第6話 次は
ボタボタと、水がこぼれ落ちる音が手元から聞こえる。
「おはようございます」
「えっ。あ、うん、おはよう」
大樹はあわてて立ち上がり、どきまぎとあいさつを返した。
あまりにも突然の再会に、鼓動が高鳴り始める。胸中を占めたのは驚き、そして何故か喜びの感情だった。
出会った時と同じ制服姿の少年は、傘を持っていた。
赤い傘。大樹が貸したものだ。
「あ……。もしかして、傘を返しに来てくれたの?」
「はい。貸してもらえて、とても助かりました。その節は、本当にありがとうございました」
道端で軽く頭を下げる少年を見て、やはり礼儀正しい子だなと大樹は思った。
「こっちこそ、こないだは話し相手になってもらっちゃって……。そうだ、あれから体調崩したりしなかった? 結構、濡れてたみたいだけど」
「平気です。こう見えて、身体は丈夫なので」
「そ、そうなんだ。それならよかった」
「……気にしてくれていたんですか」
「えっ。ああ……うん、ちょっとね」
「優しいんですね」
地面に向けられていた瞳が、ふっとやわらかく細められる。少年は微笑んでいた。
笑ってくれた。微かに、ではあるが確かに。嬉しくなった大樹は、つられて笑い返しながら「そうかな」と頬をかいた。
二人の間をやわらかい風が通り過ぎていく。
少年の長い前髪が風に吹かれて優雅に踊る。その奥に隠れている黒い瞳は、大樹のことを見つめていた。眼差しは、ショーケースに並べられた花を見つめていた時と同じように、穏やかだった。そこに、前回までの態度には含まれていた冷たさや近寄りがたい雰囲気などは含まれていなかった。
「あれからさ、きみに教わった勉強法を試してみたんだ。そうしたら、やっぱり俺に合ってるみたいで、前よりも花についての知識が深まっていくのが分かるよ。おかげでこの三日間は結構、勉強がはかどってる。花の名前もおぼえられるようになってきたしね」
「じゃあ……、この花の名前、分かりますか?」
少年が店の前で屈み込み、ある花を指差す。切れ込みのある花びらに楕円形の葉が特徴的な可愛らしい花だ。
「プリムラ、だよね。確か……和名はサクラソウ」
「正解です」
「やった」
喜びを態度に出してみるが、今度は少年の顔に笑みが浮かぶことはなかった。なんだか、こうして素直に喜んでいる自分の方が彼より年下のように思えてきて、大樹は気恥ずかしくなった。
「どうして日本ではサクラソウと呼ばれるのか、知ってますか」
「え。そ、そこまでは……」
「この国に自生するプリムラは、花びらが五枚で色はピンクが主流なんです。ここにあるプリムラもちょうどピンク色ですけど、花の形も併せて見てみると桜によく似ているのが分かると思います」
「桜に似てるから、サクラソウってことか」
少年の隣りに立ってプリムラを観察してみる。一つの花の大きさは桜よりも大きいが、花びらのつき方や切れ込みが入った形は桜の花の特徴と似ていた。
「プリムラは暑さに弱いので、もう少し暖かくなってきたら風通しのいい半日陰に置いてあげて下さい」
「きみって本当に、花に詳しいね。尊敬するよ」
近くでお互いの視線がぶつかる。
その瞬間。少年の白い頬に赤みが差した、ように見えた。実際に色が変化したのか、それとも大樹の気のせいだったのかは分からない。
少年は即座に大樹から顔をそむけてしまった。
「ねえ。……名前、聞いてもいい?」
大樹はためらいながら少年へたずねた。
きっと渋るだろう。相手が何かを答える前から、自分で決めつけていた。
だから照れくさそうな声で自己紹介をされた時には、思わず目を見開いてしまうほどに驚いた。
「……
少年は大樹の方へは視線を向けず「お兄さんの名前は?」と、口の中で呟くように問い返した。
「俺? 森村大樹」
「小林さんじゃないんですか?」
「それは母親の旧姓。この店は元々、俺の祖父母――俺の母の両親が経営してたんだ。で、後に母が結婚して森村に名字が変わったってわけ」
「そうなんだ……」
「昔から店に通ってくれてるお客さんたちの間では、未だに小林さんって呼ばれてるよ。まあ、俺たちにしてみれば小林でも森村でもどっちでもいいんだけど。林か森かなんて、いちいち気にならないしね」
「林と、森」
「小林と森村」
ふふっと、可笑しそうに笑う小さな声を聞いた。最初に笑っていたのは大樹の方だったのに、隣りで笑う陽向の横顔を目にした途端、彼は笑顔を浮かべる余裕と言葉を同時に失くした。
目が離せない。金縛りにかかったように、その場から動けなくなる。
いや、本当は動けないのではなく、動きたくないのだ。
ずっとこうして見ていたい。時間の流れを止めてしまいたいとさえ思った。叶わないことを願ってしまうほど、大樹にとっては特別な瞬間だったのだ。
「森村さん」
まじないを解いたのは、陽向だった。
「僕、そろそろ行かないと」
「え、ああ……うん。日曜日なのに授業?」
「いえ、今日は部活です」
「何部?」
「園芸部です」
さすが花好き。大樹の口から感嘆のため息が零れる。
陽向は屈めていた身を起こすと、赤い傘を大樹に差し出した。傘は丁寧に折りたたまれ、汚れも見当たらない。貸した時と同じ姿で戻ってきたことに、大樹はこっそり安堵した。
「今日はこれで失礼します。でも、」
言葉が途中で切られたことが気になり、注意を手元の傘から陽向へ移す。
「次は、ちゃんとお客さんとして来ます。お金も持って」
「お金なんていい」
今、しゃべったのは誰だ。
自分の声であることは明白だ。だが、そんなことを口走ってしまったという事実が信じられない。一度立ち止まって言葉を選びもせず、思ったことをありのまま伝えてしまうなんて。
ここから、どんな言葉を続ければいいのだろう。強い焦燥感で思考が上手くまとまらない。
「お金がないと、買い物はできないと思います……けど」
心の底から不思議そうに陽向が言う。
「そ、そうだよね! 何言ってんだろう、俺」
助かった。苦笑いで場を誤魔化しながら、大樹は内心、冷や汗をかいていた。もう二度と無意識に本音を吐露するものかと固く心に誓う。
「じゃあ……、また来ます。お仕事中すみませんでした」
「部活、頑張ってね」
「はい」
紺色の制服姿が、少しずつ遠ざかっていく。日光を背中に浴びて歩く少年の足取りは、しっかりとしていた。
一方で、大樹は直立していられないほどに動揺していた。
「何やってんだ、俺」
並んだ鉢の前にしゃがみ込み、ため息とともに文句を吐き出す。
一人きりになった途端、何か熱を帯びたものが体の外に出たがり始める。
それは、口にすることなく胸の内に留めた、本当の想い。
「お金なんて持っていなくてもいい。雨宿りのついででもいい。きみとまた逢えるなら、理由は何だっていいんだ」
風にそよぐ花たちだけが、大樹の本心を聞いていた。
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