一年目 アルティメット・クレイジー・スナイパー
1 開幕ニワトリ捕獲戦争
「……」
「……」
半泣きの係員に引っ張られてきた西校舎裏では惨状が広がっていた。六、七羽のニワトリが羽根をばさばさとはためかせながら辺りを駆けまわり、係員たちがそれを総出で追いかけ、それを見た柵の中の馬やポニーは興奮して前脚をぱかぱかと浮かせ、穏やかではない空気にあてられたヒツジやヤギがメエメエと騒ぎ立てている。現場に急行したふたりはその状況を目にするとそれぞれ黙り込んだ。陽は絶句、相澤は閉口。
大学敷地内の北西部に座する西校舎の裏では、農学部・獣医学部の研究室の合同展示が行われているはずだった。大学で飼育している動物たちとのふれあいコーナー、餌やり体験、ちょっとした芸の披露といった楽しい展示で、通称「西校舎動物園」と呼ばれているらしい。例年こどもの来場者にも人気なのだそうだ。
「ご、ごめんなさああい」
それがどうして学祭開始五分でこんなことになっているかというと、向こうで荒ぶる馬をなだめながら泣いている女子学生がニワトリ小屋の扉を閉め忘れたかららしい。馬をなだめる前に自分が落ち着いたほうがいい。
「しょうがないな」
相澤がそう言って陽の横から駆けだした。蛍光オレンジの腕章が鮮やかなラインを生みだす。陽は肩に担いでいたプラカードの処遇に迷ったが、一瞬後ろを振り返った相澤の「そこで張ってろ!」の一言で力強く棒の部分を握りしめた。自分が立っているのは校舎裏の端であり、この後ろからはすぐに中庭に出られてしまう。ニワトリが元気よく中庭へ飛び出していってしまえば、出店や来場者たちの中でパニックが起こるだろう。それはなんとしても避けなければならなかった。
プラカードを身体の前に持ち、ゴールキーパーのように足を踏ん張る。成鳥のニワトリは意外とでかい。気を抜いていると逆に襲われそうだ。というか陽はニワトリになど触ったことがないので、捕まえるといってもどうすればいいのかわからない。
向こうでは相澤が健闘しているのが見えた。校舎の壁に沿って逃げまどうニワトリを後ろから持ち上げ、ばさばさと抵抗するのをものともせず、係員に受け渡している。いやに慣れているように見えるが、もともと冷静さが勝つ性格なので、初めてだとしてもそんなに違和感はない。
そのとき、係員に追われてきたニワトリが二羽、縦に並んでこちらに向かってきた。一羽ならまだしろ、二羽である。陽は足が竦むのを感じた。が、動かなければニワトリが己の脇を通り過ぎて中庭に出てしまう。でもこのニワトリたち、すごくでかい。というか目が怖い。邪魔したら殺すぞ、と脅されているような気さえする。いや絶対にそうだ。
「陽!」
別のニワトリを取り押さえながら、相澤が大きな声で自分を呼んだ。「気をつけろ」なのか「ぼやぼやするな」なのかわからないが、陽はそれで一気に目が覚めたような感覚を覚えた。
ええいままよ、と内心で叫ぶ。陽はプラカードを構えたまま、しゃがみ込んで一羽目のニワトリの前に躍り出た。そのままぶつかるようにニワトリを抱きかかえると、ニワトリが激しく抵抗するのを感じた。プラカード越しなのでよくわからないが、猛烈な勢いで木の板をつついているのがわかる。キツツキなら通常かもしれないが、ニワトリでこれは異常じゃないか? 恐る恐る上からニワトリを見下ろしてみる。瞬間、ニワトリの鋭い眼光とかち合った。へひぇ、と変な声が出た。
コケッ! とニワトリが陽を威嚇する。陽は思わず尻もちをついた。その一瞬の隙を逃さず、ニワトリが陽の肩を飛び越える。陽はすぐに腰をあげてニワトリを追いかけた。が、芝生に足を取られてみっともなく転んでしまう。二羽目のニワトリがその背中と頭を踏んづけ、一羽目をコケコケと追った。美しいまでの敗北の絵面だったと思う。陽本人は転んでいたのでわからない。
やばい、と誰かが悲鳴を上げる。その先はもう中庭だ。もうおしまいである。誰もがそう思った。
パパパパパ!
破裂音が鳴り響いたのはそのときだった。間抜けなコケ方をした陽は、驚いて顔をあげた。見ると、勢いよく中庭デビューしようとしていたニワトリたちがビビり散らかしながらコケコケとUターンし、そのまま陽の脇を後ろへ通り抜けていくところだった。後ろからやってきた係員がそこを捕獲し、迅速に小屋へと連れていく。誰かが「残り一羽だから!」と鼓舞するように怒鳴った。
今の音は? 陽は徐々に騒動が収まりつつある校舎裏から顔を背けると、今しがた破裂音が鳴り響いたと思われる場所に目を向けた。ちょうど自分が立っていたところの二メートルほど後ろ。ところどころ雑草が生えた地面に、脇の茂みから紐のようなものが伸びているのがわかる。近づいてしゃがみ込むと、火薬っぽい匂いが鼻をついた。鈴なりに赤いものが紐についているが、ひとつ残らず焼け焦げている。
「爆竹……?」
「爆竹か」
陽が呟いたのとほぼ同時に、後ろで誰かが低く声を出した。ぎょっとして振り向くと、しゃがみ込んだ自分を覆うように、相澤が後ろから爆竹の仕掛け罠を見下ろしていた。
「相澤さん」
後ろではニワトリを全羽捕獲できたことを喜ぶ声が上がっていた。相澤はその輪に加わることなく、地面にしゃがみ込む後輩のもとへとやってきたらしかった。
「来たときには、こんなの引かれてなかったよな」
「多分……」
「じゃあお前の後ろでいそいそと仕掛けたやつがいたってことだ」
「全然気づきませんでした……」
相澤はやけに難しい顔でその爆竹を見下ろしていたが、不意に顔をあげると、苦々しげに呟いた。
「塩崎さんか……」
初めて聞く名前に、陽は戸惑う。
塩崎さんって誰だろう。常に飄々とした相澤にこんな渋い顔をさせる人間を、陽はまだ知らない。
辺りには火薬の香りが漂っていた。
花火を思わせる楽しげなその香りは、残念ながら大学敷地内では禁じられたもののはずだった。
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