6 ことり先輩の放送原稿
「前期は上代文学の授業で一緒だったけど、それ以来だね」
ことりは壁際のスチールキャビネットの上に置いてあった電気ケトルを点けながら、相澤に近くのパイプ椅子を勧めた。ありがたく座らせてもらい、プラカードを膝に乗せる。
「先輩はもう単位取り切ったんですよね」
学部の先輩であることりと授業が被っていたときのことを思いだしながら、相澤はなんとなく足元に視線を落とす。スニーカーの先端が土で汚れているのが目についた。ニワトリを捕まえたときに汚したのだろう。
「そ。だからあとは卒論だけ」
ことりは嬉しそうに言いながら、キャビネットの中から紅茶の箱とマグカップを取り出した。紅茶が常備してある部室。自分たちのところとは大違いである。
「っていうか、そのプラカード久々に見たな。相変わらず相澤くんが持たなきゃいけないやつなの、それ?」
「いや、さっきまで後輩に持たせてました。今ちょっと外してるんですけど、そのうち挨拶させますね」
「いいよー別に。どうせもう卒業する先輩なんだから覚えなくていいって」
電気ケトルからマグカップにお湯を注ぎつつ、ことりがそう言って笑った。相澤も連られて笑おうとしたが、うまく唇に笑みを形成できなかった。緊張しているのかもしれない。若葉と接するときの陽を思い出す。あれくらい素直に感情が出ると、いろいろ便利そうだなと思う。若葉も若葉で彼の反応を楽しんでいる。悪いやつだな、と傍から見ていて思うが、陽も楽しそうなので特に口を出したりはしない。
「今年は一発目から担当なんですね」
「そうなの。一日目の午前中だから、いろいろと立ち上げの準備が必要で大変だったよー」
ため息交じりに言いつつも、彼女は口元にきゅっと笑みを浮かべていた。学生生活最後の学祭。彼女なりに積極的に関わって終わろうとしているのだろう。
「今年も定期的にAUWBのことも放送すればいいんだよね?」
お湯を入れたマグカップにそっとティーバッグを浮かべながら、ことりが振り返る。
「あ、はい。去年と同じ原稿でお願いします」
「りょーかい。お姉さんの美声に任せなさいよ」
おちゃらけた口調で笑いを誘っている節があるが、実際にことりの声は誰もが認める美声だった。透きとおり、主張しすぎず、でもしっかりと耳に滑り込んできて、心の内側にすとんと落ちてくるような、ある意味特別な声を持っている。
「懐かしいなぁ、もう一年前か」
マグカップを見下ろしながら、ことりが独りごとのように言った。
「一年前?」
「先輩に連れられて、相澤くんが初めてここに来たときのこと。あのとき初めてだったから、特別にAUWBの原稿を読んでるところを後ろから見せてあげたんだよね。覚えてる?」
もちろん覚えている。なんなら昨日のことにように思い出せる。それはもう、かなりの衝撃だったし、終わってからも隣の先輩に「おい、相澤」と肩を小突かれるまで動き出せなかった。
「あのときがAUWBに入って一番誇らしかったですね」
「えー、なんで?」
ことりが「大袈裟だなぁ」と笑う。なんで、と訊かれても。相澤は「なんででしたっけ……」と答えをはぐらかす。機材の準備をする指の繊細さ、真剣な横顔、原稿を読むときの抑揚に合わせて少しだけ向きを変える頭、なによりその声。――彼女の声で読み上げられるAUWBの名は、なぜか一等特別だったのだ。
「はいこれ。熱いから気を付けてね」
お湯から引き上げたティーバッグをごみ箱に放り込むと、ことりは相澤にほかほかと湯気の立つマグカップを手渡した。「ありがとうございます」と両手でおずおずと受け取る。一瞬触れた彼女の指は冷たくて、少ししっとりとしていた。
マグカップに口をつけながら視線を横に逸らし、機材の机の脇に置かれたテーブルを見やる。そこにはところどころ赤ペンで訂正が入れられた原稿が置いてあった。
これは宣伝原稿だよ、と去年ことりに教わったのを思い出す。
毎年これを放送用に精査・再構成し、校内放送で読み上げることも、ことりのいるアナウンス研究部の仕事なのである。
相澤はその中で一枚だけ、他の書類から離れた位置に置かれた原稿を見かけた。他の原稿と違い、右下に青ペンで小さくペケのマークが書かれている。
これは読めない原稿なんだよ、とも彼女に教わったのを思い出した。
相澤はわずかに顔をしかめ、膝のプラカードの上にマグカップを下ろした。偶然にもちょうどいい台になっている。
「その原稿は……」
