5 彼は誰が為に校舎を上る

 


 敷地内北側の中央校舎を五階まで上りながら、相澤は階段の窓から外を眺めてみた。中庭を挟んで彼方に見える旧校舎のどこかに、若葉と陽の姿が見える気がする。ふたりがなにをしているのかは知らないが、若葉のことだ、そこらにある胡散臭い場所にでも陽を連れて行っているのだろう。まだ学祭の雰囲気に慣れていない後輩にはいい経験になるはず――と相澤は思うことにした。

 校舎内のスピーカーから放送が聞こえる。外にいたときから度々聞こえていた、十一時開演の演劇についての宣伝だった。相澤は窓から視線を外し、音がするほうを見上げる。右肩に担いだプラカードが若干鬱陶しい。さっきまでは後輩である陽に持たせていたが、若葉に連行されていくにあたって邪魔になると思ったので相澤が没収したのだ。

「なんか懐かしいな……」

 四階を端から見回りながら、右肩の重みに対してひとりごちる。一年前の学祭でも、先輩に連れられながらプラカード片手に中央校舎をぐるぐると見回ったものだ。あのときも校舎内はトラブルに事欠かず、相澤と先輩で片っ端から火消しにかかっていた。

 去年を思い起こしている相澤の目の前に、不意に長い行列が現れた。中庭にある汚い名前の美味いカレー屋ほどではないが、それなりに人気のある企画らしい。先頭を探してみると、それがとあるサークルの出店しているラーメン屋であることがわかった。そういえばなかなか本格的な豚骨スープの匂いがしてくる。

「通る人のためにスペース空けてくださいねー」

 AUWBらしく注意しつつ、壁際に立つように人々を配置していく。幸いにも担いだプラカードが役に立ち、客たちは比較的素直に指示を聞いてくれた。が、やはり人数が多かったためか、あまり先ほどと差があるように思えない。また、ラーメンを買った人々が店の前でズズッと味見していくので、人がいつまで経っても減らない。

 プラカードを高く掲げながら、客たちに何度も呼びかける。

「廊下で味見はご遠慮願います」

「三階に休憩室ございますのでそちらでお願いします」

「列からはみ出さないでくださーい」

「だから廊下で味見するなって」

 そんな相澤の努力の甲斐あってか、店の前の人々は徐々に整理されていき、どうにか通行者の邪魔にならない程度には人が減っていった。

「AUWBさん、ごめんね」

 教室内から顔を出したラーメン屋部員(?)の女子学生が相澤に手を合わせる。

「何回も注意してるんだけど、時間が経つとまた元通りで。面倒だったでしょ」

「仕事なので」

「でも助かった。ありがとう!」

「……」

 相澤は無言で頭を下げると、踵を返して廊下を進み始めた。「あとで食べに来てね!」という声が後ろから聞こえたが、肩越しに頭でお辞儀するに留める。AUWBというのは基本的に嫌われる仕事なので、素直にお礼なんか言われるとどう反応していいのか迷ってしまう。ただでさえ相澤は感情を表に出すことが苦手なので、尚更困る。

 面映ゆさに口元をもごもごさせながら歩いていると、前方から二人組の女子学生のハモった悲鳴が聞こえてきた。

 はっと身構え、プラカードをぎゅっと持ち直す。廊下の彼方から、なにかが猛スピードでやってくる。

 人々の波をモーセのように割りながら近づいて来たのは、馬だった。

「嘘だろ」

 正確には馬の被り物をしながら自転車をこぐ男で、後ろに乗った女が馬の目の前に人参を垂らしながら甲高い声で笑っている。それを別の男がスマホを構えながら追いかけ、同じくゲハゲハ笑いながら撮影している。怪物とはこのことだ、と相澤は思う。

「……」

 プラカードを身体の前に構えながら、頭をフル回転させる。後ろにはラーメン屋の行列。中にはふくふくと味見している人もいるだろう。ぶつかって熱いスープが飛んだら何人が火傷するかわからない。というかぶつかれば普通に大事故だ。

 素手で止める? 大怪我をする、無理だ。プラカードを構えようにもニワトリとは訳が違い過ぎる。というかプラカードでも止められてなかったじゃねぇかアレ。

 迷う相澤の横を、えっほえっほとふたりの学生が通り過ぎていく。ふたりが協力して持っていたのは頑丈そうな黒い板で、よく見るとそれが焼きそばなんかで使う調理用鉄板であることがわかった。

