二章 ヒマワリと紅葉月
第18話 雨の日だけの逢瀬
母の日を境に、陽向は週に一度か二度の頻度でフラワーショップ小林をおとずれるようになった。彼は決まって来客が少ない夕方にやって来て、閉店時間の直前まで店にいた。
陽向の行動パターンは、毎回ほとんど同じだった。大樹や梢にあいさつをし、いくつか他愛のない会話を交わしてから自由に店内を見てまわる。声をかけたい気持ちを必死に抑え込みながら業務にあたる時間が続き、やがて限界を感じ始めた時、まるで見計らったかのように陽向が声をかけてくる。何気ない素振りで、観葉植物や花について質問をしてくるのだ。
わざわざ店員を呼ぶ必要なんてないほど、陽向は植物の知識を豊富に持っている。大樹はそれを知りながらも、梢や友花の前では無難な対応を心掛けた。あくまでも店員として振る舞い、陽向も控えめな性格の客として大樹と接した。
だが、雨の日だけは別だった。
「大樹ー。今日、雨だから車で送ってー」
友花が間延びした声でねだってくる瞬間を待ち侘びるようになった。彼女を自宅まで送り届けることと悪天候を理由にして、陽向も一緒に送っていくことができるからだ。
表向きは、ただのついでとして。
「お店の定休日って、明日……ですよね」
陽向は、大樹と二人きりの瞬間によく自分から話しかけてくるようになった。梢や友花の前ではやけに大人しいので、二人のことが苦手なのかと大樹は思い、問うた。すると陽向は「いいえ」とかぶりを振り、ただ自分から話しかける理由がないだけだと答えた。それを聞いた大樹は、何故だか無性に嬉しくなった。
「うん。毎週土曜日。それが、どうかした?」
「いえ……」
運転しながら横目で盗み見た顔は、明らかに何かを言いたそうにしていた。
店の定休日、それは即ち大樹の休日でもある。週に一度しかない休みの日を、彼はいつも家で過ごしていた。特に外出する予定もないのであれば、部屋でくつろいで身体を休めるのが最も効率的で利口な方法だと思っていた。
「この間、」
「うん?」
「母の日の、帰り際に話したこと……なんですけど」
「……あ。分かった。明日、庭の手入れをする予定なんでしょ」
助手席から、雨音にかき消されそうなほど小さく「はい」と答える声がした。
雨上がりの庭で話をした日から、三週間。大樹はこの時を待ち続けていた。庭の修復作業に誘われることを、心待ちにしていたのだ。
「明日の天気は晴れだもんね。この雨も朝までには止むと思うし、絶好の草むしり日和になるかも」
「ええ。……でも僕、やっぱり大樹さんに手伝ってもらうのは申し訳なくて」
「申し訳なく思うこと、ないよ。俺が陽向くんを手伝いたくてやるんだから。それに、」
言いかけ、続きを口にするかどうか迷う。
赤信号の手前で緩くブレーキをかけながら、以前この場所で危うく事故を起こしかけたことを大樹は思い出していた。雨が降って路面が濡れていて、隣りには陽向がいる。あの時と、よく似た状況だ。
だが、似てはいても同じではない。一方的に抱いていた想いは実り、通じ合った。だから、ためらう必要も、今はない。
「好きな人と一緒に休日を過ごせるんだから、幸せだよ」
うぐっと、喉を詰まらせたような音が聞こえた気がした。助手席を見ると、陽向は顔を窓の外へ向けていた。白い頬が赤信号の光に照らされ、赤面しているように見えた。
それから、陽向の家に着くまで、二人の間に目立った会話は起こらなかった。
ギアをパーキングに入れ、念のためエンジンを切っておく。陽向を乗せた車をスリップさせて以来、大樹はより慎重に車を運転するようになっていた。いつか陽向を連れてドライブに行く日が来るかもしれないから、などと考えるだけで気持ちが明るくなり、にやけそうになる。来るかどうか分からない日に備えて、今から運転の腕を磨いておこうという計画をこっそり立てている。
「明日、何時くらいに来ればいいかな?」
車が停止しても陽向が降りる気配はない。本来の目的は、二人きりで会話をすることなのだから、今さら不思議に思うはずもなかった。
「大樹さんは、休みの日はいつも何時に起きますか」
「え。そうだな、……七時くらいかな」
「休みの日も、早起きなんですか」
「ごめん、嘘。本当は十時くらい。たまに夜更かしして、昼まで寝ちゃってあわてることも、あったり……なかったり」
「ふふ。ちょっと、可愛いですね」
「どこが!?」
大樹が大げさにあわててみせると、陽向は楽しそうな笑い声を上げた。寝坊をして飛び起きる自分なんかより、きみの方がよっぽど可愛い。喉まで出かかった本音を、軽く咳払いをすることで何とか飲み込む。
「それじゃあ、お昼から手伝ってもらえますか。僕も、午前は部活に顔を出したりしないといけないので」
「土曜日も部活かぁ。忙しいね」
「大樹さんは、何か部活をやっていたことありますか」
「中学の三年間は、サッカー部だった」
「サッカー部。かっこいいですね」
「かっこよくなんかないよ。下手だったし、プロになりたいとか思ってた訳じゃなくて、なんとなく続けてただけ。だから高校は別の部活に、」
また、途中で言葉が途切れた。今度は意図的に口を閉ざした訳ではなかった。
脳裏に、懐かしい光景が浮かんでくる。しかし、懐かしいと感じるものの、それは大樹にとっては思い出したくない光景でもあった。
夕日の色に染まる教室。落書きだらけの黒板。窓際に一人座る、あの人の姿。
だめだ。それ以上、先に進むのは――。
