7 若葉が好きだった人?

 思わず陽の口から間抜けな声が出た。若葉は千円札をコイントレーに置くと、その傍で財布の中を探って細かい小銭を求めてゴソゴソし始めた。

「待って、確か五円持ってたから」

「え、す、好きだったんですか?」

「嫌いじゃないって話はしたじゃん?」

「じゃなくて、その、付き合いましょうってなるくらい好きだったんですか?」

 若葉に彼氏がいることくらいこの半年で充分慣れたはずだったが、陽はなぜかみっともなく泡を食いながら、若葉の涼しげな横顔に問い続けるしかなかった。直接的にこういう話を聞くことが初めてだったからかもしれない。

「んー、いや、なんかこう、ちょうどよかったからかなぁ」

「ちょうどよかった?」

 馬鹿みたいにおうむ返しする陽を見やりながら、若葉は一瞬思案するような顔を見せた。しかし、すぐにそれを打ち消すように苦笑する。

「あたしに彼氏がいたほうが安心、って人は結構いるんだよ」

「――」

 言葉の意味をとらえ損なった。ゆえに、数瞬の間なにも言えずに固まってしまう。

 いや、俺は全然安心じゃないんですけど? 若葉はそんなことを考えている陽のことは気にも留めず、さらに思い出したように「あっ」と嬉しそうに笑った。

「でも塩崎さん、確かそのとき断ったんだよ」

 ふられた話をなぜこんなに嬉しそうにできるのかは激しく謎だったが、若葉はにこにこと喋り続ける。

「珍しくあたしから告白した男子だったのに、すぐに『ごめんなさい』だったんだよね――いや、塩崎さんは『ごめんなさい』とかいう殊勝なこと言える人じゃないんだけど、とりあえずふられちゃったわけ。びっくりして理由を聞いたらさ」

「千円お預かりします」

 小銭を探していた若葉を待たず、コイントレーからさっと紙幣が回収される。男はレジ――ではなく、レジ代わりのコインケースから硬貨を何枚か取り出すと、無造作な手つきで釣銭をコイントレーに乗せた。

「あ、細かいのあったのに」

「そうですか。気が付きませんでした」男がわざとらしく肩をすくめ、入り口に目をやる。「そろそろ四天王杯が始まりますよ」

「わ、マジ? 急がなきゃ!」

 会計を終えた若葉が一足先に廊下へと飛び出していく。陽はすぐにその後を追おうとして、慌てて男に「すみません、ごちそう様でした」と再度声を掛けた。

「また来ますね……来れたら」

「来年には道を覚えているといいですね」

 笑顔で目を伏せながらコインケースを棚にしまい、カウンターから出て、ふたりのいたテーブルを片付け始める男。

 そういえば、と陽は急ごうとする足を止める。

 塩崎は『考える会』出身だと言っていたはずだ。ならば、ここの店員である男も、塩崎のことを知っているのだろうか。

「塩崎さんって、ここに来たりすることありますか?」

「――なぜ?」

 トレイにコーヒーカップと硝子のコップを載せながら、男が振り返る。相変わらずにこやかで、そのせいで逆に表情が読めない。

「あの、もしここに来たら、AUWBの一年がお礼言ってたって伝えてくれませんか。……その、ニワトリの件で、って言えば伝わると思います」

 口の中でもごもごと言うと、男はテーブルを拭きながら呆れたように応えた。

「……AUWBから見れば、指名手配犯みたいな男ですよ。いいんですか、お礼なんか言って」

 コップが丸くかいた汗を手際よく拭き取っていく。陽はその手元を見下ろしながら、慌てて付け足した。

「まずいのはわかってるんで、どうか内密に。助けてもらったのはほんとだし」

 頭の後ろを掻きながら照れつつそう伝えると、男は顔を上げ、しばらく品定めするような目で陽を見据えていた。そこにさっきみたいなにこやかさはなかったが、嘘臭さ、胡散臭さも存在しない。

