3 考える珈琲
「ここはいったいどこですか……」
旧校舎に足を踏み入れたところまでは覚えている。しかし、そこから右へ何回曲がり、左へ何回曲がり、階段を何階分上がったり下がったりしたのか、もはや陽には思い出せない。
「ここには去年の学祭で、そのとき付き合ってた彼に連れてきてもらったんだ」
質問には答えず、あんまり聞きたくない情報をてらいもなく吐きながら、若葉は廊下の中央線を軽快な足取りで辿っていく。「はあ……」と生返事を返しながら、陽はあまり入ったことのない旧校舎の内装を観察してみた。壁は冷たい灰色のコンクリートで、天井には剥き出しの配管が何本も通っている。通り過ぎていく教室の扉は淵のクッション材が剥がれかかった引き戸で、そこにはめられた硝子越しに、色んなサークルの荷物や資材が白壁の教室内に置かれているのが見えた。
ここは旧校舎という通称だが、決して授業が行われていない校舎ではない。ただ、とても年季が入った建物なので、学祭で一般客向けに開放されている空間ではないのだ。その代わり荷物や資材置き場として利用されており、学生たちが頻繁に出入りしているのが見受けられる。さっきも工具箱を引っさげた女子学生、調理用鉄板を協力して運ぶコンビ、白黒のシャツを着たレフェリーのような格好の男、書生のような大仰なマントを羽織った人の好さそうな青年、猫の着ぐるみを着た怪しい人物とすれ違った。
「ここだよ」
若葉はとある教室の前で足を止めると、勢いよく引き戸を開いた。あちこちに視線を巡らせていた陽は、そのガラッという景気のいい音でようやく意識を身体の前に戻した。
そこは、今までの教室の様子とはまるで違っていた。壁は落ち着いた色合いのチョコレート色で、窓際のレースカーテンは品のいい白。床は他の教室とは違い板のフローリングで、大学特有の長机ではなく一本足の丸テーブルがいくつも並んでいる。いったいどういう仕組みなのか大きなL字カウンターの内側には水道とコンロがついた立派なキッチンが完備されており、さらにどういう仕組みなのか天井からは大きなシャンデリアがひとつ下がってきらきらと輝いている。
「いらっしゃいませ」
カウンター内にいた男が顔をあげ、若葉と陽を出迎える。柔らかい声音とともに、ふわっと暖かい空気がこちらに向いてきた。この香りは――コーヒー?
「一年ぶりですね、若葉さん」
カウンター内の男が若葉に向けて笑いかけた。細身な体躯にカマーベストと蝶ネクタイが似合う、どちらかと言えば二枚目な男だった。この大学の学生だろうか。学生ならば何年生だろうか。
「こんにちは。会長は?」
「今ちょっと出てますね。そちらのお友達は、AUWBの方ですね?」
若葉の後ろにいる陽を見やり、男が静かな口調で言った。なぜバレた、と陽はたじろぐが、考えてみればなんてことはない、オレンジ色の腕章を腕に着けたままだったのだ。ちなみにプラカードは「遊びに行くなら持っていくな」と相澤が持って行ってしまった。陽が連れていかれている間、彼がひとりで校内を回ってくれるらしい。
「後輩。ちなみに去年あたしを連れてきてくれた人はもう前の前の彼氏になった」
「なるほど。若いうちにたくさん恋を重ねておくのがいい、という『考え』もありますね」
暗に別の考え方も示唆しながら、男は丸テーブルを手で差し示す。
「お好きな席へどうぞ」
「わーい」
若葉は大股で教室内に足を踏み入れると、窓際のテーブル席にさっさと腰かけた。陽も慌てて後を追う。落ち着いた雰囲気ではあるが、こんな謎めいた空間にひとりで放り出されるのは不安だった。
足元でフローリングがこつこつと鳴る。大幅な改装工事でもしないとこんなふうにはならないだろう。たかだか学祭でそんな許可が下りるものだろうか。
「若葉さん、ここって大学から運営の許可って……」
「まあ座りなさいよ」
若葉の横に屈み込むと、彼女は指で弾くように向かいの椅子を指差した。すごすごと着座する。家具屋で何万もしそうな、趣味のいい木彫りの椅子だった。座面が尻に心地よくフィットする。
「……若葉さん、ここは」
「ここは『考える会』の学祭教室企画。通称『エル珈琲』だよ」
「エル珈琲?」
「考える、の『える』だよ」
そういう意味で聞き返したのではないが、陽はとりあえず「はあ……」と頷いてみる。
「『考える会』っていったい……」
「一応学内の公認サークルだよ。日常的に発生する疑問に対して仲間内で議論するサークル。学問のこと、政治のこと、人生のこと、恋愛のこと、色々」
そういえば入学した頃にチラシをもらった気がする。読んでも活動内容がよくわからなかったので結局捨ててしまったような気がするが、まさか学祭で大掛かりな喫茶店を開くようなサークルだとは思わなかった。
「どうしてこんな喫茶店を……」
店内を再び見渡してみる。自分らの他に客はいない。知名度が低いのか、道順のせいでここに辿り着けないのか。
「何代も前の会長の願いだったんですよ」
カウンターの内側から男が言う。
「当時の会長は、かつてヨーロッパに存在した社交場――コーヒーハウスを作りたがったんです」
「コーヒーハウス?」
陽が聞き返すと、男は「ええ」と頷いた。
「政治などの議論の場になった喫茶店ですね。酒を出さず、代わりにコーヒーや煙草、チョコレートを提供するサロン……自分たちが学祭でなにかを催すならばそれしかない、それもとびっきりの空間を用意するべき、と当時の会長は考えたわけです」
「でも、こんな立派な喫茶店が学祭に出てるなんて知れたらお客さんが殺到し過ぎちゃうから、こうして旧校舎の隅でひっそりと運営するようになったってわけ」
その当時を見てきたわけでもないだろうに、若葉が背もたれに身体を預けながら説明を継いだ。
「まあ、社交場って言えるほど人が入っているの見たことないけどね。少なくとも去年は」
「なにしろ入り組んだ場所にあるので……」
男が苦笑し、硝子のコップに蛇口から水をついだ。いったいどこから水を引いているのだろう。
「コーヒーでいいですか?」
「基本コーヒーしか置いてないじゃん」
紅茶は置いていないらしい。別にどちらでも構わなかったのだが、陽がメニューボードを探して視線をきょろきょろさせていると、若葉が椅子の上で伸びをしながら言った。
「これは去年、ここの会長から聞いた話なんだけど」
腕を下ろし、テーブルに片肘をつく。視線と身体は店内を向いていた。
「ここが開いた当時の会長はスパイ映画が大好きでね、紅茶は置かないようにしてるんだって」
「どういうことですか?」
「知らない? 有名な台詞があるんだよ」
若葉はひとつ咳ばらいをすると、人差し指をひょいと振り上げて、高らかに演じた。
「紅茶なんて泥水を啜っているから、大英帝国は衰退したんだ」
瞬間、ふたりの間にコン、と水の入ったコップが置かれた。
「それ言ってるスパイもイギリス人ですけどね」
面喰らってテーブルの横を見上げる。カウンターの内側にいたはずの男が、いつのまにか隣に立っていた。まったく気配を感じなかったというのに。
「もっとも、泥水だからと言って美味しくないとは限りません」
「そーね。現に外じゃ信じらんない名前のカレーが馬鹿売れしてるわけだし」
自然と会話に入ってきた男に驚きもせず、若葉が水を手にしながら答える。
テーブルの横に立つ男は口元ににっこりと笑みを浮かべると、テーブルのふたりを見下ろした。
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