口に出して尋ねると、再びマイクの前の椅子に腰かけたことりが、わずかに相澤と原稿に振り返った。
「それ? ――塩崎くんのところのサークル」
「やっぱり……」
「今年も本人が大真面目な顔して持ってきたんだけどねー、やっぱり部内の放送コードに引っかかっちゃうんだよね」
申し訳なさそうに眉を下げながら、ことりが苦笑いする。
「幸いにも本人たちから文句も出ないし、私たちが宣伝するまでもなく売れてるからよかったんだけど、やっぱり特定のサークルだけ放送してあげないのは心苦しいとは思うんだよね」
「店名のせいですか」
「そうねぇ」
「別にいいんじゃないですか。それなりに繁盛してるみたいですし。俺もさっき後輩と食べましたよ」
相澤がマグカップに視線を落としながらそう言うと、ことりは「ほんと?」と相好を崩した。
「去年は頑なに行かなかったらしいじゃない。塩崎くん、喜んだんじゃないの?」
「いないときを見計らって買いに行ったので」
直前に作った借りを返しに行った、とは言わなかった。
「えー残念。塩崎くん、学祭じゃ危ないことばっかりしてるけど、結構相澤くんのこと気に入ってると思うよ」
「AUWBの規定に則って嫌いですね、俺は」
別に塩崎を嫌えとルールで定められているわけではないが、相澤は若干不貞腐れながら投げやりにそう返した。ことりが再度苦笑する。
「すっごくおいしかったでしょ? また買いに行ってあげてね」
「――考えておきます」
素直に頷けない相澤を見上げながら、ことりはふふっと笑い声を漏らした。なぜか少し楽しそうな笑みだった。
じゃあ、とヘッドホンを装着しながら、ことりがマイクに向き直った。
「原稿読むから、部屋出るなら今のうちだよ」
「ああ……はい」
相澤は後ろ手にドアノブに手をかけると、音を立てないように戸を開けた。
「今年もよろしくお願いします。……がんばってください」
「相澤くんもね」
ひらひらと手を振ったことりが、ふいとマイクに向き直る。途端に訪れる静寂から静かに身を引きながら、相澤はその後ろ姿を名残惜しく見つめる。
失礼します、と来たときより控えめに発しながら放送室を出ると、すぐに表示灯が赤く輝き出した。さっきまで話していた彼女の声が、廊下のスピーカーから聞こえ始める。
「――それってつまり」
カレーかうんこか問うサークル、と聞いてピンと来た陽がそのサークル名を口に出そうとすると、中庭からポーンと鉄琴のような音が響いた。続けて、プロのアナウンサーのような声の放送係が、ゆったりとした声音でお知らせを読み上げ始める。耳を澄ませて聞き入ると、その内容が自分たちの話だとわかった。
『――お困りごとの際は、オレンジの腕章を着けたスタッフにお声がけください』
「そろそろお仕事に戻られたほうがいいのかもしれませんね」
窓のほうを向いて放送に耳を傾けていると、カウンターの内側から男が陽にそう声をかけた。
「場が盛り上がってくると、いろんな不測の事態が起こり始めますよ。毎年そうですから」
訳知り顔で男がコーヒーカップを磨く。この男も、実は毎年様々なことに遭遇していたりするのだろうか。言われてみれば苦労の色がにじみ出ているような気がしないでもない。
「そうそう、大樹ももうひとりで何件か片付けてるかも――付き合ってくれてありがと。そろそろ合流しに行ってあげようか?」
「え、あ、はい」
若葉に促され、陽はカップに残ったコーヒーを急いで飲み下した。慌てて飲むにはもったいないくらいおいしいコーヒーである。今度またゆっくりと来よう――三日間しか開いていない上に、ひとりではとても来られないが。
「おいしかったです、ごちそう様!」
カウンターに向かって言いながらがたがたと席を立つと、若葉も財布を取り出しながらよっこらせと席を立った。そういえば奢ってくれるという話だったな、と今になって思い出す。
「すみません、ごちそう様です。素敵な……変わった? 喫茶店を教えてくれてありがとうございます。あと、塩崎さんの話も」
「いいってことよ」
長財布から千円札を引っ張り出しながら、若葉が不意に思い出したように言った。
「そういえば去年の冬くらいに、塩崎さんに『付き合ってくれ!』って頼んだことあったな」
一瞬にして店内を静寂が覆う。外のスピーカーが、午後の中庭ステージでの演目を読み上げているのが聞こえた。
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