第20話 来週も
「珍しくどこかに出かけたと思えば、陽向くんのお家に行ってたの」
その晩。陽向の家へ出かけていたことを、大樹は夕食の席で初めて他人に話した。梢は強い関心を示し、詳しいところまで聞きたがったが、陽向の存在さえよく知らない夫の「陽向くんって、誰だ」という問いかけに息子の注意を奪われてしまい、残念そうに閉口した。
おかげで、大樹は皿洗いに付き合いながら梢に続きを話すことになった。
「土を新しくしたとこまでは、さっき話したっけ――」
花壇の手入れを一通り終えると陽向は大樹を窓際で休ませ、庭の隅に建てられた物置小屋から芝刈り機を運び出してきた。
「芝は、たまに父さんが休みの日に刈っているんです。最近は手を抜きがちで、ご覧のような有り様ですけど」
家の主に手を入れてもらえず伸び放題になってしまった芝生を一瞥し、陽向が苦笑した。彼は機械の使い方を心得ているらしく、慣れた様子で芝を刈っていく。日陰で身体を休ませながら、大樹は芝生の長さが整えられていく様子を最後まで飽きずに眺めていた。
二人がかりで作業に取り組み、春日井邸の裏庭は、ほんの数時間で本来の美しさの半分を取り戻した。あとは花壇に彩りを加えるだけだ。
新しい花を買ってくるより先に、仏間の鉢花を植え替えることになった。植え替え時期に適した花をいくつか花壇に植え、水をやる。そこまでやっていたら、もう西の空が赤く色づいていた。
「あの木、キンモクセイだよね」
夕空を背景に枝葉を揺らす木を見上げながら大樹がたずねると、隣りで陽向がうなずいた。
「僕が生まれる一年前にこの家が建てられて、その時に両親が植えたものだそうです。今はまだ葉っぱだけですが、秋になれば花が咲いて家中がキンモクセイの香りに包まれます」
「……人って、子供ができると木を植えたがるものなのかな。うちの親も、俺が生まれた時に苗木を植えたいと思ったみたいだけど、家の敷地が狭すぎてご近所トラブルになりかねないから泣く泣くやめたって、前に話してた。母さんがこの家を見たら、うらやましがるだろうなぁ。俺の家には庭なんて呼べる場所すらないからさ」
「僕は、大樹さんの実家がお花屋さんなのが、うらやましいですけど」
「そう? そんなにいいものでもないよ。力仕事が多くて大変だし、よく水を触るから乾燥する時期は手が荒れるしね」
「大変なのは分かりますけど……、それでもうらやましいです」
苦く笑んだ横顔。境遇を嘆いても仕方がないと、知っている顔つきだった。それでもなお繰り返すほど、陽向は花屋に憧れを抱いているようだ。
花屋で働く陽向の姿をまぶたの裏に思い描き、大樹は素直に、よく似合うという感想を持った。落ち着く空間で好きなものに囲まれて働けたら、どんなに楽しいだろう。肉体労働だって苦にならないかもしれない。
想像の中の陽向があまりにも幸福そうで、つい実現したくなった。
「そうだ。陽向くん、アルバイトしてみない?」
「アルバイト、ですか……?」
「お盆に街で開かれる夏まつりに、うちの店も毎年、出店で参加してるんだ。それで、陽向くんにも出店の仕事を手伝ってもらえないかなと思って。花束を作ったりするんじゃなくて、鉢物を売るだけだけど……それでもよければ、」
怪訝そうに曇っていた表情が、大樹の一言でみるみるうちに太陽の明るさを取り戻していく。
好きな人を喜ばせることに成功し、ほくそ笑む大樹へ、間髪入れず「やりたいです。やらせて下さい」と陽向が身を乗り出した。
「――というわけで、お願いします。急な話ですが、夏まつりの期間中だけ、アルバイトを雇わせて下さい」
大まかな事情を話し終えた大樹は、梢に頭を下げて申し出た。
「いいわよ」
「えっ、ほんと!?」
梢は手を動かしながらうなずいた。店主を説得するには骨が折れるだろうと思っていただけに、あっさり承諾されると拍子抜けしてしまう。夏祭り期間中は店を閉め、家族総出に友花を加えた面子で花を売る。人数は事足りているのでアルバイトを雇う必要性が感じられなければ、賃金を払う余裕が店にあるとも思えなかったからだ。
「息子の頼みだもの。母親なら喜んで聞き入れるわよ」
「母さん……」
「その代わり、仕事の内容はダイがしっかり教えてあげるのよ。特に接客は慣れていないだろうから、ちゃんとフォローしてあげてね。あと、陽向くんの親御さんからアルバイトの許可をもらってちょうだいね」
「分かった。……ありがとう、母さん」
「いいのよ、これくらい。それに、陽向くんは将来有望な高校生だもの、小さなことでも今のうちから経験を積んで生かしてもらえたら私も嬉しいわ。あの子だったら、きっと立派なお花屋さんになれるもの。もしかしたら、うちの店より繁盛するかもしれないわね」
「いや……、陽向くんが花屋を開きたいのかどうかは、分からないけど」
大樹の口から事実を聞き、梢は意外そうに目を瞬いた。
「あら。てっきり、お花屋さんに憧れてるんだと思ってたわ。お店に来てくれる度に店内の様子を観察してるし、作業してるダイのことをよく見てるから」
「え、そうなの?」
「気づいてなかった? 陽向くん、ダイに気取られないようにしてるのねぇ。いつも楽しそうよ。まるで、片想いしてる相手を陰からこっそり見てる女の子みたいで」
手が滑り、持っていた皿が騒々しい音を立ててシンクの中に落ちた。あわてて拾い上げて確認し、ひびや割れがないことに胸を撫で下ろす。梢が「大丈夫?」と声をかけてきたが、皿の無事を確認する意味で問うたのか、それとも息子の様子がおかしいことに気がついたからなのか、大樹には見当がつかなかった。
