4 由来、そして学祭へ

「で、結局どうする?」同じく履修がおおよそ決定したらしい先輩が、ふと陽に呼びかけた。「全然急かすつもりはないけど、どう? 入部する気になったか?」

 陽はしばし考え込んでみせたが、心はほとんど決まっていた。顎に手を当てながら、それとなく若葉を見やる。彼女はなにも言わず、黙って陽の決断を待っている。

 陽はこくりと頷くと、「入ります」と小さく、しかしはっきりと宣言してみせた。三年の先輩たちが「おおー」と沸き、相澤が小さく微笑んだ。

「じゃ、これが最初の選択ってわけだね」

 若葉が椅子に引っかけていたトートバッグを手に取りながら、おもむろに立ち上がる。

「素敵な大学生活へのルートに繋がっていればいいね」

「きっと繋がっていると思います」

 陽の返答に満足したのか、若葉はトートバックを肩に引っかけながらにぱっと笑顔を見せた。いたずらっぽく覗く八重歯が白く光る。


「前向きで素晴らしいね――じゃ、お邪魔しました」


 いきなりの他人行儀な挨拶に、陽は思わず「え?」と疑問符を浮かべた。部室の扉に手をかける若葉に、相澤が後ろから声を投げる。

「若葉もAUWB入ればいいのに。いつも遊びに来てるんだから」

「やだよ、こんな男くさいサークル。それに私は勉強で忙しいし」

「彼氏と遊ぶ暇はあるのにな」

「ないから去年だけで三回も彼氏替わったんだよ、思い出させないで」

 目の前で繰り広げられる会話に、頭が追い付いていかない。陽はただ「えっえっ」とうろたえながら、相澤と若葉のあいだで視線を行ったり来たりさせることしかできなかった。

「バイトがあるから、もう行くね。大樹も次会ったときは麻雀してよね」

「考えておく」

「じゃあ――」

 若葉は最後に陽と目を合わせると、実に美しく微笑んだ。きっと誰であれ目を奪われるはずの、完璧な笑顔。

「次ここで会ったら、今度は麻雀教えてあげるね。陽くん」


 若葉が去った後、相澤が陽の目の前にすっと一枚の紙を差し出した。入部届、と上部にかかれたB5の紙だった。

「じゃ、それ書いてから帰って」

 完全に騙されたような気分だった。し、相澤はきっとそのことに気が付いている。若葉のほうがどういうつもりだったかはわからないが、相澤からは絶対的な悪意を感じた。

「面白がってましたよね?」

 ようやく気が付いた陽が、非難の眼差しで相澤を責める。相澤は否定も肯定もせず、ただ笑っただけだった。

「ここにいれば、あいつとエンカウントできる。それは保証するよ」

 微笑みはどことなく、若葉に似ているような気がした。

「よろしくな、陽クン」



 それからの日々は、忙しくも穏やかに過ぎていった。陽にとって初めての仕事は、学内で開催されたゲーム大会のスタッフだった。マイク越しに景品を紹介したり、対戦者名を読み上げたり、それなりに目立つ役職だったため緊張したが、先輩たちのフォローもあって特別なトラブルもなくこなすことができた。

 次の大きな仕事は夏のオープンキャンパスのスタッフで、中庭に設営した「インフォメーションセンター」という名の小さなテントの下で高校生たちに道案内をしたりしていた。暑かったし大変だったけれど、夏休みなのに若葉が大学に来てくれて、汗だくの自分と相澤にアイスを差し入れてくれたのが嬉しかった。


 日々は穏やかに過ぎていった。

 十月に入るまでは。


「え、なんでですか?」

 思わず手牌から顔をあげ、部屋の入り口付近に立つ先輩を振り仰ぐ。三年生であり会長であるその先輩は、「年間通して最大の仕事だ」と前置いた上で、こう宣言したのだ。

「明日から毎日、可能な限り『鬼ごっこ』訓練だ」

「え、なんでですか?」

 そして最初の台詞に繋がる。陽は麻雀卓に手をついて質問した。

「鬼ごっこって、あの鬼ごっこですか?」

「そうだ」

「え、なんでですか?」

 再度の質問に答える前に、先輩たちが「もうそんな時期かー」と言いながら肩を回した。相澤はなにも言わず、視線を伏せながら壁際に立っている(さっきまで陽の手牌を一緒に見ながら麻雀を教えてくれていた)。

