10 非常事態・陽

「本当にありがとうございました」

 何度も頭を下げてくる女性に謙遜しつつ、陽は肩車していた女の子をゆっくりと地面に下ろした。女の子が安心した様子で母親に駆け寄る様子を、相澤と並んで眺める。

 迷子の捜索・保護もAUWBの管轄である。人が多い学祭では、親とはぐれる子どもが後を絶たないのだ。

 陽がその女の子に気が付いたのはたまたまだった。中央校舎の向かって右側にある東校舎の前、ヨーヨー釣りの屋台のところで、三歳くらいの女の子が指をくわえながらぼんやりと水ヨーヨーの波を眺めていたのである。

「ねえねえ、君、ひとり?」

 近くに親がいる気配もなく、陽は一抹の不安を覚える。陽は相澤に断りを入れると、後ろからそろりと女の子に近付いた。まるで下手くそなナンパのような台詞だったが、女の子は指をくわえたまま「?」と不思議そうに振り向いた。幼女向けアニメの変身ヒロインが胸元にプリントされた上着を着ている。

「パパやママは?」

 しゃがみ込む陽に、そう問われた女の子は、口から指を離すと、辺りをきょろきょろと見回した。自分がたったひとりで突っ立っていたことにも気が付いていなかったようだ。不安げに「まま……」とたどたどしい口調で呼びかける。

「困ったな、迷子かぁ……」

「どうした、陽」

 陽の後ろから、相澤がぬっと顔を出す。「気の優しそうなお兄さん」の後ろから突然姿を現した「不愛想で怖そうなお兄さん」に、女の子はわかりやすくびくびくし始めた。「まま……」と今度は陽の影に隠れながら呼びかける。

「相澤さん、怖がらせないでくださいよ」

「そんなつもりはなかったんだが……」

 ばつが悪そうに頭を掻く相澤を尻目に、陽は女の子に優しく呼びかける。

「大丈夫、一緒にママを探しに行こう。君、お名前は?」

「ぶどう」

 女の子が涙目ながら答える。

「武道か。強そうな名前だな」

「相澤さん、ちょっと黙っててください。ぶどうちゃん、好きな食べ物はある?」

「じゅりちゃん、三さい」

「そっか~、俺も好きだよ」

 多分こっちが名前なんだろうな~と思いつつ、にこにこと話を合わせておく。ぶどうちゃん、もといじゅりちゃんは、そんな陽のにこやかな雰囲気に安心したのか、少しだけ陽に心を許したようだった。

「正門前のインフォメーションセンターが迷子センターを兼ねている。連れて行こう」

 相澤がスマートフォンでなにかを打ちながら、中庭越しに彼方の正門を見やった。敷地内西部、西校舎と一号館の間にこの大学の正門は存在し、ここからは少し遠い。三歳児の足ではかなり時間がかかるだろう。

「じゅりちゃん、これから迷子センターに行こう。肩車したげるからさ」

 顔を覗き込みながら提案すると、じゅりちゃんはこくりと頷いて、陽に手を伸ばした。陽は持っていたプラカードを相澤に預けると、ばんざいするじゅりちゃんに後ろを向いてもらい、脇に手を差し込んだ。丁重に持ち上げた身体は、見た目よりずっと重かった。

 三歳児の平均体重は十三キロくらいだと聞いたことがある。考えてみれば、スーパーで売っている米袋より重いのだ。

「落とすなよ、陽」

 ぐらぐらと不安定な滑り出しを見て、相澤が心配そうに声をかける。体幹がしっかりしていそうな相澤に任せたほうが本当はよかったのかもしれないが、じゅりちゃんの様子を見るにそれも厳しい。

「大丈夫です。俺も男の子なんで……じゅりちゃんはしっかりつかまっててね」

 肩にのしかかる重みに耐えながら陽がゆっくりと歩きだすと、相澤はプラカードを持って先導し――始めたかと思えば、急に立ち止まった。

「悪い、先に行っててくれ」

「え!」

 相澤は来た道を駆け足で戻っていき、あっという間に人ごみに紛れて見えなくなった。取り残された陽は、戸惑いながら正門までの道を重々しい足取りで辿っていく。

 途中、道端に立っている放送用スピーカーから、午前中にも聞いた美声が響いた。

『――ご来場中の皆様に、迷子のお知らせを致します。ペニキュアのトレーナーと、白い靴をお召しになった、三歳のじゅりちゃんが、迷子になっています。正門前のインフォメーションセンターまでお連れしますので、お心当たりの方は、正門前までお越しください』

「じゅりちゃん?」

 頭の上で、じゅりちゃんが己の名前に反応を示した。陽は「そうだね」と返しながら、内心で驚く。今の一瞬で、いつのまに放送係まで情報が渡ったのだろう。

「今の放送、きっとママにも聞こえたと思うよ」

「まま?」

「そう、ママ。だから、きっとママも見つけてくれるよ。安心してね」

 じゅりちゃんの顔は見えないが、彼女がきゅっと陽の髪の毛を握りしめた感覚は、頭皮で感じることができた。少しでも自分のことを信頼してくれたようなら嬉しい。

 肩の重みも、慣れてしまえばどうということはない。陽はじゅりちゃんを収まりのいい位置に座り直させた。行き交う人々が自分たちを物珍しげに見てくるが、特に気にならないし、むしろ誇らしい。