「ということで、アルバイトの件は許してもらえたから」
その晩。大樹は眠る前に陽向へ電話をかけた。十時を過ぎていたこともあり、電話をするか否かスマートフォンを片手にしばらく悩んだ挙句、一刻も早く伝えたいという己の気持ちの強さに負けた。
迷惑になるだろうからと、手短に用件だけ告げ「じゃあ、遅くにごめんね」と通話を終わらせようとした。しかし、陽向に「待って下さい」と止められ、遠ざけた受話器を再び耳にあてがう。
「もう掛け合ってくれたんですか。まだ一か月以上も先の話なのに」
「え、ああ……うん。母さんに、きみの家で庭の手入れをしたことを話しているうちに、成り行きで。母さんは快諾してくれたよ。俺のファンとか何とか、ふざけたこと言ってるけど、陽向くんのこと本当に気に入ってるみたいだから」
「大樹さんの優しさは、お母さんゆずり……ですかね。初めて会った時にも、親切にしてもらいましたし」
「ああ見えて、怒るとすごく怖いんだよ。子供の頃、店の中で走り回って商品を傷つけた時なんて、俺を床下収納に閉じこめようとしたんだから。ばあちゃんが止めてくれたから閉じこめられずに済んだけど」
「……おばあさんがいてくれて、助かりましたね」
「ばあちゃんが本気で怒った時は、もっと怖かったけどね。特に、じいちゃんと喧嘩をした時なんかは大変で」
「大変って?」
夜中であることも構わず、陽向は大樹に話の続きをせがんだ。思い出話の途中、何度か受話器の向こうで無邪気な笑い声が上がった。
話し始めてから十分ほど経っても、陽向の声からは眠気も憂いも感じられなかった。だが昨晩ほとんど眠れていない大樹を、眠気は容赦なく襲った。話をしながら舟を漕ぎ、手からスマートフォンを取り落としかけたところで呼びかけられ、我に返る。
「すみません、あまり眠れてなかったんですよね。それでなくても庭いじりをして疲れてるのに」
「ううん、平気。陽向くんと話すの楽しいから、夜通し話していたいくらいだよ」
「……大樹さん、無理してるでしょう。声、すごく眠そうですよ」
「はは、ばれちゃったか。きみに隠し事はできないなぁ」
「声さえ聞けば、誰にでも分かりますよ。この人は今にも寝てしまいそうだって」
笑みが滲む陽向の声は耳に心地よく、大樹には子守歌に聞こえた。意識が遠のきかけたが、耳たぶをつねることでなんとか耐えた。
「じゃあ、もう切りますね」
「んー……、うん」
「アルバイトの件、掛け合ってくれてありがとうございました。あと電話も。寝る前に大樹さんの声が聞けて、嬉しかったです」
「……俺も嬉しいよ。陽向くんの声、聞いてると何か落ち着くし。今夜はぐっすり眠れそう」
「じゃあ……これからは毎晩、電話しましょうか」
「んう。あ……いや、毎晩はさすがに、通話料金が」
「冗談です。ちょっとは目が覚めましたか」
なんだ、冗談か。笑いつつも、眠気で身体が重く感じられ頭が傾いていく。大樹はとうとう耐え切れず、ベッドに身を横たえた。そのまま眠ってしまいそうになるのをこらえ、会話を続ける。
「こうして毎晩、きみの声を聞けるだけでも俺は充分に嬉しいなぁ。けど……電話してるうちに、逢いたくなっちゃいそう。だから昼間に直接、逢う方がいいかな」
「確かに、そうかもしれませんね」
「だから来週の土曜日、晴れてたらまた手伝いに行ってもいいかな」
沈黙。大樹が居眠りをしておとずれることが多かったそれは、今度は陽向の方からもたらされた。どう返答すべきか、考えているようだ。大樹は遠のきかける意識を何とか保ちながら応答を待った。
やがてこらえきれずに大きな欠伸をこぼした大樹の耳へ、静寂と相性のいい陽向の落ち着いた声が届いた。
「……そうしてもらえると、嬉しいです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。今度は、遅刻しないように気をつけるから」
はい、とやわらかい声音で陽向が答える。大樹には、彼が瞳を細めて微笑んでいる様子が容易に想像できた。
「……それじゃあ、またね。陽向くん」
「はい。お休みなさい、大樹さん」
「うん、お休み」
ツーツーという無情な音が、通話の終了を告げる。話し相手を失くした途端、端末を握る手がさらに重く感じられ、大樹はスマートフォンを枕元へ放った。
昼間の作業で出た疲労が、じんわりと全身にまとわりついている。まぶたを開いているのでさえ億劫に思えるほどだが、不思議と気持ちがいい。
「いい日だったなぁ」
閉ざした双眸の奥に、その日見た光景がありありと浮かんでくる。楽しかった瞬間だけが切り取られていて、まるでスポーツの試合のハイライトを見ているようだ。中でも、陽向の笑顔を切り取ったものが最も多かった。
「来週の土曜日も、晴れだったら……」
願望の滲んだ呟きは、最後の方で力なく途切れた。大波のように襲ってくる眠気に抗うことを諦め、身を任せる。
深い眠りの中、木の葉がこすれ合う乾いた音を聞いたような気がした。大樹はキンモクセイの苗木を植える男女の後ろ姿を夢の中に見た。声をかけると二つの背中は振り向き、揃ってある名前を口にした。彼らが大切な存在へ付けたその名は、優しい響きとなって夢の空間を光で満たした。
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