第19話 草むしり日和


 陽向から初めて送られてきたメールの内容は『起きてますか』だった。枕元に置いてあったスマートフォンのバイブ音で目覚めた大樹は、時計を見て愕然とした。


 「は……、十二時!?」


 寝過ごした。一瞬、梢に叱られると焦りかけたが、すぐに今日が休みであることを思い出す。


 だが頭が冴えていくにつれ、緊張感は余計に増した。震える指先でスマートフォンを操作すると、着信履歴に新しいものが三件あった。そのすべてが陽向からだった。そして一通だけ届いていたメールの内容が、『起きてますか』だ。


 約束。遅刻。最低。頭の中に三つの単語が同時に浮かび、ぐるぐると目まぐるしく回った。


 だが絶望している間も惜しく、大樹は即座に行動を開始した。服を着替え、家族とあいさつを交わすのもそこそこに洗面台へ直行する。食卓テーブルの上でラップをかけられた朝食を発見すると、ろくに咀嚼もせず喉へ流し込んだ。それから再び洗面台の前に立った後、思い思いの休日を満喫している両親へ「ちょっと出かけてくる」とだけ言い残して家を出た。


 持参する荷物は、昨夜のうちにあらかじめ車へ積んであった。最悪の事態まで考慮して行動していた半日前の自分を、大樹は称賛したくなった。


 車に乗り込み、出発する前にスマートフォンを取り出す。「ごめん。今から行く」と陽向に宛てた文章を打ち込み、メールを送信してひと息つく。車を発進させる直前、陽向から返信があった。内容は『分かりました。待ってます』という短いものだった。


 好い天気だというのに、土曜の街は閑散としていた。歩く人の姿もまばらで、車通りも少ない。観光地でもない田舎だと、大型連休でさえ渋滞は発生しない。ここが田舎でよかったと、大樹は快調にバンを走らせながら思った。常々、都会へ羨望の眼差しを向けているくせに、都合のいい時だけ田舎に好感を持つのは、田舎暮らしをしている者の性だ。


 やがて車は住宅街に入った。もうすっかり通い慣れ、道順など頭で思い出そうとしなくても腕がおぼえてしまっている。


 危なげなく春日井邸に到着し、車を門の前に駐車した。


 手ぶらで門を通り、深呼吸を一度してチャイムを鳴らす。一寸の間があってから扉が開き、中から陽向が顔をのぞかせた。


 「電話に気づかなくて、ごめん! 寝てました!」


 あいさつより先に大樹がしたのは、謝罪だった。


 勢いよく下げられた頭を、陽向は数秒間、何も言わずに見つめていた。


 「……あ、はい。連絡がないので寝てるのかな、とは思ってました」


 「本当にごめん。ごめんなさい」


 「そんなに謝らなくていいですよ。それより、無事でよかった」


 嘆息しながら呟かれた一言の意味が分からず、大樹は頭を上げて陽向を見た。日光の下で、彼は穏やかに微笑んでいた。


 「もしかしたら、ここへ来る途中に事故にでもあったんじゃないかって不安だったんです。でも、何もなくてよかった」


 笑みが深くなる。喜ぶ陽向を目の当たりにした瞬間、胸が痛んだ。大樹は、彼に心配をかけてしまったことを悔いた。


 もう一度、謝りたいところをぐっとこらえ、陽向の髪に触れる。


 「俺は何ともないよ。気にかけてくれて、ありがとう」


 「……うん」


 頭を撫でると、淡い光を宿した黒い瞳が細められる。あまりにも気持ちよさそうなので、調子に乗ってしばらく撫で続けていたら「日が暮れちゃいますよ」と陽向にたしなめられた。遅刻をした者にとっては、痛い言葉だった。


 陽向がまず手をつけたのは、裏庭だった。二人で車から道具を下ろし、リビングルームまで運び込む。


 大樹はこの日、初めて昼間に春日井邸をおとずれた。あちこちの部屋の窓から陽光が差しているせいか夜とは雰囲気が異なり、別の家に来たような錯覚をおぼえた。夜は冷ややかに感じられた部屋の空気も太陽の光に温められ、居心地のいい空間へと変わっていた。


