第12話 できること
強風と雨をくぐり抜け、春日井邸の敷居をまたいだ大樹が通されたのは、一階のリビングだった。
広いのに、どこか殺風景な部屋だ。
陽向の手によって明かりを灯された室内を眺め、最初に抱いた感想はそんなものだった。広々としたダイニングキッチンに、部屋の中心にはガラステーブルを挟んで高そうなソファーが二脚、壁際には液晶テレビと本棚がある。
生活するために必要最低限のものはそろっているが、何か大切なものが欠けている部屋。大樹にはそう思えた。どうしてそのような違和感があるのだろうと考えて、ふと思い至る。
この部屋には生活感がほとんどない。
片付いていると言えばそれまでだが、先に目についた大型家具以外には他に家具やインテリアと呼べるものがなければ、陽向や家族の私物と思われるものが極端に少ない。
誰か、生きている者がここで暮らしている感じがしない。部屋の隅に青々とした観葉植物の大鉢があるくらいで、部屋には圧倒的に家庭の温かみが足りないのだ。
家族写真の一つでも飾れば少しはましになるのに、と大樹は思う。
「えっと……、お父さんはまだ帰らないの?」
寒々とした部屋の雰囲気に耐え兼ねて、大樹は思わず陽向へ話しかけた。
が、とっさに口にした話題は、あろうことか陽向の家族についての問いかけであった。すぐさま後悔するものの、手遅れだった。
「父は、仕事が忙しくて……あまり家に帰って来ません。今日も会社に泊まり込みだと思います」
大樹が作った花束のラッピングを解きながら陽向が答える。声色は低く淀んでおり、表情もいつにも増して涼し気、と評するよりは冷ややかだ。あまり触れられたくない話題だったのだろう。
「そ、そうなんだ……。おかしなこと聞いて、ごめんね」
「気にしないで下さい」
幾分か毒気の抜けた声だったものの、態度は以前の素っ気のないものに戻ってしまっている。
急に、陽向との間に距離ができたように感じられた。やっと少し近づけた気がするのに、このままではまた遠ざかってしまう。彼を何一つ知ることもできずに、また冷たい雨の
自分の内側にいるもう一人の自分が、即座に首を振る。
本心を確認し、大樹はまた一歩、深いところへ足を踏み込んだ。
「お母さんは、別の部屋にいるの?」
ジャキンと、ハサミで何かを切断する音がした。陽向が花茎の長さを整えた音だ。か細く長い指が動き、慎重な手つきで花瓶へ花を挿していく。
茶色の、所々が丸みを帯びた光沢のある花瓶。よく似た花瓶が大樹の家にもある。その事実に、車内から春日井邸を眺めていた時にした何気ない推察は、あながち的外れではなかったと知る。
だが、本当に知るべきだったのだろうか。浮かんだ疑問は、しばらく大樹の頭から離れなかった。
「母は……、こっちです」
手に花瓶を持った陽向は、リビングルームと隣室を隔てる引き戸を開けた。
フローリングのリビングとは違い、その部屋は畳張りの和室になっていた。部屋の雰囲気は異なれど、余計なものが置かれていないのは同じだった。
仏間だ。部屋の明かりがつけられる前からそれが分かったのは、奥に据えられた仏壇の存在が真っ先に目を惹いたからだ。
質素な仏壇だった。大きさこそ大樹の祖父のものより立派だが、派手さは微塵も感じられない。好きな色は落ち着いた色だと陽向が言っていたことから、控えめな性格の女性だろうと大樹は想像したが、仏壇にさえも彼女の人柄が表れているように感じた。
同時に、陽向が母へ深い愛情を持っていることを痛いくらい理解した。
仏壇やその周辺はきれいに整頓されており、埃一つ落ちていない。果物や菓子など、供えものの量も多い。きっと毎日掃除をし、供えものも絶やすことなく置いているのだろう。
何より愛情の深さを感じられるのは、花の多さだ。備え付けの花瓶の他に、色とりどりの花が植えられたいくつもの鉢が仏壇の周りを彩っていた。
「あまりよくおぼえてないんです、母のこと」
背中越しに陽向が言う。父親のことと同様、あまり口にしたくない話題なのだろうということは、暗い声色から容易に想像がついた。
それでも、彼は話すのをやめなかった。
「僕が生まれて数年後に、病気が見つかって。亡くなったのは僕が小学校に上がって間もなくでした。だから母と暮らした記憶もおぼろげなものしかなくて。好きな花がトルコキキョウだったっていうことも、僕のことを好きだったのかどうかも……本当のところは分からない」
「春日井くん……」
想いを寄せる相手の名前を初めて呼んだ。そんな、本来ならば喜びとときめきに満ち溢れるであろう瞬間のおとずれが、こんな時になるなんて。
「ただいま、母さん」
仏前に座り、母へ呼びかけながら陽向は花瓶を供えた。
声色は本来の明るさを取り戻していたが、喉奥から精一杯、振り絞っているようにも思えた。
「これ、母の日のプレゼント。花屋のお兄さんに作ってもらったんだ。すごく、きれいでしょ。母さんの好きなトルコキキョウもあるよ」
お母さんに花束を渡した時の様子、ぜひ聞かせてね。
つい先ほど、陽向に向かって笑顔で言った一言だ。言わなければよかったと、後悔しても仕方がなかった。悔いる代わりに大樹が考えたのは、陽向のことだ。
あの言葉をかけられた時、どんなことを想ったのだろう。
生前の母の笑顔をおぼろげな記憶の中からすくい上げ、思い出そうとしていただろうか。それとも、直に接することのできない母とのやり取りを想像していたのか。
花束を渡すことはおろか、二度と逢うことすら叶わない大切な人、彼女を想って母の日に花を買い求めた陽向の心情へ思いを馳せると、締め付けられるように胸が苦しくなった。
「このお兄さんが、花束を作ってくれた森村さん。センスがよくて、とても優しい人なんだよ。雨がひどいからって、帰りもここまで送ってくれたんだ」
「あの、春日井くん……」
大樹が恐る恐る呼びかけると、陽向の声が止んだ。
こんなにもよく話す陽向を、大樹は初めて目の当たりにした。このように毎日、母親の仏壇へ語りかけているのだろうか。母が何か言葉を返してくれることも、相槌を打ってくれることさえもないと知りながら……?
出逢いの日、雨の向こう側に見た背中を思い出す。遠ざかっても、手を伸ばせば届くものと、二度と触れられないものがあるのだということも。
――今、俺にできることは何だろう。
考え抜いた末に大樹の口から出たものは、ありふれた問いだった。
「お線香、あげさせてもらっても……いいかな」
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