第3話 ラナンキュラス
「この花」
台を水拭きしていた時、小さな呟きを耳にした。
声の主は、出入り口付近にしゃがみ込んで何かを見ていた。また睨まれたらどうしよう……と思いながらも、何を見ているのか気になってしまう。大樹は少年に近づいてみることにした。
彼の見つめる先にあったのは、先ほど大樹の目にも留まったあの黄色い花だった。
「ああこれ、もうすぐ花が終わるみたいで……。なんか元気がないんだよな」
「多分、この場所に置いてあるからだと思います。ラナンキュラスは、寒さに弱いんです。今日は雨で陽も差してなくて、気温も低いのでそのせいだと」
「え、そうなの? 俺はてっきり、水が足りないせいだと思ってた」
「置く場所を変えたら、もう少し元気になると思います。ここだと人の出入りも多くて冷たい風にあたってしまうので」
たとえばあの辺りとか、と少年は店の中央にできた空きスペースを指差した。
「きみ、花に詳しいんだね」
ラナンキュラスの鉢を移動させながら、大樹は少年をほめた。
純粋に、感心した。説明する素振りが落ち着いていて、的確な指示を出す彼は、店員である自分よりもよほど店員らしいとさえ思った。
「前に一度、育てたことがあったってだけです」
「でも、一度だけ育てた花の知識をずっとおぼえてるなんて、すごいよ。本当に、花が好きなんだね」
笑いかけると、少年は薄い唇を噛みしめて大樹から視線をそらした。どうやら照れているようだ。年相応の表情が見られて、大樹は何故かほっとした。
気が緩んだせいか、いいひまつぶしの方法を思いついた。
「じゃあ、花好きなきみに質問。あれは何ていう花?」
ショーケースに並んだ様々な種類の中から一つを選び、指で示す。
適当に人差し指を向けた先にあるのは、大輪の花。一つ一つの花びらが細くて、太い花茎は長くまっすぐに伸びている。
「ガーベラ」
「何科の花か分かる?」
「キク科、だったと思います」
「じゃあ、あっちの花は?」
「フリージア。アヤメ科の花ですね」
「へえ、そうなんだ」
知らなかった、と言いかけた時。
「知らないんですか……? 花屋で働いてるのに」
少年が大樹へ問いかける。ただの質問にも思えたが、声には不思議そうな響きの他に呆れや驚きといった感情が滲んでいた。よほど信じがたい、とでも言いたげだ。
「あー、そう……だよね。店員なのに商品のことよく分かってないなんて、おかしいよね。少しずつ勉強してはいるんだけど品種名とか科名とか、ぜんぶはおぼえきれなくて……」
言い訳がましいという自覚ならある。だが、本当のことなのだから仕方ない。
大樹は元々、理系だ。数学を得意とし、高校卒業後は大学の理学部へ進んだ。そこで学んだ経験を活かし、金融関係の仕事に就きたいと考えていた。そのため、会計のレジ打ちは機械より早く正確である。
一方で、彼は長文を読んだりおぼえたりすることが苦手だった。
幼い頃から読書を好まなかった上、国語の授業では教科書の文章を読むだけで眠くなった。機械の取扱説明書すら目を通しているうちに眠気がやって来て、最後まで読めた試しがない。数字に関することならば数式を目で見て理解するのはもちろん、特に意味のない数でも長時間おぼえていられるのに。
活字に弱い性質は、花屋の手伝いをし始めてからとある問題を引き起こした。
植物の知識を身につけようと図鑑を開くと、高確率で睡魔に襲われた。詳しい説明を画像つきで載せているサイトで学ぼうとしても、やはり眠くなってしまう。植物名くらいはおぼえられたものもあるが、肝心の育て方は、書かれている下りを読み始めて間もなく眠くなってしまうため、得られた知識はごくわずかだ。
このことを母親の梢に相談すると、客から質問を受けた場合には無理に応えようとせず自分へ声をかけるようにと、打開策を提示してくれた。このところは友花も植物の知識を身につけ始めているので、梢が席を外している際は彼女へ助け船を求めることにしている。