「会えたらでいいんで! じゃ、失礼します」

 返事を待たず、急いで喫茶店を後にする。教室から出ると、廊下の向こうで若葉がぴょんぴょん飛び跳ねながら待っていた。

「陽くん早く!」

 置いて行かれると二度とこの校舎から出られないような気がしたので、慌てて追いかける。若葉はポケットに入れていたスマートフォンで時間を確認しながら、先導して走り始めた。なにが始まるというのだろう。

「若葉さん、四天王杯ってなんですか?」

「麻雀サークルの大会のひとつだよ」

「また麻雀しにいくんですか……」

「卓があたしを待ってる。四天王にあたしはなる!」

 どんだけ麻雀好きなんだろう、この人……と陽が内心思っていると、若葉が前を走りながらにやりとした笑みを見せてきた。

「四天王杯は勝ち抜くと、一年間は麻雀四天王として学内で崇められるんだよ。それってかっこいいでしょ? 憧れない?」

「法に触れないなら憧れますね」

「んもう、ロマンがないな」

 その返答ひとつで彼女がどんなところに行くのかがわかってしまって、また呆れてしまう。どうしてこう、やや法から外れた世界に軽やかなスキップで遊びに行ってしまうのだろう。よくこれで相澤と仲良くしていられるものだ。

「若葉さん、さっきの話なんですけど」

 いくつかの階段を上ったり下りたりした後、陽は若葉の斜め後ろから彼女に呼びかけた。若葉は振り返らずに「なーにー?」と応える。

「若葉さんに彼氏がいると安心する人って、例えば誰なんですか? 相澤さんとか?」

 瞬間、若葉が急ブレーキをかける。図らずも若葉の斜め前に躍り出た陽は、ぐりんと身体を反転させて振り返った。どうしたというのだろう。

 若葉は珍しく難しそうな顔をしていた。部室で難しい課題に取り組んでいるときも、麻雀で最初に配られた手牌が最悪なときも、常に挑戦的な笑みを浮かべている若葉が、だ。いったい何に直面すれば、彼女はこんな顔になるのだろう。

「大樹は気に食わないらしいよ」

 不満げに発せられた声は、今まで聞いた中で最も刺々しく彼女の相棒の名を呼んだ。

「別にあたしがどこでなにしてようが、大樹には関係ないはずなんだけどね」

 今度はすたすたと、陽の横を静かに通り過ぎる。さっきまで急いでいたのが嘘みたいだ。

「走らなくていいんですか」

「いいの。どうせあたしが行かなきゃ始まらないから」

「どこでどういう地位に君臨してるんですか、若葉さんは」

 窓の外を見てみると、自分たちがいるのはもう一階のようだった。出口は近いらしい。

「陽くんはさ」

 若葉はちらりと横の陽を見上げると、上目がちに囁いた。

「陽くんは、大樹みたいに心配しないでいてね」

「……」

 肯定もしなければ、否定もしない。別に答えがどちらでもいいのか、若葉は「してんのーう」と歌うように言いながら再び上機嫌に駆け出した。

「ちなみにどこに行かれるんですか?」

 校舎の外に出たタイミングで陽は尋ねてみた。念のためではあるが、彼女の足取りをつかんでおきたかった。若葉はにこりと微笑み、にべもなく言い放つ。

「見回りに来たら困るから、陽くんには教えないよ」

「な……」

「ほら、あれ見て!」

 若葉が中庭のステージを指差した。よく見るとさっき旧校舎内ですれ違った猫の着ぐるみが客の前で踊っている。コンセプトが謎のよくわからないダンスだが、意外と客ウケがいい。

 まんまとステージに目を向けさせられて、数秒の後にようやく若葉の意図に気が付く。くすっという笑い声が聞こえた気がして慌てて視線をもとに戻したが、予想通り、彼女は跡形もなく消えていた。