 大きな窓の向こうには、鮮やかな緑色の空間が広がっていた。庭へはリビングから直接、出られるようになっているらしい。


 「ここが裏庭かぁ……」


 感嘆の声が出てしまうほどに、立派な庭だった。広さは、小さな子供が駆け回るには充分だ。だが敷地の広さよりも目を惹くのが、景観の美しさだ。


 窓のすぐ外、庭一面には芝生が敷かれており、まっすぐ進んだ先には大きな木が生えている。瑞々しい葉を風に躍らせて佇んでいる木の下には、花壇がある。木を挟むように緩いカーブを描いている花壇は、やはり何年も手入れがされていないらしく、閑散としていた。だが、植物で華やいでいた頃の光景を容易く思い描けるほど、庭としての完成度は高い。


 「庭いじりが好きな人が見たら、綺麗にしたくて仕方ないだろうなぁ。特に、あの花壇は放置しておくのがもったいないよ」


 大樹は煉瓦で縁取られた花壇を指で示した。前庭と同様、花壇には雑草が生えているが、土を掘って抜いた形跡が所々にあった。


 「部活から帰ってきて、ひまだったので先に作業を始めてました。少しでも早く、花を植えたくて。できたらお盆、母さんが帰って来るまでには庭を花でいっぱいにしたいなって、思ってるんですけど」


 無理かな。ちらりと大樹を見上げ、陽向が呟く。いかにも自信なさげな表情を浮かべている少年へ大樹は笑みを向け、首を横に振った。


 「大丈夫、間に合うよ。二人でやれば」


 「二人で」


 「うん。二人で」


 黒い瞳は、見開かれると一層その輝きを増した。陽向は大樹に向かって力強くうなずき、床の上に放ってあった軍手を拾い上げた。「そうと決まったら、さっそく作業しましょう」と、頼もしい声が促す。


 二人はまず、花壇の土に生えた雑草を取り除く作業から始めた。春から順調に成長を続けてきた雑草は、大樹の腰の高さにまで伸びていた。軍手をつけた手で力いっぱい引っ張っても、深く根を張った草は簡単には抜けない。かと言って、力任せに引き抜こうとすれば先端がちぎれてしまうので厄介だ。


 大樹は何度か雑草の生命力に負けて尻もちをついた。一方で、引く力は陽向の方が強かった。自分の腹の辺りまで伸びた草を引き抜いた時、達成感の滲んだ笑顔を大樹に見せた。


 「土って、これでよかった? うちの店では一種類しか取り扱ってなくて」


 一通り雑草を引き抜くと、次は土を整える作業だ。長年の雨風で流されてしまい、花壇の土量は囲いの煉瓦が一つ分むき出しになるまで減っていた。


 前日、陽向から相談を受けた大樹は、花壇に新しい土を足すことを提案した。費用は後払いということで、予備も含めた分を車に積んで持ってきた。園芸用の土が詰められた袋は、重いように見えて案外、軽い。小柄な女性でも難なく持てる重さだ。


 「ええ、充分です。ホームセンターまで行く手間が省けて、助かりました」


 陽向は袋の一つを軽々と抱え上げ、花壇まで運んだ。園芸用のハサミで封を切り、中の土を元々あった土へ投入していく。傍から見た後ろ姿に、大樹は若さとたくましさを感じた。




 手入れを進めていくうちに、気がつけば、二人とも会話を交わすことさえ忘れて作業に没頭していた。


 六月の初め。晴れていれば屋外で過ごすにはうってつけの気候だが、動いているとすぐに暑くなり体力の消耗も早い。土を混ぜる単純な作業をしているだけでも、汗が出てくる。


 スコップを突き立てた土の上に水滴が落ち、黒い斑点を作った。


 大樹は顔から噴き出た汗を、無造作に腕で拭った。上がりかけていた息を整えようと、花壇の上にしゃがみ込む。昨夜まで降っていた雨で湿った土はやわらかく、踏み心地がいい。よく干された布団を踏んでいるような感覚だ。


