第22話 安らぎの時間


 「陽向くんって、上手だね」


 まだ薄く色づいている頬を指先でつつきながら呟く。満ち足りているせいか、気を抜くと眠ってしまいそうだった。


 隣りに寝そべる陽向は、怪訝そうに瞬きを繰り返してから「上手って?」と問い返した。聞き返さなくとも意味は分かるはずだが……。大樹はどう答えるべきか束の間、逡巡した。


 「その、色々と……だよ。キスとか。家庭教師だった前の彼氏さんから教わったの?」


 「彼としたのはキスくらいで、あとは初めてですよ」


 「え、そうなんだ」


 「僕の技術どうこうより、むしろ大樹さんが敏感なんじゃないかと。反応よかったですし、声もたくさん出してましたよね」


 つい数分前までの自分を思い返し、大樹は改めて頬を紅潮させた。


 深い口づけを交わした後、陽向の唇は大樹の全身を愛撫した。鎖骨から胸、腹、背中に至るまで、ゆっくりと愛しむように口づけが繰り返された。やがて陽向の手は、昂って熱を持った大樹の欲望にそっと触れると、衣服を取り払い、すでに硬直しているそれを優しく握って刺激してから、自身の口元へ持っていった。大樹が制止しても行為は止まることなく、粘着質な音を立てて続けられた。


 とめどなく押し寄せる快楽によって霞みかけた意識の中、大樹は自分が発する不甲斐ない声と苦し気な呼吸音をぼんやりと聞いていた。それは信じられないほど甘く恍惚としていて、いかに身体が悦んでいるか大樹に思い知らせた。


 大樹が無意識のうちに作り出していた隔たりを、陽向は軽々と飛び越え、受け入れ、飲み下してしまった。恐れることも拒むこともせず、当然のことのように。


 「感じている時の顔、とてもよかったですよ」


 「褒められても恥ずかしいだけだから、忘れて……」


 両手で顔を覆う大樹を、陽向は心底、愛しそうに見つめた。


 「というか、俺だけ素っ裸にさせられるって、ずるくない?」


 陽向の着衣に少しも乱れがないことを大樹は不満に思い、普段より低い声を出した。行為のただ中でも陽向は必要以上に肌を晒そうとしなかった。そんな彼によってすべての衣服を脱がされた大樹にしてみれば、お互いの服装に不公平な差を感じざるを得ない。何もかも終わった今でこそ、上着とパンツという同じ格好をしているが、それでも不満は募った。


 「だって、脱いでも意味ないから。たとえ僕が何もかも脱いでいたとしても、あなたは触るのをためらったでしょうし」


 「う……。返す言葉が、見つかりません」


 「本当は、たくさん触って欲しかったけど。仕方ありませんね」


 陽向の要望に応えてやれなかった自分がひどく情けない人間のように思え、大樹は深く嘆息した。


 合わせる顔がないと、陽向がいる方とは反対側へ身体をひねって横向きに寝転がる。逃がさない、とでもいうようにすぐさま背後から手が伸ばされた。指先が背中の感触を確かめるように触れ、軽く撫でる。