「大樹さん……?」
「ああ、ごめんね。えっと、高校では文芸部に入ってた。まあ、ちゃんとした活動なんて一度もしないまま高校生活は終わったけどね。何せ、人気のない部活で部員も少なかったから」
「文芸部、ですか。僕の高校にもありますけど、確かにあまり人気がないですね」
「あはは。やっぱり、そうなんだ」
苦笑を浮かべるので精一杯だった。これ以上、この話を続けたくないと、意気地のない自分が叫んでいた。無意識に話題を変えたのも、そのせいだ。
「それじゃあ明日は、陽向くんが部活から帰ってきて一息ついた頃に来るよ」
「分かりました。じゃあ、えっと、……連絡先を……教えてもらえますか。一応」
「一応、かぁ」
「い、いや、やっぱりいいです」
「ううん。一応でも、聞いてくれて嬉しい。喜んで教えるね」
スマートフォンを取り出す大樹を見て、陽向は安堵の吐息を漏らした。冗談を言っても真に受けてしまいそうなほどの純粋さだ。大樹は時々、見ていて危なっかしさを感じるが、日が経つにつれ陽向のそんなところでさえ愛しく思え、なおさら放っておけなくなっていった。
連絡先を交換し終えると、二人は翌日のことについて話し合った。作業に必要な道具は、陽向の家にあるものでは足りそうもないので、大樹が用意することになった。
「早く、明日にならないかなぁ」
持参する道具を頭の中で整理していた時、ふいに陽向が呟いた。
待ち遠しい、という気持ちが滲んだ声だった。陽向の子供らしい一面を目の当たりにし、大樹はこらえきれずに笑みを浮かべた。可笑しかった訳ではなく、とても微笑ましく感じたからだった。
「す、すみません。明日が来るのがこんなに楽しみなの、久し振りで……」
だが、陽向は悪い意味に捉えたらしい。ばつが悪そうに顔をうつむかせる。
「ううん。その気持ち、よく分かるよ。俺も、同じ。明日が楽しみで仕方ない」
「大樹さんも……?」
「うん。早く時間が過ぎて欲しいから、今日は帰ったらすぐ寝ちゃおうかなって、思ってたとこ」
「……晩ご飯は、ちゃんと食べて下さいね」
「あ、そうだった。晩飯のこと、すっかり忘れてた」
今度は大樹がうつむく番だった。陽向の笑い声を隣りに聞きながら、顔が徐々に火照るのを感じていた。そのまま、しばらく顔を上げられなかったが、恥ずかしい一方で安堵してもいた。陽向が楽しそうにしているのならば、どんなに笑われても構わないと思った。
翌日へ抱く期待が、より高まる。少しでも多く陽向を笑わせてやろうと決意し、大樹は日付が変わるまであとどのくらいかかるのか確かめた。
淡く発光する数字の初めが七であることに、大樹は驚いた。
「もう七時過ぎてる。そろそろ帰らないとね、お互いに」
雨の日は大抵、店の閉店時間である六時を過ぎた頃に店を出発し、家の前に車を停めてしばし陽向と会話をする。移動の時間を含めても、一時間足らずで帰宅している。この日は時間の経過がやけに早く感じられた。
陽向との別れを名残惜しく感じるのは、いつものことだ。
それは陽向も同じらしかった。別れ際は毎回、大樹の左手を握り、物言いたげな瞳を泳がせる。だが瞳でさり気なく訴えかけるだけで、決して口を利こうとはしない。
まだ一緒にいたい。もう少しだけ。悲しげに顔をうつむかせる陽向の心の声を勝手に想像して、大樹は切なくなった。
「明日また、逢えるよ。だから淋しくないでしょ?」
「……はい」
「それに、これからは気軽に連絡を取りあえるしね。何かあったら、いつでも連絡してね。電話でも、メールでもどっちでも、」
ぐっと、左腕を強く引かれた。いや、押さえつけられた。何かが覆いかぶさってくる。まっすぐな想いと、熱を孕んだ何かが。
息が詰まる。
唇を重ねられていると理解するまでに時間がかかった。
頭で理解したところで、次にどんな行動を起こすべきなのか見当がつかないばかりか、身体が硬直してしまい身じろぎ一つできない。
強く押さえられている左腕が、痛い。だが振り払うことも、握り返すことも陽向は許さなかった。
大樹は、陽向にすべてを委ねるしかなかった。彼が望むのならと、受け入れて目を閉じる。
車外で降っている雨の音がだんだんと近くなり、ノイズのように聞こえ始めた頃、陽向は大樹を解放した。腕から痛みが引く。重ねられていた唇も、微かな吐息を残して大樹の元を離れた。
目を開けた直後に見た世界は、何よりも美しく思えた。
「……明日、楽しみにしてます。おやすみなさい」
力強い音と振動。
気がつくと、陽向の姿は消えていた。真っ暗だった窓に明かりが灯されているので、もう家に帰ったのだろう。彼が車を降りる瞬間の記憶を失うほどに、大樹は呆けていた。
「……うわぁ」
意味の分からない呟きが口をついて出た。
唇に、腕に、まだ陽向の感触が残っている。熱っぽさと、切なく甘い疼き。一部分だけに残されたはずの感覚は、放っておくと簡単に全身を支配する。毒のように広がり、動きを封じてしまう。
帰らなければ、と思う。
でも、無理だ。別れ際に聞いた陽向の声が耳から離れない。身体の火照りも冷めないままだ。
身も心も、彼の余韻に侵されてしまっている。
「明日は、寝不足かもな……」
久し振りに眠れない夜を過ごす羽目になりそうな予感に、大樹は重たく感じる両腕でハンドルを抱え込み、うなだれた。
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