身内しか知らない事情を、大樹は少年へ簡単に説明した。
「鉢植えは商品名や育て方が書かれた札がついてるものもあるけど、このケースの中にある花は何もついてないから、扱う時は花について質問されないようにいつも祈ってるよ。たまに今みたく、お客さんの方が名前とか原産地とか詳しいことまで知ってて、恥ずかしかったこともあるんだよなぁ」
「……」
「呆れちゃうでしょ」
「……いえ。じゃあ、僕が言った花の名前も、もう忘れてますか。さっきの鉢植えの花とか」
「ラナンキュラス?」
「お兄さんが最初に指差した花、僕は何て呼びましたっけ」
「ガーベラって、言ったよね」
「おぼえてるじゃないですか」
「いや、耳で聞くのは平気だけど、文字でおぼえようとすると……」
「だったら耳で聞いておぼえればいいんですよ」
頭から冷水を浴びせられたような心地になった。
目から鱗が落ちる、とはよく耳にするが、きっとこういう時に使うのだろう。国語には疎い大樹でも、漠然と理解できた。
「誰かにおぼえたい項目を声に出して読んでもらって、お兄さんはそれを聞きながら内容を紙に書くんです。書いた方が記憶に残りやすくなるし、絵か写真も文章に添えておくと読み返した時に思い出しやすくなると思います。自分で音読した音声を録音しておくのも、いいかもしれません」
「なるほど、録音か……。あ、そういえば学生時代、自分で書いた文章を読む時は眠くならなかった気もする」
文章を目で追うのではなく、耳で聞いておぼえる。英語のリスニングみたいに。
それならば、自分にもできるかもしれない。
どしゃ降りの雨に打たれていたら、急に雨雲が晴れてやわらかい陽光が降り注いできた。大樹は頭の中でそんな情景を思い描いた。目の前に立っている少年は、きっと人間のふりをした天使なんだろう、などと冗談半分に思う。
「いいこと教えてくれて、ありがとう。すごく助かったよ」
「いえ、思いつきで言ってみただけなので……」
「じゃあさっそく、今きみから聞いたことをメモしておこうかな」
ノートは手元にないから、とりあえずスマホに……。と大樹はズボンのポケットから端末を取り出して、メモアプリを起動した。少年から教わったことを、一つ一つ記していく。
「あの」
ラナンキュラスは寒さに弱い、という情報を書き終えた時、少年がためらいがちな声で大樹を呼んだ。
上げた視線の先には、タオルがあった。
「これ、ありがとうございました」
「どういたしまして」
大樹が笑いかけると、少年は何故か困ったように眉尻を下げた。
目が泳いでいる。頬をかいたり瞬きの回数が増えたりと、些細な仕草からも落ち着きをなくしていることが分かる。
動揺している、のだろうか。だとしたら何故。
先ほど、睨まれた時にも感じた不安がぶり返した。
「ええっと……。俺、何か気に障るようなことでも――」
「大樹ー。服と靴、一通り洗ったけど。これどこに……」
洗濯に勤しんでいた友花が、店の奥から顔を出した。普段の軽い口調のまま大樹へ呼びかけた彼女は、部外者の存在に気がついた瞬間、言葉を切った。
「あっ。いらっしゃいませー」
焦りながらも客へ愛想笑いするのを忘れない。すっかり労働者らしい振る舞いを習得した彼女へ、大樹は頼みごとを追加した。
「悪いけど、それ二階の部屋に適当に干しといてくれ」
「もう、人使い荒いんだからっ」
ぼそりと呟いたあと、友花は少年へ「ごゆっくりー」と笑いかけて階段を上がって行った。いとこの花屋でしか働いた経験のない彼女だが、仕事とプライベートの使い分けはきちんとできているようだ。
二人きりに戻ると、大樹はすぐさま少年の様子を窺った。
視線は足元に落とされ、顔色は無表情、というよりは暗く沈んでいる。
謙虚だったり敵意のようなものを見せたり、少し打ち解けられたかと思えば急にしおらしくなったり。一体、どうしたというのだろう。
「きみ、ひょっとして具合悪い?」
