第7話 記憶の中のきみ
大型連休が終わりを告げて間もなく、フラワーショップ小林にも繁忙期が訪れる。
「ちょっとダイ、配達は? 三時までに二軒あるでしょ」
「うわ、そうだった。行って来る」
「友花ちゃん、花束作るの手伝って。一人じゃ終わらないわ」
「はい! ええっと、お会計とどっち優先でしたっけ!?」
「どっちも優先」
こんな具合に、梢の口から無茶な指示が飛ぶほど、店は人手が足りない状態だった。朝から客がひっきりなしにやって来る。その理由は、大切な人へ感謝の気持ちを込めて花を贈りたくなる日が、もうすぐやって来るからだ。
五月の第二日曜。母の日だ。
四月の終わりから母の日当日までは、花屋にとって、いちばんの稼ぎ時であり一年で最も忙しい時期だ。
フラワーギフトの注文受付、発送手続き、加えてフラワーアレンジメントと花束作成の作業は、通常時の何倍もの量をこなさなければならない。細かい作業が苦手で普段は避けている大樹も、この期間は友花とともに花束とフラワーアレンジメントの作成に駆り出される。店が繁盛するのはいいものの、三人が総出で作業に当たってなんとか間に合わせている状況だ。対応に追われる身としては、毎日くたくたになって失神するように眠る羽目になるので、稼ぎ時だとしても大樹にはあまり有り難いとは思えない。
「あー、疲れた。もう動きたくねぇ」
「同じく」
「二人とも、お疲れさま。この忙しさも明後日で終わりよ。あと一日、よろしくね」
母の日を目前に控えた、金曜日。目がまわるほどの忙しさで、大樹と友花は疲れ切っていた。
業務に追われるだけの一日は怒涛の如く過ぎ、店のシャッターを下ろしてやっと終わりを迎える。
「さて、次は晩ご飯の用意しなくちゃ」と梢がエプロンの紐を解く。よく聞く呟きだったが、合間にため息が混じっていたこともあり、大樹は母の身体が心配になった。本来は疲れ知らずという言葉が似合うほどタフな彼女だが、さすがに疲労が溜まってきているらしい。
「今夜は出前でも取ろう。俺がおごるからさ」
「あら、めずらしい。いつもは節約しようってうるさいのに、どういう風の吹きまわしかしら」
「うるさいのは、どっちかって言うと母さんの方だろ。……ほら、今日は忙しくて疲れたから、ご飯の用意するのも大変だしさ。そばかピザでも出前頼もうよ」
「そうね。息子の厚意だもの、せっかくだからありがたく甘えさせてもらうわ」
「よかったですね、伯母さん。大樹ったら、一日早い母の日のプレゼント?」
「友花も、たまには晩ご飯食ってけよ」
「え、いいの? やった。じゃあついでに、帰り車で送って」
「お前ん
その後、晩ご飯は友花の強い推薦もあってピザに決定した。父も母もそして大樹も、異論は唱えなかった。
いつもより早く晩ご飯を済ませた大樹は、入浴前に自室で植物図鑑とノートを開いた。居間の方からする梢と友花の話し声や笑い声を頭の隅で聞きながら、図鑑の文字を音読する。自分の声を耳で聞きながら、読んだ内容をノートに書いていく。
四月から使い始めたノートだが、白紙のページは残りわずかだ。
文章に加え、インターネットで見つけた画像を印刷して貼り付けているので、一つか二つの項目だけでページがいっぱいになってしまう。行数やページ数はかさむが、大樹はこのやり方が自分にいちばん合っていると感じていた。心なしか、黙読をしても以前より眠くなりにくくなったような気もする。植物の勉強をし始めた当初は、文章を読むことを長く避け続けてきたせいで、余計に身体が拒絶したのかもしれない。
「ジギタリス。和名、キツネノテブクロ……か。どうしてこんな和名なんだろう。あの子なら知ってるかな」
「あの子って誰?」
「うわ!」
独り言へ、突如として問いを投げかける声がした。驚いて振り返ると、部屋の入口に友花が立っていた。
「最近の大樹、勉強熱心よね。……へぇ、キツネノテブクロなんて、変な名前」
図鑑を覗き込み、大した関心もなさそうな声で友花が呟く。
「おい、勝手に入ってくんなよ」
「写真付きとはいえ、こういうの……読んでもおぼえられるの? 眠くなっちゃうんじゃないの?」
「コツを知ったから、もう平気」
「ふーん。なら、伯母さんも安心ね」
彼女は大樹と違って読書を好み、記憶力もいい。花屋に常備してある生花の名前など、とっくにおぼえてしまっている。大樹はついこないだおぼえたばかりだが、友花は店の手伝いをするようになって一か月もした頃にはすでに品種名と簡単な知識を身につけていた。
笑顔で客に商品の説明をするいとこの姿を目にする都度、店の跡取りは自分よりも友花の方がいいのではないかと大樹は考えてしまう。
「この店さ、お前が継いだら母さんも喜ぶかもな」
以前、冗談で友花に言ってみたことがある。
すると彼女は、露骨に顔をしかめてこう答えた。
「はぁ? 何言ってんのよ。伯母さんたちは、あんたに継いで欲しいに決まってるじゃない」
それはそうだろうな。思いながらも、大樹はうなずくことも笑い飛ばすこともできなかった。
両親を喜ばせるには、いちばん手っ取り早くて楽な方法。
自分が花屋を継ぎ、仕事から解放されれば梢はどれだけ助かるだろう。痛めた腰に負担をかけなくて済むし、何よりもまとまった休みを取って自由に過ごせるのだから、喜ばないはずはない。
いずれ花屋を継ぐのは自分。分かってはいても、自信も実感もまるで湧いてはこなかった。
母のように楽しむこともせずに、ただ淡々と、仕事をこなす日々。
こんな自分が店を継いで、上手くやっていけるのだろうか。
「あ、サクラソウだ。この花、可愛いよね。画像でしか見たことないけど」
「こないだまで花を咲かせてたプリムラ、あれの原種はサクラソウだよ」
「え、そうなの?」
「ここには書いてないけど、信頼できる人から教えてもらったから――」
四月の朝。店の前に並べた鉢植えの前で、陽向と話をした時のことを思い出す。
すぐ隣りにあった笑顔。風が運んできた薄桃色の花びらが、黒髪をかすめていく。
目に焼き付けたはずの光景は、月日が過ぎるとともに少しずつ仔細が曖昧になっていった。最初のうちは周りの些細な音やにおいまで思い出せたのに、今では陽向の笑顔も輪郭がぼやけてしまっている。
もう一度。あの笑顔を見られたら、どんなに。
「大樹?」
「……いや、何でもない。帰るなら、送って行こうか」
「いいの? さっきは渋ったのに、心変わりが急ね」
「夜風にあたりたくなったんだ。お前を送るのは、そのついで」
「何よそれ」
呆れたように笑いながら友花が部屋を出て行く。あとに続こうとした大樹は、ふと足を止めて開いたままの図鑑を見下ろした。ピンク色の愛らしい花の写真を、しばし眺める。
「本当に、桜によく似てるんだな」
サクラソウの写真を指先でそっと撫でると、プリムラの花の香りが蘇った。
陽向に教えてもらわなければ、二つの花に深いつながりがあるなんて知らないままだっただろう。
彼が店に来ることは、もうないかもしれない。来たとしても、店に用があるだけで自分に会いに来るわけではない。
それでも「また会いたい」と思うのは、よこしまな気持ちなのだろうか。
芽生えた淡い想いに目をつむり、大樹は重い図鑑を閉じた。
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