「陽」

 後ろから相澤が追い付いてきた。プラカードを肩に担ぎながら、自分とじゅりちゃんの真横について見上げてくる。途端にじゅりちゃんがびくりと身体を震わせて、両の足を浮き上がらせた。

「どうしたんですか、相澤さん」

 陽は思い切り手を伸ばし、そんなじゅりちゃんの頭を撫でて安心させる。すると、相澤がじゅりちゃんになにかを差し出すのがわかった。

「これ、欲しかったんだろう」

 相変わらず不愛想な顔で彼が差し出したのは、さっきじゅりちゃんが指をくわえながら見ていた水ヨーヨーだった。青い地に水色の模様が入っている。

「やる。……模様がこれでよかったのかはわからんが」

 愛想笑いのひとつでもすればよいものを……と陽も思わないでもなかったが、彼は彼なりに緊張しているのだろう。どうしていいのかわからず固まるじゅりちゃん(および相澤)に、陽は助け舟を出す。

「じゅりちゃん、もらっても大丈夫だよ。このお兄さん、じゅりちゃんのために釣ってきてくれたんだ。ほんとは優しいお兄さんなんだよ」

 ほんとは、は余計だろう。相澤が視線でそう訴えてくるが、口には出さない。

 じゅりちゃんはまたしばらく迷った末に、ようやくすっと手を差し出した。待っていたくせに慄く相澤は、おっかなびっくり、その手に水ヨーヨーを手渡す。壊れ物を扱うように、ゴムの部分を彼女の中指に通すと、ふたりの間で水ヨーヨーがご機嫌に跳ねた。


「放送係に迷子を知らせたのって、相澤さんですか?」

 さっきから顔の横で水ヨーヨーがぽよぽよと跳ねている。特には気にしていないが、少しくすぐったい。横を歩く相澤が、前を向いたまま答えた。

「ああ。お前が肩車する少し前に、スマホでな」

「なるほど」

 なにか打っているとは思ったが、あれは素早く報連相しているところだったらしい。というか、放送係の知り合いがいるなんて知らなかった。

「もしかしてあの美声のアナウンサーさん、相澤さんの友達なんですか?」

「友達なんかじゃない、ただの先輩だ」

 やや不機嫌そうに相澤が返す。塩崎と同じく、苦手がっている人なのかもしれない。あんなに綺麗な声をしているのに、相澤が苦手がる人物とはいったい。

「ほら、あのテントが迷子センターだ」

 相澤が陽を見上げながら、正門前の白いテントを指差す。仮にもAUWBなのでそれくらい知っていますが――と陽は思ったものの、相澤のその言葉がじゅりちゃんに向けられたものだと気付くと、少し微笑ましく感じられた。

 そういえば妹がいる、とさっき言っていた気がする。もしかしたら面倒を見る機会も多かったのかもしれない。


 インフォメーションセンターのテントに着くと、じゅりちゃんの母親とみられる女性がすでに到着していた。彼女はこちらに気が付くと、慌てて駆け寄り、「じゅりな!」と陽の頭上に呼びかけた。

「本当にありがとうございました」

 何度も頭を下げてくる母親に謙遜しつつ、陽は肩車していたじゅりちゃん、もといじゅりなをゆっくりと地面に下ろした。じゅりなが安心した様子で母親に駆け寄る様子を、相澤と並んで眺める。

「うちの卒業生の方ですか?」

 ちょっとした世間話のつもりで陽が話しかけると、母親はじゅりなを抱っこしながら答えた。

「ええ――といっても、もう十年くらい前の話になりますけど。不思議ね。当時はそんなに有難がってたわけじゃないのに、卒業してからAUWBさんのお世話になるなんて」

 オレンジ色の腕章を見下ろしながら、母親が微笑む。陽はきまり悪く相澤と顔を見合わせると、照れくさくなって少し笑った。相澤も少しおどけたように、大袈裟に肩をすくめてみせる。

 母親に抱かれたじゅりなが「ありがと」と手を振っていた。手に引っかかったままの水ヨーヨーが、挨拶とばかりにぽよんと跳ねる。


「なんかいい仕事しちゃいましたね」

 すっかり気分がよくなってしまった陽は、プラカードを普段より二倍くらいふりふりさせながら相澤と並び歩く。

「朝方、ニワトリと鬼ごっこしてたときには今日一日どうなることかと思いましたけど、人に感謝されるのって気持ちいいですよね。相澤さんはそう思いません? 他の先輩たちもどこかで感謝されてるといいなあ」