「あーあ、始まっちゃったね」陽の対面に腰かける若葉が頭の後ろを掻いた。「しばらく麻雀できないのかあ」

 戸惑う陽に、誰もなにも説明してくれない。

「鬼ごっこだけじゃなくて、構内でのかくれんぼも訓練に取り入れようぜ。あいつらどこに隠れるかわかんないし」

「別にいいけど隠れてるほうは暇だな」

「逃げ手がどこに隠れようと思うのかを学べるのはいいんじゃないか?」

「パルクールってこないだ動画で見たんだけど、生かせないかな」

「そんな一朝一夕で身につかないだろ。学祭まで一か月しかないんだぞ」

「でも多少飛んだり跳ねたりできる方が有利だよな」

 わけのわからない会話をくり広げる三年の先輩たちでは埒が明かず、困り果てた陽は背後の相澤を振り仰いだ。

 相澤は若干面倒くさそうに耳の後ろを掻くと、「えーと、なにから説明しよう」と思案した。

「陽、新歓のときに変なやつに絡まれたの覚えてるか?」

 もはや懐かしい話だ。怪しげなサークルに勧誘されている陽を、相澤が声をかけて助けてくれた日のこと。陽は「もちろん」と答える。

「新歓の時期は、学内に変なやつが紛れ込みやすいから、俺たちAUWBが見回りをしないといけない。――同様に変なやつが学内に増えるのが、学祭のときなんだ」

「学祭」

「陽、高校生のころにうちの学祭に来たことはあるか?」

 それはなかった。オープンキャンパスには来たことがあったが、学祭は確か他の大学のを友達と見に行った記憶がある。高校と比べて自由で、人が多くて、盛り上がっていた印象。大学の学祭なんて、どこもそんな感じではないのだろうか?

「来たことないなら驚くかもな。なにせうちの大学は『学生の自主性を重んじる』という姿勢にこだわってるから、法に抵触しなければ基本的になにをしてもいい」

「へ、へえ……」

「だけど、ひとつだけルールがあって、それが『他人に迷惑をかけない』ということなんだ。……俺たちAUWBはそのルールに抵触するやつらを取り締まる役割がある。新歓のときみたいに」

 そんな警察官みたいな役割を与えられるなんて聞いてない。と陽は言いかけたが、ふと入学したばかりのころを思い返す。


 ――なにしてるサークルなんですか?


 ――たとえば、オープンキャンパスの準備や当日の運営、学祭の見回り、その他大小問わず様々なイベントのスタッフ。


 言ってた。さらりと、そんなに大変な仕事に聞こえないように。半年ぶりに覚える騙された感。しかしこれは自分が悪い。契約書はよく読んでから判子を押すように、活動内容もよく聞いてから入部しないといけなかったのだ。――どの道、若葉に惹かれて入部していた可能性はこの際無視する。

「イベントごとで非日常にあてられた大学生って、アホなことしかしないからさ」

 若葉が気の毒そうに歯を見せて笑う。

「当日は相当走り回ることになるだろうね」


 後ろで「鬼ごっこだ」「かくれんぼだ」と騒ぐ先輩たちの声が遠い。

 そんな訓練がわざわざ必要になるようなことを、本当に学祭当日にする羽目になるだろうか。

「陽!」

 三年生たちが不意に振り返って、陽を笑顔で捉える。

「――なんですか」

「AUWBがどうしてAUWBっていうのか知ってるか?」

「知りませんけど」

 三年生たちは顔を見合わせると、にいっと歯を見せた。

「教えてやろう」

「怪しい連中と」

「浮かれ過ぎた連中と!」

「悪い連中を――ぶっ叩く会」

「それぞれの頭文字を取って、AUWBとなる。学祭はそんな俺たちの独壇場だ。頑張ろうぜ!」

 決まった――みたいな空気が部室内に流れる。

 職務への責任感、正義感自体はかっこいいと思う。

 陽は口元を押さえて呟いた。

「いや、だっさ……」

 かくして陽にとって初めての学祭が、幕を開けようとしていた。

 たくさんの、不安要素を引き連れて。

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