「やられた」

「なにがやられたんだ」

 ひとりで太ももを殴って歯噛みしていると、後ろから唐突に声をかけられた。無意識に背筋を伸ばして振り返ると、そこにはAUWBのプラカードを肩に担いだ相澤が立っていた。

「相澤さん――お疲れ様です。休憩ありがとうございました」

「おう」

 相澤は短く返すと、肩のプラカードを無言で陽に差し出した。同じく無言で受け取ると、踵を返して歩き始める。陽はようやく仕事モードに気持ちを切り替えると、若葉にしたのと同じように後を追った。

 大樹は気に食わないらしいよ。という若葉の言葉が思い起こされる。相澤が若葉の豊かな異性交遊歴を気に食わないという事実より、それを踏まえた上で若葉がああも難しい顔をする理由が気になった。

「若葉はどうした」

 後ろ姿をじっと見つめていたら、相澤が不意に振り向いた。陽ははっとして答える。

「麻雀しに行きました。なんか、四天王にあたしはなる! って言って」

「そうか。ただの麻雀であることを祈ろう」

 感触としては絶望的である旨は、この際黙っておいた。知らせたところでなにができるわけでもない。若葉も消えてしまったし。

「相澤さんは、どこに行ってたんですか?」

 横に追いついて話しかけると、相澤は中庭を挟んで遠くに見える中央校舎を顎でしゃくった。

「あそこの四階で駆け回る自転車を止めてたよ」

「え、大丈夫なんですか!?」

 思っていたよりずっとハードな仕事にぶつかっていたことに陽は驚愕したが、相澤の横顔はどこ吹く風である。

「ちょっと負傷したけど、大丈夫だ。妹に自転車で引かれたときのことを瞬間的に思い出した」

「それ走馬灯じゃないですか?」

「そうだったのかもしれない」

 ふたりは並んで中庭を縦断しながら、次なるトラブルを探し回った。昼が近くなってきたこともあり、屋台の立ち並ぶ中庭はさらなる賑わいを見せている。

「買った料理についてクレームをつけている人がいたら、どうしてあげるのが正解なんですか?」

 作りたてのたこ焼きに鰹節を振りかける屋台店員を横目に見やりながら、陽はふと相澤に尋ねてみる。

「あまりヒートアップしているようなら落ち着かせて、店に事実確認。本当ならば何らかのペナルティはあるし、続くようなら営業停止」

「やっぱりそういう対応ですよねぇ」

 どの店でもそんなことが起こらなければいいと思いながら、通り過ぎていく店たちを眺める。

「でも、事実確認って難しいですよね」

「そのあたりの面倒なことは、もう俺たちじゃなくて大学側の仕事になってくるからな」

 相澤がそう言い切った瞬間に、げんなりとした顔を見せる。なんだろう、と陽が思ってその視線を辿ると、そこは先ほど世話になった『カレー味のうんこ』の屋台だった。

「陽。一番面倒なことって、なんだと思う」

 足を速めながら、相澤が陽に語り掛けた。陽は突然の質問に疑問符を浮かべるしかない。

「それはな、はっきりと悪意のある連中の相手にしなきゃいけないことなんだよ。多分な」

 屋台に近付くと、『究極サークル』質素な看板が汚れていることに気が付いた。『カレー味のうんこ』の横に、うんこのような泥がついている。

 陽は言葉を失いかけながら、隣の相澤を見下ろした。

「究極サークルが……」

 相澤も不快そうに顔をしかめている。彼がこんな顔をするのは珍しい。

「さすが人気店。有名税が高い」

 左腕の腕章に触れながら、相澤がふーっと息を吐き出す。嫌な慣れ方をしてしまっているところが不憫だなと思う一方、自分も来年にはこうなっている可能性が高いことに気が付き、陽はため息をついた。

「頼りにしてます、相澤さん」

「一年だからって舐められるなよ、陽」

 屋台の前は人が大勢いて騒然としていた。

 陽はプラカードをぎゅっと握りしめると、相澤の後を追って、人の輪の中心に向かっていった。

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