 軍手を脱ぐと、汗ばんだ指の間を涼しい風が通り抜けていった。


 「あー、風が気持ちいい」


 呟いた時、足元に薄く影が差した。直後、片側の頬にひんやりとしたものがあてがわれる。それが陽向の指だと気づくと、大樹はとっさに身を引いた。


 「大丈夫ですか」


 不安定な体制で後ずさりをしたせいで、また尻もちをつく羽目になった。土の上では痛みも感じなかったが、陽向の問いかけに応えるのが遅れた。何とかうなずき返すものの、視線を上げられない。


 何故か鼓動が速い。落ち着こうとすればするほど速くなり、呼吸も乱れていく。


 「大樹さんの頬に土がついていたから、拭こうとしたんです」


 「ああ、そうなんだ」


 「びっくりさせてしまって、すみません」


 過敏に反応してしまった自分を恥じ、なおさら陽向と目を合わせにくくなった。彼なりの気遣いだったと理解するほど、罪悪感が強くなっていく。


 このままではいけないと、場を仕切り直すために立ち上がろうとした。


 「またキスされる、って思いましたか」


 ついた手に力が入り、指先が土に埋まる。爪の中に土が入り込む不快感へ意識が向いたのは、ほんの一瞬だった。


 「昨日のキス、……嫌でしたか」


 何も言わずに首を振る。


 天を仰いだ格好のままで座り込んでいる大樹へ陽向がにじり寄り、覆いかぶさる。車内でした時よりも大胆に、さらに距離を詰めて。


 「嫌じゃなかったよ。でも、どうしてあんなことをしたのか、俺には分からなかった。きみの気持ちを考えてたら眠れなくて、気づいたら昼だった」


 「寝坊したの、僕のせいだったんだ」


 「そうじゃないけど」


 「本当に分かりませんか。どうしてキスしたのか」


 互いの息遣いが分かるほどの近距離で視線が交わる。黒しかないと思っていた陽向の瞳の中に、大樹は自分の色を見つけた。


 「我慢できなくて、もう。あなたのことが好きでたまらないから」


 それは今も? 疑問は相手にぶつける前に、形と意味を失った。


 陽向の身体が重なり、抱きついてくる。いつか、この家を出て行く背中に抱きついた時よりも、強く。水中に沈むように、深く。


 触り心地のいい土から片手を離す。大樹の手は陽向の腰を引き寄せようとしたが、空中をさまよっただけで終わった。手の平が土まみれでなければ、思いきり抱き締めていただろう。


 触れたい気持ちなら、大樹にだってある。けれど陽向の年齢が気がかりで、不用意に行動へ移せないでいた。


 反対に、互いの気持ちを知ってから何週間が経とうとも触れてきさえしない大樹を、陽向は物足りなく感じていたのだ。


 「大樹さんは、違うんですか。目の前に大好きな人がいても、触りたいって思わないんですか」


 「思うよ。でも、……今は土まみれだから」


 土の中に手をくぐらせ、陽向の片手とつなぐ。指先を絡めると、大樹は陽向の唇を奪った。陽向は最初、戸惑ったような吐息を漏らした。が、すぐに受け入れ、汚れていない方の手で大樹の身体にしがみつき、絡めた指をさらに深く束ねた。


 そのまま、何度か浅い口づけを繰り返した。


 「キスだけで我慢しよう。ね」


 触れ合いの終わりを言葉で告げる代わりに、陽向の首筋へ口づける。


 上手く逃げたつもりだった。だが陽向にとっては、ほんの子供騙しでしかなかったようだ。彼は、やはり物足りなさそうに唇をとがらせ大樹の耳元に「ずるい人ですね」と囁いた。

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