「……」
反応がない。気分が悪くて話したくないのか。
「頭が痛いとか、熱っぽいとかない?」
「……ありません。大丈夫です」
突き放すような口調だった。
何がいけなかったのだろう。彼とのやり取りを思い出してみるが、特に気分を害するような会話をした記憶もなく、原因が分からない。
思春期や反抗期が関係しているのだろうか。
一人で困惑している最中、また少年の方から声をかけてきた。
「すみません。僕、帰ります。雨宿りさせてくれて、ありがとうございました」
「ちょ、ちょっと待って!」
今にも雨の中へ飛び出して行きそうな背中へ、とっさに待ったをかけた。
少年が振り返る。黒い瞳に見上げられながら、大樹は次にかけるべき言葉を必死で選んだ。呼び止めてしまったものの、理由らしいものは何も考えていなかったのだ。
素早く店内を見まわし、思いつく。
「これ。この傘よければ使ってよ」
レジカウンターの裏にある傘立ての中から一本を引っ掴み、少年へ差し出す。
真っ先に手に取った傘の色が赤だったことに、大樹は顔をしかめたくなった。母がよく使っているものだ。適当に選んだのだし、とっさに起こした行動だったのだから仕方がないものの、せめて隣りに立ててあったビニール傘ならよかったのにと思わずにはいられなかった。
男の子だし、赤い傘なんて渡そうとしても断られるだろうな。
「……じゃあ、お借りします」
「え?」
「何ですか?」
あまりにもあっさりと予想を裏切られたせいで、つい声を出してしまった。傘を受け取った少年が、不思議そうに首をかしげる。
「い、いや、何でもないよ。ごめんね」
「……はい」
店の前を一台の車が通り過ぎた。タイヤが派手に雨水を跳ねる音がする。
二人の間に、しばし沈黙の時が流れた。
どんなことを言えばいいのか、そもそも何かを言うべきなのか否かさえ、大樹には分からなかった。
また、少年が何故黙ったまま佇んでいるのかも理解できなかった。気分を害したのなら、一刻も早くここから立ち去りたいはずなのに、何故そうしないのか。
そもそも、急に大樹に対して冷たい態度を見せた理由は何だったのか。
「それじゃあ、失礼します」
疑問はついに何一つ解消されないまま、よくある別れがおとずれようとしていた。店に来た客が帰る。ただそれだけのことであり、当然のこと。
少年の手が引き戸に触れる。
「きみの家って、この近くなの?」
戸が細く開かれ、降りしきる雨の音が近づく。
別れ際に問いかけるなんて、迷惑に違いない。それこそ何か買うまでは帰したくないのだろうと思われても仕方がなかった。
また睨んでくるだろうか。
わずかに身構える。答えを聞く前に謝ってしまおうかと思っていたところ、雨音に混じって「そうですけど」と小さく答える声がした。
「じゃあ、気が向いたらまた遊びに来てよ。花が好きなら、店頭に並んでる商品を眺めてるだけで楽しめると思うし。……あ、何か俺、また誤解招くような言い方したかもしれないけど、何か買って欲しい訳じゃないからね、断じて」
「……」
「本当に!」
念を押すと、ますます嘘っぽく聞こえてしまう。これは明らかに余計なことを言ってしまったなと、大樹は頭をかいた。高校生相手に何をやっているんだろうと恥ずかしくなる。ふと思い浮かんだ「穴があったら入りたい」という言葉が、痛いくらい身に沁みた。
「分かりました」
「……へ」
今日いちばん間の抜けた声が大樹の口から零れる。
「気が向いたら、また来ます」
テントの下まで出て傘を広げた少年は、その一言を残して店をあとにした。早く家に帰って着替えたいのか、足早に雨の中へ消えていく。
見慣れた赤い傘と、知り合ったばかりの背中が徐々に遠ざかる。
「……うん。待ってるよ」
届きはしないと知りながらも、大樹は少年へそっと語りかけた。
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