの味は感じられなかった。少なくとも火にかけられている間はなにも間違っていない」

 そういうことだと、少なくとも前原のせいではないということになる。彼女はほっと胸をなで下ろしたが、顔はいまいち晴れてはいなかった。

 そうなると次に目が向くのは、必然的に後藤ということになる。彼はそれを敏感に感じ取ったのか、深いため息をつきながらテーブルに肘をついた。

「……俺は、」

「わかったことがもうひとつ、ある」

 彼がなにかを言う前に、塩崎がまたしても言葉を遮った。

「とりあえずこれ見てくれよ。全員だ。AUWBも」

 ソーサーやコーヒーカップの準備をしながら、塩崎が器用に自身のスマホを投げる。それは吸い込まれるように後藤のもとへ飛んでいくと、彼の手の上にストンと収まった。

「SNSに載っているところをたまたま見つけてな。こんだけかわいこぶってるってことは撮影してるのはカレシなんだろうな、知らんけど」

 ギリコンプライアンス違反なコメントをしつつ、塩崎が皆をスマホのもとへと促す。陽と相澤も、部員たちの後ろからその映像を確認した。

 それは、見知らぬ女性が被写体となっている映像だった。『究極サークル』の隣で店を構えているたこ焼き屋の前で、ふーふーとたこ焼きを冷ましている。

「うちの屋台の隣で撮影されたものらしい。昨今の若者はなんでもかんでも記録したがるから助かるな」

 よく見ると、女性の後ろで売り子係の後藤があくせくと働いているのが見える。前原から受け取ったカレーを客が渡してくる金と交換し、笑顔でありがとうございましたーとお礼まで言っている。接客のプロだ。

「その次だ」

 自分からは見えていないはずなのに、塩崎が遠くからそう言った。そして確かに、次の瞬間にそのシーンが来た。

 被害者の女子高生が、行列の先頭に来る。前原が後藤にカレーの入った器を渡す。後藤は金とカレーを交換する。女子高生はそれを受け取り、小さく頭を下げる。

 そこに、変なものを混入させる暇などは存在しなかった。

「わかっただろ。これは前原のせいでも、後藤のせいでも、うちにいる誰のせいでもない」

 気がついたら、テーブルの上に人数分のコーヒーが置かれていた。本当に誰も気がついていなかったようで、皆揃いも揃って面喰らっていた。

 陽は相澤の席に振り返る。テーブルがないそこには、椅子の座面にコーヒーがふたつ並べられていた。

「ハメられたんだよ、うちのサークルは。俺たちはそれを証明しなければいけない」

 相変わらずカウンターの中にいる塩崎が、どこか獰猛さのある笑みを浮かべる。

「従って、AUWBの力もお借りしたい。お力添え願えるか?」

 もはや有無を言わさない威圧感に、陽は思わず相澤の後ろに隠れた。自分より背が低い人の影に隠れるみっともなさは重々承知だが、ここは相澤に判断を任せたい。

 相澤は再び、心底面倒くさそうにため息をついた。

 学祭の二日目は始まったばかりだった。

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