4 クレイジーソルトの噂話
恐る恐る水を口に含みながら、隣に立つ男をこっそりと見上げる。近くで見ると意外と凛々しい顔立ちをしているのがわかる。腰の巻いたエプロンの内側に伸びた脚はすらりと長く、蹴り技なんかを繰り出したら絵的に映えそうだな、と陽は思った。
「では、もう少々お待ちくださいね」
エプロンをひらめかせながら、男がカウンターの内側に戻る。その後ろ姿を見送ると、陽は身体の向きを若葉のほうへ戻した。
「聞きたいことがたくさんあるって顔だね」
わかりきっていたことなのか、若葉がにやにやと笑った。特徴的な八重歯がきらりと光る。
「まあ、ここなら陽くんとゆっくり話せそうだと思ってね」
「一応AUWBですけど」
「君はここまでの道を辿れないでしょう」
確かに。大学サイドに摘発するべく相澤なり他の先輩なりを案内しようとしても、陽ひとりではここに到達できないような気がする。
「第一、運営の許可云々なんて、あってないようなものだよ。陽くん、うちの学祭の最大のルールは覚えてるよね?」
「……」
もちろん覚えている。「人に迷惑をかけないこと」だ。学祭が始まる一月ほど前、相澤が麻雀のついでに教えてくれた。
「誰にも迷惑をかけてないから、特に問題がない――ってことですか?」
「そのとおり。どこにも害をまき散らさず、来たら来たで美味しいコーヒーを振る舞ってくれる……この大学の学祭の中においては、だいぶ善に寄った店だよ」
「悪に寄ったところもあるってことですか?」
「なにしろ広い大学だからね。裏面も広大だよ」
指でお金のマークを作り、若葉がそれを覗き込む。さっきまでいたという麻雀サークルにもなにかありそうだ。オレンジの腕章を着けた自分に辿り着けるかはわからないけども。
「そんなことより、もっと知りたいことがあったんじゃないの?」
テーブルの下で組んだ足をぶらぶらさせながら、若葉が静かに告げた。
「塩崎さんのこととか」
目を見開き、真向かいの若葉を一直線に見つめる。
「塩崎さんのこと、知ってるんですか?」
「うん」
「どうして俺がそのことを知りたがってるって……」
あわあわと動揺しながら尋ねる。自分も相澤も、若葉に対して一言も「塩崎さん」のことは言わなかったはずだ。若葉はくすっと含み笑いをすると、自らの鼻を指差した。
「火薬の匂い。さっき近づいたときに感じたんだ」
「あっ」
急いで自分の身体を嗅いでみる。確かに爆竹が破裂した現場にいたが、そんな一瞬で匂いがつくものだろうか。どちらかというと、自分の身体からはニワトリの匂いがする気がする。
「ちなみに火薬より動物くささのほうが勝ってるかな」
「知ってるので言わないでください……」
「ともかく火薬の匂いがしたし、大樹もあんまり機嫌よくなかったし、これは確実に塩崎さん関連だなって思ったの」
それが果たしてどういう理屈なのかは激しく謎だったが、陽は口を挟まず、再度水を口に含んでみた。冷たさのかたまりがゆっくりと喉を通過していく。
「――塩崎さんっていうのは大樹の天敵でね。去年の学祭でも随分と暴れ回っていた記憶があるなあ」
「暴れ回っていたというのは……」
陽が尋ねると、若葉が懐かしむように目を細めた。視線を窓の外へ向け、一号館と二号館の隙間から中庭を見下ろす。レースのカーテンが風に揺れ、若葉の顔にちょうど触れない距離ではためいていた。なかなか絵になる風景だ。
「ロケット花火搭載エアガンで他サークルのカチコミに行ったりとかね」
「は?」
なんだろう、この素敵な雰囲気にそぐわない言葉が聞こえた気がする。思わず聞き返すと、若葉は一字一句、同じセリフを繰り返した。
「ロケット花火搭載エアガンで他サークルのカチコミに行ったりとかね」
「聞き間違いだったらよかったんですけどね」
陽が心底げんなりしながら言うと、若葉は嬉々として己の記憶を手繰り始めた。手には目に見えないエアガンを装備している。エアエアガンだな、とどうでもいいことを陽は考えていた。
