第8話 母の日


 ついに五月の第二日曜日がやって来た。


 花屋で働き始めて二年目となる大樹にとっては、母の日に店に立つのもこれが二度目だ。


 「去年の今頃は、右も左も分からなくて大変だったっけ……」


 前年の様子を思い返すと、自然とため息が出てしまう。慣れない業務に携わるようになって間もなかった当時は、指示通りに仕事をこなすだけでも精一杯で上手くいかないことも多かった。一年経った今でこそ、やっと花屋の仕事に慣れたとはいえ母のような余裕はまだない。


 それでも、植物への探求心は一年前よりも深くなり、仕事をしていてやりがいを感じる瞬間も増えてきたように思う。


 世話をした鉢花が誰かに買われたり、自ら手がけた花束やアレンジを見た客が笑顔になってくれたり、お礼を言ってもらえた時などは、心から喜べるようになった。


 「お客さんの喜ぶ顔。それが、うちが花屋を続ける一番の理由で、醍醐味よ」


 祖母と梢の口癖であり、フラワーショップ小林が掲げるモットーだ。


 幼い頃からよく耳にしていた言葉であったため、すっかり大樹の胸にも深く刻み込まれてしまっている。あまりに口うるさく言われていたので、一種の洗脳に近い。受験生の頃などは本気で疎ましく思えたものだが、成人し、実際に店に立つようになってからは梢の言葉の意味が身に染みて分かるようになってきた。


 「こんなに素敵な花束をあげたら、母もきっと喜んでくれると思います。ありがとうございます」


 「お役に立てたなら何よりです」


 店を辞する客の背中を、大樹は感謝の言葉と軽い会釈で見送った。


 オーニングテントの下で咲いた深緑色の傘の花は、大樹が作った花束を冷たい雨から守りながら、大切な人の元へと向かって行く。


 生憎、母の日は朝から雨が降っていた。そのせいか、人の出入りは平年よりも少なく感じられる。


 が、それで大樹の仕事が楽になるわけではない。


 「じゃ、配達行って来る」


 「行ってらっしゃい。気をつけてね」


 商用車として使っているバンへ荷物を積み終えて店内へ声をかけると、梢の声が返って来た。この言葉を聞くのは、今日だけで四度目となる。心なしか、回数を重ねるごとに声のトーンが素っ気ないものへと変わっていっているように思えた。


 母の日は、配達に出向く軒数が通常時の三倍にまで増える。朝、昼前、昼過ぎ、夕方と大樹は数時間おきにハンドルを握ることになるのだ。


 「今日はこれで最後だ。頑張れ、俺」


 運転席で自分を励まし気合いを入れ、大樹は車を発進させた。


 まだ四時前とはいえ、悪天候のせいで辺りはすでに薄暗い。下校時刻なせいか、街灯の下を歩く人影は学生ばかりだ。


 ランドセルを背負った小学生の男の子たちが、歩道で傘を振り回して何やら楽しそうに歩いている。つい十数年前までは自分もあんな感じで雨の日を純粋に楽しんでいたなと、無邪気に駆けまわる子どもたちの横を通り過ぎる瞬間、大樹は懐かしい気持ちになった。そうして、自分が幼かった頃よりも淋しいものへ変わってしまった街並みを眺めながら、配達先へ到着するまでの時間をやり過ごした。


 雨に打たれながらの配達は、骨身にこたえる。今までも何度か雨の日の配達を経験してきたが、まさか一年で最も忙しい日が雨天とは。車から降りて大急ぎで届け物の花を下ろして、配達先の軒下まで全力疾走……という作業を何度も繰り返すのは、男の大樹でもつらいものがある。


 それでも、花を手渡した相手が一瞬だけ見せる笑顔と、ありがとうの一言に救われながら、この日最後の配達をなんとかすべて終えることができた。


 「おつかれー」


 裏口から帰宅すると、タオルを持った友花が大樹を出迎えた。いとこの帰りを待っていたらしい。どうやら客数が少なくて手が空いているようだ。


 「おー、サンキュー」


 「そうだ、大樹。アンタにお客さん来てるわよ」


 「客? 俺に?」


 指名、ということだろうか。店にそんなシステムはないし、花束やアレンジの制作を客から名指しで頼まれたことなど、未だかつてない。


 髪をタオルで拭いながら問いかけると、友花が大まかな説明を始めた。


 「十分くらい前かな。高校生くらいの男の子が来てね、花束を作って欲しいって言うのよ。伯母さんがいつもみたいに接客しようとしたら、その子、店内を見まわして『ここで働いているお兄さんは、今日はお休みなんですか』って聞いてきたの。配達に出てるだけだって言ったら、『待たせてもらっていいですか』って言って」


 高校生くらいの男の子と聞いた途端、胸の奥で何かが大きく弾んだ。


 「その子、どんな子? 黒い髪で、前髪が長くて、大人しそうな子?」


 「そう。大人しくて、律義な子よ。前髪の長さまでは、ちょっと分かんないけど。今、店で伯母さんと話してるわ」


 気持ちがはやり、大樹はタオルを持ったまま店へ行こうとして、寸前で思い留まった。友花へ改めて礼を言いながら使用済みのタオルを手渡し、洗濯カゴへ放り込むようにと早口で頼む。


 店内へ足を踏み出す直前、一度だけ深呼吸をした。一旦、落ち着いておかないと、身体が震え出しそうだ。それくらい鼓動が高鳴っている。


 いつも通りに。まずは帰宅のあいさつから。


 「ただいま。配達、今日の分はぜんぶ終わったよ」


 声をかけると、こちらに背を向けていた梢が振り向いた。


 その向かいには、彼女よりも長身で細身な人影。


 「おかえり、ダイ。あなたに可愛らしいお客様がお見えよ」


 「……こんにちは」


 梢に紹介されて、戸惑った様子ながらもあいさつをしてきた少年は、やはり陽向だった。が、四月の朝に店先で再会した時には両目を覆いかけていた前髪は切られ、白い額の前で綺麗に整えられていた。


 「こんにちは。本当に、来てくれたんだ」


 喜びの気持ちから、自然と笑顔になる。陽向と目が合うと、照れ臭そうに視線をそらされた。初めて大樹から褒められた時に見せた表情と同じだ。


 「こないだも来てくれたのよね。大樹から話は聞いてるわ」


 「えっと、前はただ……雨宿りをしてただけで。でも今日は、ちゃんとお兄さんのお客さんとして来ました」


 「俺の……って、どういうこと?」


 陽向は、相変わらず大樹と目を合わせようとしないままで、それでもはっきりとした口調で質問に答えた。


 「母にあげる花束を、作ってもらえませんか」

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