「AUWBは嫌われることのほうが多い仕事だからな」

 にまにましてしまう陽とは裏腹に、相澤は相変わらずの仏頂面である。今しがた手にした勲章にはまるで興味がない様子で、懇々と陽に言い聞かせる。

「正しいことをしているから感謝されることもあるだろうが、正しいことをしているからこそ憎まれることもある。それを忘れていると、そのうちお前のほうが落ち込むことになるぞ」

 忘れるなよ、と相澤が固い声を出す。

「俺たちは結局、大学の犬だからな。人に好かれようなんて考えないことだぜ」

 相澤は陽に言い聞かせるのと同時に、自分自身にも言い聞かせているようだった。なんとなくではあるが、陽にははっきりとそれが感じ取られた。彼が本当にそんなふうにしか考えていないのであれば、彼がああして、じゅりなに優しくするとは思えなかったのである。

「でも、じゅりちゃんには水ヨーヨーあげたじゃないですか」

「関係あるか、その話?」

「大ありですよ。相澤さんだって、いいことをしたのなら、あんな小さな子にだって好かれたいって思うんでしょ?」

 そしてそれが、特段間違っている感情だとも思わない。

 相澤はどう反駁するべきか考えているようだった。

 しかし、彼の反論の弁が思いつく前に、人々のざわめきが一面を覆い尽くした。

「花火だ!」

 誰かがそう叫ぶ声が聞こえる。悲鳴というよりは歓声。危機感よりも好奇心が滲んでいる。

「花火?」

 ふたりして顔を上げ、火花の出所を探す。きょろきょろしてしまう陽より先に、相澤が「こっちだ!」と走りだした。

「さっきまでいた東校舎の前だ! 早く!」

「え、待ってください! 待って!」

 相澤の背中を追いかけながら、東校舎のほうを仰ぎ見る。彼方に見える校舎の前では、確かに何筋もの花火が上がっているのが見えた。市販の花火だとは思うが、かなり上空まで届くタイプに花火である。

 陽の頭の中に、とある人物が思い浮かぶ。恐らく相澤もそうだろう。彼が群衆の真ん中で火花を発動させるからには、なにか理由があるのだと思う。

 しかし、もし仮に、彼じゃないとしたら──?

「あっ!」

 どん、と右肩に衝撃が走り、なにかが地面に落ちた。考え事をしながら走っていせいか、人と思いきりぶつかってしまったらしい。どんどん距離を離していく相澤を遠くに見送りながら、後ろを振り返って謝罪する。

「ごめんなさい! 怪我は……」

 ぶつかったのは制服を着た女子高校生で、地面に落ちたのはカレーの器だった。カレーは落ちた衝撃でぐしゃぐしゃになっており、目も当てられない。

「ご……ごめんね! 怪我っていうか、弁償もかな……? ほんとにごめん! 急いでて……」

「……」

 話しかけながら、陽は女子高校生の様子がおかしいことに気が付く。やけに緩慢な動き、うつろな目、明らかに白い顔――

「だい……」

 大丈夫、と声をかけようとしたときだった。

 女子高校生がゆっくりと地面に倒れ込む。持っていた通学鞄がアスファルトに投げ出され、彼女と一緒にドサッと音を立てた。

 え、と呆ける陽の横で、誰かが短い悲鳴を上げた。途端に自分と女子高校生の周りに、円のような人垣ができる。じっとこちらを見ているのに、誰も近づいてこようとしない。

 どうしよう。陽は無理やり己を奮い立たせると、しゃがみ込んで女子高校生を抱き起こした。呼吸が荒い。唇をわなわなと震わせながら、額からとめどなく汗を流している。

「やめ……こわ……」

 混濁した意識の中で、陽を突き放そうと弱々しく抵抗している。なにかにひどく怯えているようであり、うっすらと開かれた目には涙が浮かんでいた。苦しげに呼吸する彼女の肩を強く抱いたまま、陽は顔を上げて周囲に呼びかける。

「助けてください!」

 周りに立つ人々が、どうするべきか悩みながら顔を見合わせる。再度陽は呼びかけた。今度はより大きな声で、意図的に野次馬のひとりひとりと目を合わせる。

「助けてください! 誰か……えっと、あなたは救急車を呼んでください! あなたはインフォメーションセンターに行って大学職員を誰か連れてきてください! あなたは……」

 傷病者を救護する際は、周囲の人に具体的な役割を与えたほうがいい、と聞いたことがある。陽の指示出しが利いたのか、彼らはあたふたしながらもそれぞれの行動に移ってくれた。

 腕の中で女子高校生はなおも震えている。相澤はすでに遠くまで行ってしまった。周囲の人たちが動いてくれているのだけが頼りだが、陽と女子高校生のそばに来てくれるわけではない。

「しっかりして……しっかり……」

 陽は絶えず声をかけ続けるが、女子高校生は決してこちらには応えない。明らかな呼吸困難に苦しみながら、ぼろぼろと涙をこぼしている。

「しっかりしろ……俺……」

 言葉とは裏腹に、陽はその場で座り込むことしかできない。ただ、その場で大学職員が到着するのを待つことしかできなかった。

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