「すごかったんだよ。私も一回見たことがあるだけなんだけど、パンってなにかが弾け飛んだ音がしたかと思ったら、綺麗な火花を散らしながらロケット花火が綺麗な弧を描いて飛んでいくの。花火独特の火薬の匂いがして、敵はその音と火花の輝きにビビって尻もちつきながら逃げて行って……ひとりで縦横無尽に暴れて相手を薙ぎ倒していく様から、人呼んで『クレイジーソルト』って言われてるらしいよ」
ダサいんだか調味料なんだかよくわからないあだ名である。陽は胡乱げな表情を隠そうともしない。若葉は気にせず続けた。
「でも、ただエアガンをぶっ放している無法者ってわけじゃないよ」
「エアガン持ってカチコミ行く人が無法者じゃないなんて、そんなわけあります?」
陽が慄いていると、若葉が再度くふりと笑った。
「まあ、AUWBの子としては当然の反応だよね。でもあたしは塩崎さんのこと、全然嫌いじゃないんだ」
どうして? という意味を込めて若葉を見つめると、彼女はテーブルの上で手を組んだ。
「塩崎さんの場合は、自分のサークルにケチつけられて営業妨害だと判断したときにそういった行動に出ていたから。筋の通らないことはしない。誰かをむやみに傷つけることはしない――だから割と好きだったな」
そういえば、と朝のどたばたを思い起こす。あの爆竹は明らかに自分たちに協力するために仕掛けられたもので、実際に効力を発揮して問題を解決することができた。
相澤は塩崎のことが嫌いかもしれないが、もしかしたら塩崎のほうはそうではないのかもしれない。少なくとも、嫌っている人間の助けになるようなことはしないだろう。
「まあ、エアガン使用が問題になって、結局去年は学祭最終日に構内出禁になってたけどね。本人的にはサークルのほうが最後まで営業できたから満足みたい」
「あの、さっきから言ってるその『サークル』って、どこのサークルのことなんですか?」
ふと気になって陽が尋ねたそのとき、テーブルの端に銀色のトレイがカチャンと乗っかった。答えようと口を開きかけていた若葉が、その勢いのまま「ありがとう」と口にした。
「ミルクと砂糖、あるいは両方、どちらにいたしますか?」
またしても知らぬ間にそこに立っていた男が、陽と若葉の前にそれぞれコーヒーを置く。白いコーヒーカップには金色の繊細な絵付けが施されており、中に注がれたコーヒーからは不思議な柔らかい香りがした。
「どっちもいらない」
「どっちもいいですか」
若葉と陽の声が重なり、男が静かに陽側にミルクと砂糖の入れ物を置く。若葉が「ほう」と言うような目でこちらを見てくるのがわかったが、恥ずかしいので気付かないふりをしておく。どうせブラックでは飲めませんよ。
「――それで、塩崎さんのサークルの話だよね」
コーヒーカップを持ち上げながら、若葉が思い出したように言った。コーヒーの中に色々混ぜ込んでいた陽も、一度スプーンを止めて話を聞く。
「実を言うと、彼はこの『エル珈琲』を主催する『考える会』の出身なの」
「出身ってことは、今は違うんですか?」
「そう。色んなことについて深く語り合うこのサークルのことは好きだったらしいんだけどね。自分でしっかり考えた上で喋るのが得意な人と、得意でない人がこの世にはいるからさ。みんなで話し合っていると、喋る人とそうでない人とで差異が生まれてしまう。……だから、あまり深く考えるのが得意でない人でも、自分の意見をしっかり持てて、真剣に考えて話し合うことができる――もっと明瞭で単純かつ、非常にどうでもいいことについて深く話し合うサークルを立ち上げたの」
不意に若葉が視線を逸らした。一瞬伏せられたように見える目線がどこを向いたのか、陽にはわからない。
「たとえば、カレー味のうんことうんこ味のカレーの、どっちなら食べられるか、とか」
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