第5話 開店準備


 花屋の仕事は早朝から始まる。


 一日の初めにまず行うのは、仕入れ作業だ。市場へ出向き生花や鉢物、資材などを必要な分だけ仕入れて来なければならない。値段の相場を考えつつ、需要を鑑みたり時には流行を取り入れたりなど、早起きして間もなく頭を使うことを強いられる。


 大樹にとって、細かい手作業の次に苦手な仕事だった。太陽が昇って間もない時刻に起きなくてはならないし、買い付けが終われば商品を車に積む作業が待っている。起きて早々、力仕事をしなくてはいけないのだ。だから母親を一人で行かせるわけにいかないことも重々承知している。平日の朝はぼけまなこのまま朝食を摂り、朝に強い梢に運転をまかせて助手席で居眠りをしながら市場へ向かう、という流れが大樹にとっての普通であった。


 雨宿りの少年との出会いから四日後の日曜日。その日、大樹は八時になってもまだ布団の中にいた。


 土曜と日曜は父親の仕事が休みなため、早朝の仕入れ作業を代わりに担ってもらうことが多い。花屋を手伝うと決めた時に挙げた条件の一つだった。寡黙な父は、特に何も言わず息子から提案された自分の役割を受け入れた。


 長くは続かないだろうと分かっている。いずれ通用しなくなる条件だ。


 だから、せめて今のうちは惰眠を貪っておきたいと、布団の中で寝返りを打つ。六時頃に車のエンジン音で一度目が覚めて、今は二度寝の最中だ。


 次にまぶたを開いた時、目に飛び込んできたのは六の数字に差しかかりそうな時計の長針。八時半。二度見をしても、やはり八時半で間違いなかった。


 遅刻、という漢字二文字が頭の中で激しく点滅した。


 急いで着替え、すでに一仕事終えてくつろいでいた父親とあいさつを交わす。市場へ出かける前に母が作り置きしてくれた朝ごはんを五分で平らげ、歯磨きを済ませ、エプロンの腰紐を結びながら一階へ降りる。


 「ごめん。寝坊した」


 「開店八分前。ギリギリセーフね」


 騒々しい音を立てながら店まで降りてきた息子の様子を、梢は水揚げ作業をしながら眺めていた。鼻歌を歌いながら、慣れた手つきでハサミを動かしている。花屋の娘として長年このような生活を続けている梢にとって、五時に起床するなど当たり前のことなのだ。残った眠気のせいで手元を狂わせるのではという心配よりも、余裕や安定感といったものの方をより強く息子に感じさせた。


 「まずは店の前の掃除、お願いね。あと今日はお天気がいいから、いくつか鉢物を外に出して欲しいわ」


 「了解」


 「終わったら、ケースにバケツ並べてね」


 遅刻はしたものの、作業量と内容はいつもと変わらない。大樹はホウキとちり取りを手に外へ出た。


 梢の言う通り、好い天気だった。春の日差しは穏やかに降り注ぎ、暖かい風が優しく頬をかすめていく。風は、近所の公園から桜の花びらをたくさん運んできていた。店の前の道路は薄桃色に染まっている。


 それらを掃除し終えた時には、もう開店時間の五分前だった。余裕がない自分とは正反対である母へ、店外に並べるのはどの鉢がいいか相談を持ちかける。


 「カランコエとアルメリア、ゼラニウム……あとは大樹のセンスで」


 「はいはい」


 鉢に付けられた札の情報を頼りに、日当たりのいい場所を好む植物を選んで外へ運ぶ。直射日光を避けなければいけない鉢は、オーニングテントが作る日陰に置いていく。彩りがいいように、加えて入店する際の邪魔にならないようにと気を配りながら鉢を並べていく。


 開店時間の九時を過ぎても、大樹の開店準備は終わらなかった。鉢の移動の次は、水揚げが済んだ生花が活けられたバケツをショーケースに並べる作業だ。梢に指示を受けながら順番にバケツを運ぶ。


 「並べる順番、おぼえたのね」


 最後のバケツを運び終えて一息ついていた大樹へ、梢が明るい声をかける。


 「まあ、この仕事やり始めてもう一年になるしね」


 「それでも、一週間前まではうろおぼえだったじゃない。どの花がなんていう名前なのかも、あやふやだったのに」


 「コツを教わったんだ。ある人から」


 「友花ちゃん?」


 一言、「秘密」とだけ返し、あくびをする。少し二度寝をし過ぎたせいか、眠い。起きた直後は焦っていたからか眠気は感じなかったが、作業が一段落して気を抜いた途端、じんわりとした疲労とともにまぶたが重くなるのを感じた。


 「お客さんの前であくびしないでよ?」


 「分かってる。あとは水やりだっけ。どれから先にあげる?」


 「外に出した鉢。土が乾いてるものだけ、ね」


 ジョウロに水を汲み、再び外へ出る。


 店外で作業するには、天気がいい春の日はあつらえ向きだ。風に吹かれて揺れた花から立ち上る香りを嗅ぐと、花屋の息子でよかったかもしれないという気持ちになる。季節の花々が見せる色彩とかぐわしさが、大樹は好きだった。


 「花好きな若者、か。俺もそうなのかもな」


 しゃがみ込んで、ジョウロを傾けながら呟いた、その時。


 「あの」


 背後から控えめな声がかけられた。


 振り仰いだ先に大樹が見たのは、春の陽光の下に佇む紺色の制服。


 三日前、店先で雨宿りをしていたあの少年だった。

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