第4話 名前も知らない


 梢の帰宅は、大樹が予想した時刻より十分遅かった。


 「へぇ。花が好きな男の子なんて、今時めずらしいわねぇ」


 閉店時間の三十分前。やっと帰って来た母へ、彼女が席を外していた間に訪れた若い客のことを話して聞かせる。すると、やはり梢も意外そうな表情を浮かべた。感心したような口振りで発せられた言葉が、先ほど自分が感じたものと寸分違わないものであることに、大樹は親子の血筋を感じた。


 「しかも話を聞く限りでは、大樹よりも植物に詳しそうですね。この街にある他の花屋の息子さん、だったりして」


 レジカウンターに立って話を聞いていた友花が口を挟んでくる。


 「制服着てた。確か、一丁目にある公立高校の」


 「大樹が第一志望で受けて、落ちたとこ?」


 「そうそう、って……いつの話だよ」


 「高校生の息子さんがいる同業者ね……」


 梢は少し思案してから「心当たりないわ」と言った。彼女にとって、街にある花屋の人間とは、ほとんどが顔馴染みも同然なのだ。


 大樹たちが暮らしている街は、大きな街でもなければ観光に訪れる人間も少ない。およそ都会とは言い難く、どちらかと言えば田舎だ。花屋など、この店を含めても四軒しかない。


 あの子は、俺みたいに花屋の息子ってわけじゃないみたいだな。


 少年の素性に興味をそそられる一方、大樹は傘のことを気にしていた。無断で母のお気に入りの一本を他人へ貸してしまったのだ。小言を食らう羽目になるかもしれないと思えば憂うつだったが、話さないわけにもいかなかった。


 「傘? いいわよ別に。他にいくらでもあるしね」


 「でも、もう返って来ないかもしれないし……。家は近所らしいって分かったから、よければ遊びに来てよって別れ際に言ったんだけど」


 「何それ。まるで『貸した傘、絶対に返しに来いよ』って遠まわしに圧力かけてるみたいじゃん」


 「そんなつもりじゃない。ただ、花が好きならまた来てくれるかなって思って」


 大人しくて礼儀正しい子だったし、と言いかけてやめておく。奥に冷ややかなものを感じさせる眼差しを思い出し、ため息をつきたくなった。


 「大樹だって、たまには同じくらいの年のお客さんと接したくなるわよね。年上のお客さんが相手の時よりも、話しやすかったでしょう」


 「まあね。敬語を使わなくてもいいから楽だし」


 店の客層は、大樹よりも年配な者が圧倒的に多い。時折、子供連れの客がいるくらいで、同年代の客を相手にしたことはこれまでなかった。少年は客というよりもただ雨宿りをしていたに過ぎなかったのだが、制服姿の学生が店の中にいるという状況は思い返してみるとかなりめずらしいものだった。招き入れたのが花好きな少年となれば、さらに希少に思える。


 めずらしさ故か。そのあとは一晩中、少年のことが頭から離れなかった。


 閉店準備をしながらラナンキュラスの黄色い花びらが目に留まった時、きゅっと噛みしめられた薄い唇を思い出した。


 夕飯の時、家族と会話をしながら少年に教わった勉強法を頭の中で確認した。


 湯船に浸かりながら、濡れた黒髪を丁寧にタオルで拭う手つきを思い返した。


 自室へ戻ると、遠くから聞こえる雨音に、遠ざかる赤い傘と華奢な背中の幻影を見た。布団に入ってから、あのあと風邪をひいていたりしないだろうかと、急に気が気でなくなった。


 そのまま微睡みかけ、ふと考える。


 どうしてあの子のことばかり気にしているのだろう。


 彼はただの客に過ぎない。常連客でもない、通りすがりの男子高校生。花好きという特徴はあるものの、他に彼が特別に思える理由などないはずだった。


 それに、いくら気になって探ろうとしても、大樹は彼の名前さえ知らないのだ。


 「名前くらい、聞いてもよかったのかな……」


 オーニングテントの下で見た、警戒心を抱く少年の表情。名前をたずねていたら、またあんなふうに警戒されただろう。きっと嫌われてしまっただろうし、と大樹は少年の素っ気ない声を脳内再生しながら思う。


 嫌われたにしても、その原因がまるで分からない。


 他愛無い会話をした。大樹にとってはそれだけの、ありふれたひと時だった。相手の気分を害する言動や行動をしたおぼえなど、やはりない。


 自分でも無意識に、少年が傷つくような何かをしてしまったのだろうか。


 重いまぶたを閉じると、暗闇の中に悲しげな表情が浮かんできた。帰ると言い出す直前に少年が見せた顔だ。彼は大樹の記憶の中では、実際に目にしたものより淋しそうにしていて、どこか儚げな印象をまとっていた。


 何故そんな印象ばかりが胸に残ったのか、大樹にもよく分からなかった。


 だが眠りにつく寸前、笑顔というものを一度も見かけなかったことを思い出し、そのせいだろうと結論づけた。無理やりにでも結論を出さなければ、いつまでも眠れないようにさえ感じられた。


 雨音は、意識が途切れる寸前まで心地よく弾んでいた。

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