第21話 アジサイの花と吐息と


 毎週土曜日。大樹は春日井邸へ通い、陽向とともに庭の手入れに励んだ。


 陽光の下で目の当たりにした前庭の状態は、裏庭よりもひどかった。特に、雑草の多さが大樹たちの手を煩わせた。大部分は草刈り機を使って対処したが、生命力の強い雑草は、門から玄関まで伸びる敷石の隙間からも生えており、それらは一つ一つ手で抜くしかなかった。客人がおとずれることなどめったにない家だから、父も自分もなおのこと外観にはこだわらないのだと、大樹とともに除草剤を撒きながら陽向が苦い顔をしていた。


 きりのいいところで作業を終えると、二人そろってリビングで休憩をした。飲みものを飲んだり、菓子をつまみながら雑談をしたり、時には陽向が学校から持ち帰った課題を大樹が手伝った。数学の課題に嬉々として取り組む大樹を見る度、傍らで陽向が可笑しそうに笑った。


 梅雨に入り、雨天が続いても大樹は変わらず陽向の元をおとずれた。休日に家を空ける理由が正当なものから言い訳に変わるまで、そう時間はかからなかった。


 「アジサイの花って、小さくて可愛いよね」


 リビングで数学の問題を陽向に教えていた大樹は、何気なく仏間の方へ視線を向けた。相変わらず、仏壇の周りは色とりどりの鉢花でにぎわっている。その中の一つ、一際大きな鉢に植えられているのは青紫色をしたアジサイだ。二日前、陽向がフラワーショップ小林で購入したものだった。


 アジサイは華やかな見た目をしていながら、その花はとても小振りで地味だ。大輪の花のように見える部分はガクと呼ばれる装飾花で、花弁とは異なる。本来は緑色の葉の形状をしていることが多いが、アジサイのガクは受粉の役割を担う虫を集めやすくするために目立つ見た目になったのだと言われている。実際のアジサイの花は小さくまとまり、ガクの内側で守られるようにひっそりと蕾を開花させ、ひっそりとその役目を終わらせるのだ。


 「周りの装飾花に気を取られがちだけど、よく見たら小さな花がたくさん咲いてるんだよね。遠くから眺めるのと近くで観察するのとで、印象が変わる花だと思うな。あと、一つの株で二種類の花が楽しめるなんて、何だかお得だよね」


 課題に取り組んでいた陽向が、何やらくすくすと笑っていることに気がつき、大樹は意識を仏間からリビングへ戻した。


 「なるほど……。お得な花、ですか。その発想はありませんでした」


 「……俺、また変なこと言っちゃった気がする」


 「むしろ、そういうキャッチコピーをつけてアジサイを売り出したら、もっと多くの人に興味を持ってもらえるかもしれませんね。梅雨時期の今は特に売れますし」


 「暑さにも寒さにも強くて、育てやすい植物だからね。土の成分で花の色が変わるのも面白いし」


 アジサイは酸性の土では青系統、アルカリ性の土では赤系統の花を咲かせる性質を持っている。近年では、アジサイの花色に合わせてブレンドした専用の土まで市販されており、改良が重ねられ品種も豊富なことから、アジサイがいかに人々の関心を惹きつけ愛されてきた植物なのか大樹にも自ずと分かるような気がした。


 「大樹さん、すっかり花の知識が身についてますね」


 「花が好きな誰かさんのおかげでね」


 最後の設問を解いた陽向が、ふうと息を吐きペンを置く。


 大樹は課題にざっと目を通し、間違いがないか確認した。内容に満足し、うなずいている彼との間合いを、隣りに座っていた陽向が少しずつ詰めていく。そうして身を寄り添わせたかと思うと、大樹の腕にもたれかかった。


 甘えるような行動だ。意外に感じたが、大樹は微笑を浮かべただけで許した。


 「今日の課題、ちょっと難しかったから……疲れちゃった?」


 陽向は何も答えず、大樹の肩に頭をのせて頬をすり寄せた。手探りで陽向の指に触れると、間もなくして二人の手は重なり、繋がった。


 言葉もないまま、どれくらい寄り添っていただろう。


 「こうして勉強を教えてもらっていると、色々なことを思い出します」


 ぽつりと、寝言のように呟かれた一言は、どこか遠くから聞こえるようだった。思い出を懐かしみ、過去に思いを馳せている声。


 「どんなことを思い出すの?」


 「……大好きだった人のこと。その人に、勉強を教えてもらった時のこと」


 目を閉じ、微笑みを浮かべる様は、浅い眠りの中で楽しい夢を見て笑っている少年の寝顔、そのものだ。夢という幻の世界に、彼は今、懐かしい面影を垣間見ているのだろうか。


 どのような人物だったのか、大樹は敢えてたずねなかった。


 気にならなかった訳ではないが、たずねることで二度と触れたくない過去の記憶まで引きずり出してしまうかもしれない。陽向が悲しい思いをするような事態は避けたかった。


 だが、大樹の気遣いは空振りに終わった。過去に経験した恋について、陽向は自ら語り始めた。


 「中学三年生の夏、その人は家庭教師としてこの家に来ました。父の知人の息子さんだとかで、隣町の学校に通う大学生でした。受験を控えているのに僕の成績がよくないことを気にかけた父が雇って、しばらく家に通うことになったんです。毎日のように勉強を教えてもらっているうちに、いつの間にか……彼のことを好きになっている自分がいました。恋愛対象が男だっていうことに気がついたのは、その時です」


 「……その人とは、どうなったの?」


 「勇気を出して告白したら想いを受け入れてもらえて、密かに付き合うことになりました。付き合うって言っても、勉強の時間を少し削って二人きりの時間を過ごすくらいのものでしたけど。……それでも、僕は幸せでした。その幸せも、すぐに終わりを迎えましたが」