「それくれ」

 相澤はプラカードを横に投げ捨てると、ふたりから調理用鉄板をがばっと取り上げ、それを身体の前に盾のように掲げた。おかげで前が見えず、横で鉄板のふたり組が「ちょっと!」と文句を言っているのが見える。

「すぐに終わるから、ちょっと貸してく」

 言葉を言い切ることは叶わず、相澤は後ろに吹っ飛んだ。これはあれだ、むかし妹が坂道から自転車で駆け下りてきたところにぶつかったときの衝撃とよく似ている。あの時も走馬灯が見えた気がしたが、今は妹が「大丈夫!?」と呼びかけてくる声が走馬灯として聞こえてくる。大丈夫じゃねぇよ、お前、いい加減にしろよ。

 鉄板がガラガラと鳴りながら床に落ち、自転車に乗っていた連中が同じように床にすっころぶ。

 またハモった悲鳴が聞こえる。相澤は痛む身体を押さえながらむくっと起き上がる。そして、横に落ちていたプラカードを持ち上げて掲げてみせた。

「AUWBです。ちょっとお話伺いたい」


 鉄板を運んでいたふたり組に謝ってから、自転車に乗っていたやつら、およびそれを撮影していた男をきっちりと事情を問い詰める。どうやら賭け事で負けが込んだ馬面男が罰ゲームにやらされていたらしく、二重の罪状であえなく御用を言い渡すことになった。

「罰ゲームのわりに楽しそうでしたね」

 相澤が違反切符替わりに三人の学生証を没収し、スマホで撮影する。AUWBはその写真をそれぞれ共有することで違反者を認識し、残りの学祭期間にその違反者が構内をうろついていれば退場を命令することができる。

「んだよ、AUWBさんはそんなに偉いのかよ」

 馬の被り物を取っ払った男に学生証を返すと、彼は吐き捨てるように言って相澤を睨んだ。

「ただの身内のじゃれ合いだっつの。それとも俺らが誰かに迷惑かけたか? 勝手に飛び出してきたお前以外に怪我させたか?」

 興を削ぐことを最も重い罪と考えている人種には、周りで怯える他人の顔が見えていない。相澤はそっと目を伏せると、短く、しかし深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐いた。

 理屈が通用しない人間でも、あくまで冷静に。相澤が去年から心がけていることだ。売り言葉に買い言葉で喧嘩を買ってしまうと、今度は自分が取り締まられる対象になりかねない。

「大学側に任されているので――学祭期間は登校禁止です。大人しくしててくださいね」

 相澤は定型文を静かに告げると、伏せた視線を上げ、相手を見据えた。明日明後日も構内にいたら、絶対に叩き出してやるという決意を込めて。


 色々と巻き込まれたおかげですっかり五階に辿り着くのが遅くなってしまった。相澤は深いため息をつく。

 そうして五階の角にある一室の前に辿り着くと、彼は扉の上部に取り付けられた「ON AIR」の表示灯を見上げてみた。幸いにも今は点いていない。

 控えめなノックをし、返事を待つ。程なくして「どうぞ」と鈴のような声がこちらに届き、相澤は「失礼します」とこれまた控えめに言いながらゆっくりと扉を開けた。

「なんか忘れ物? 私原稿直すので忙しいから、悪いけど自分で探してねぇ」

 放送機器が埋め込まれた机の前で、その女子学生は書類を見つめながら「これ日本語間違ってんだよなぁ……」などと呟きながら、赤ペンでカリカリとコメントを書き込んでいた。肩口で綺麗に切り揃えられた艶やかな髪が、彼女が文字を刻むたびにさらりと揺れている。

「特に問題はありませんか」

 相澤がそろりと声をかけると、部屋の主は少しだけ肩を跳ねさせて、こちらを振り向いた。綺麗な髪がふわりとスカートのように膨らむ。

「相澤くんか。びっくりした、アナウンス部の誰かかと思って話しかけちゃった」

 ことりは椅子ごと相澤に振り返ると、持っていた書類を傍のテーブルに置いた。

「特に問題なく運営してるよ。――というか、久しぶりだね。今年も来てくれたんだ。見回りのルートじゃないのに、ありがとね」

 ことりが上目がちに微笑み、膝の上でそっと手を組む。

 相澤はどうすればいいのか少し迷ったが、やはり不愛想に会釈するしかなかった。

 スピーカーからあなたの声が聞こえたから、とはとても言えなかった。

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