 どこか残念そうに嘆息する陽向へ、大樹は少々ためらいながら「どうして?」と問いかけた。黒い瞳が伏せられ、繊細なまつ毛が白い頬へわずかに影を落とした。


 「僕たちの関係が父にばれて、彼が家庭教師をくびになったからです。別れ際、玄関先でキスしているところをタイミング悪く父に見られてしまって……。父は、彼が無理やり僕に迫ったと思い込んでいるみたいでした。後から成り行きを説明したら、面食らってました。まあ、親なら当然の反応なのかもしれませんが。……で、彼とはその出来事が原因で上手くいかなくなって、秋には別れました。男の人と付き合っていたことを知られてから、父も僕を避けるようになってしまいました」


 「……」


 「我ながら、迂闊だったなと思います。もっと慎重になるべきだったと、後悔してます。どんなに慎重になっても、きっといつかは父にばれて、別れろって言われたに決まってますけど」


 自嘲気味に笑うと陽向はふいに大樹の顔を仰ぎ見、その目をじっと見つめた。見上げられているのに、大樹は何故か上から覗き込まれているような心地になった。


 また一つ、陽向が抱えているものが明らかになった。けれど、それを自ら明かして陽向は一体どうしたいのだろう。中学時代の失恋を教訓にし、「慎重に付き合いましょう」と大樹へ遠回しに告げているのか。それとも、未だ癒えない傷の痛みを紛らわせるために話しただけなのか。


 触れ合っているのに、彼の考えが読み取れない。互いの距離は近づいたはずなのに、まだ越えられない隔たりがある。


 初めて唇を重ねられた時のように身動きを取れないでいる大樹へ、陽向は静かに笑いかけた。


 「勉強を教えてもらいながら、何となく彼のことを思い出して……そして、分かったんです。大樹さんは、僕のことを気にかけてくれているんだって。だから、むやみに触ろうとしないんだって」


 「……」


 「そうなんでしょう?」


 「……、うん……」


 「やっぱり、大樹さんは優しいですね」


 そうじゃない。大樹は即座に否定した。眉間に力が入り、険しい顔をしてしまっていると自覚するも、とても笑い飛ばせる気分ではなかった。


 陽向のことを優先して考えているのは確かだ。


 けれど、自分は陽向が思うような人間ではない。陽向との間に一定の距離があることに安心し、境界線を越えまいと必死に踏みとどまっている。


 優しさの裏には、大樹の弱さが隠されていた。ガクに守られながらも誇らしげに生命を全うするアジサイの花とは、比べものにならないほど臆病で、芽吹くことすらためらってしまう。そうして開花時期を過ぎ、とうとう咲くことなく一生を終える。それが自分なのだろうと思い込み、いつしか疑うことすら忘れた。


 「違うんだ。俺はただ、怖いだけだよ。好きなのに、きみと深い関係になることを恐れて逃げてる」


 「それは……僕が男だからですか? それとも未成年だから?」


 「後者……かな」


 「けど、本当は触りたいって思ってる。ですよね」


 改めて核心を突かれ、戸惑うことしかできない。


 視線をさまよわせる大樹に対して、陽向はまっすぐに想い人を見つめた。ユリやカスミソウを思わせる白い色をした、若者らしい純真な眼差しだった。だが、まったく異なる色がその奥に秘められていることを、大樹は肌で感じ取った。


 妖艶な紫。そして、欲望と情熱の赤。その二色は何度まばたきをしても消えることなく、陽向の瞳の奥に見え隠れした。


 「大樹さんは、そのままでいい。あなたの優しいところ、僕はとても好きです。だけど僕は……やっぱり、あなたに触れたい」


 「陽向くん」


 「彼のことを思い出しているうちに、気づいたんです。大人の大樹さんができないことなら、僕がすればいいんだって。だから……これからは僕の方から、あなたに触れます。それなら、いいですよね」


 陽向は大樹の返答を待たず、その唇に口づけた。重ねては離しを繰り返しているうち、口内に陽向の舌が侵入してくる。陽向は、消極的な大樹をリードするように自ら舌を絡ませ、濃厚に、そして丹念に行為を続けた。


 風に吹かれた雨粒がガラスにぶつかる音。熱のこもった水音と弾む吐息。三つの音声が混じり合い、室内を埋め尽くしていく。


 繋いでいた手に力が加わる。そこに生じた微かな痛みで意識を浮上させた大樹は、空いている方の手で陽向の肩を軽く叩き、ようやく行為を中断させた。


 「ねえ。陽向くんは、本当に……俺でいいの?」


 弾んだ息を整えながら問うと、黒髪が傾いだ。陽向が視線のみで「今さら、何を言っているんですか」と伝えてくる。大樹が念を押して問いかけるより先に、真正面から陽向が迫り、自分よりも厚い胸板へ抱きつくと体重をのせて伸しかかった。不意を突かれたせいもあり、大樹の身体は呆気なく床に倒された。


 「僕が触れたいのは、あなただけです」


 その言葉を愛の告白だと受け取った大樹は、陽向が目の前にいるにもかかわらず顔を真っ赤に染め上げた。


 「……やっぱり可愛いですね。大樹さんは」


 無邪気な子供のように笑んでいたのも束の間、陽向は次の瞬間には成熟した大人の女性と変わらぬ艶美な微笑を浮かべてみせた。三日月のような弧を描いていた唇は、すぐさま大樹の首筋にうずめられた。


 甘い触れ合いが辿り着く先を暗示するかのように、外の雨風は次第に激しさを増していった。

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