 「いつまで待てばいいですか」


 「え?」


 「たとえば、僕が高校を卒業したら、触ってくれますか」


 背骨に沿ってじれったそうに指先でなぞられ、腰が小さく跳ねる。大樹は、陽向に悟られまいと平静を装った。


 「……成人にならないと、だめですか」


 「う、うーん……。それまで待てるとは思えない」


 「そうですよね、自分でも待てる気がしません」


 「いや。陽向くんじゃなくて、俺が、ね」


 「なら僕に遠慮せず、触って下さい」


 「陽向くんはよくても、だめなの。俺が」


 指の感触が消えた。背後にあるのは、大樹へ寄り添うようにして寝そべる気配と、穏やかに呼吸を繰り返す音だけ。


 わずかに語気が荒くなってしまったせいだろうか。沈黙が、いつもよりも重苦しく感じられた。


 だが身じろぎさえはばかったのは、ほんの刹那。


 先に動いたのは、陽向だった。大樹の身体を後ろから抱きしめ、猫が甘えるように額を背中にこすりつけた。大樹は逃げもせず、そのまま大人しく陽向の腕の中に収まっていた。


 「何か、あったんですか」


 わずかにくぐもった声が問うた。


 「何かって?」と大樹が問い返すと、背後が静まり返った。続きを口にする寸前でためらっているらしいと、気配のみでひしひしと伝わってくる。


 「……いえ、何でもありません」


 問いかけをなかったことにし、陽向は話題を変えた。


 「大樹さんは、初恋っておぼえてますか?」


 「初恋?」


 大樹は陽向の温もりですっかり癒されて眠くなってしまっている頭を叩き起こし、記憶を巡らせた。


 初恋と呼ばれるものを経験したのは、確か幼稚園の年長になってからだった。同じ組の女の子のことが好きで、積極的に遊びに誘っていた。当時の思い出を振り返り、その内容を苦笑いを交えて陽向へ話す。


 「遊ぼうって俺が毎日うるさく誘うから、結局は愛想をつかされちゃって。大人の口調を真似て『しつこい男の人、キライ』なんて言ってたっけ、その子。陽向くんの初恋は、いつ?」


 「僕は……、いつだろう。よくおぼえていませんが、大樹さんと同じで幼稚園に通っていた頃でしょうか」


 「なら、やっぱり同じ幼稚園に通っていた子かな」


 「……僕よりも年上の人だったと思います。どこかの道端で遊んでいるのを見かけて一目惚れしたけど、名前は知らないし顔もおぼろげにしか思い出せません。でも一つだけ、僕はその人に『ヒマワリみたいな人だな』という印象を抱いていたことは、何となくおぼえています」


 「きっと、明るくて活発な子だったんだね。友花みたいな」


 「どちらかというと、大樹さんのお母さんみたいな人、でしょうか。誰にでも分け隔てなく接して、周りにはいつもたくさん人がいて、雰囲気が華やかで……。大人しい僕とは正反対な人でしたけど、憧れてました。大樹さんとも少し違いますね」


 「もし、俺と出逢ったのと同時期に、大人になったその人が目の前に現れてたら、陽向くんは俺とその人、どっちに恋してたかな?」


 「……さあ。どっちでしょうね。想像じゃ、決められません」


 大樹は曖昧にぼかす陽向の手を自分の手で包み込んだ。本当は決まってるんじゃないの、と茶々を入れても、返ってきたのはやはり曖昧に笑う声だけだった。陽向の声は振動となって神経を伝わり、体の奥深くにまで沁み込んでいった。


 多少なりとも運動をしたせいか、身体が重い。数学の課題で頭を使った疲れも出始めているのか、抱きしめられていると一層まぶたが重くなってきた。


 「眠くなってきちゃった……」


 「僕も」


 あくびをしながら呟けば、背後にもあくびをする気配。こんなにも簡単にうつるものなのかと笑い合う。


 二人は窓際で昼寝をすることにした。陽向の提案で、仏間から座布団を持ってきて並べ、簡単な寝床をこしらえる。


 「来月のアルバイトのこと、お父さんに話した?」


 まくら代わりにした座布団に頬をうずめ、大樹はたずねた。来客用として用意されているらしい座布団は、使われた形跡がなくふかふかとしていて寝心地がいい。微かに畳の香りがした。


 隣りに寝転んだ陽向は、困ったように瞳をそらした。些細な仕草から答えを得た大樹は、申し訳なさそうにうつむく頬を手の甲で撫で「許可、もらえるといいね」と励ました。梢からも釘を刺されているので、何としても許諾を得なくてはいけないのだが、祭りまでは半月の猶予があるためか焦りは感じなかった。


 「すみません。面と向かってだと、なかなか話を切り出せなくて……」


 「気にすることないよ。渋々でも、うなずいてもらえればいいんだし」


 「大丈夫です。絶対に、うなずかせてみせます」


 珍しく強い口調で言い切ると、陽向は大樹の手を上から握った。永遠の誓いでもするような勢いと動作に、大樹は失笑した。


 「陽向くんと一緒に働けるかもしれないと思うと、お盆が待ち遠しいよ。お母さんに見せる庭も、かなり華やかになってきたし」


 大樹は頭だけを起こし、窓の外へ目をやった。


 雨の裏庭では、キンモクセイの枝葉が強風にあおられて大きく揺れていた。その下では、様々な色をつけた花が花壇の中で咲き誇り、ちらちらと花弁や葉を躍らせている。風雨にさらされていてもなお、花たちは散ることなく、しぶとく根を張り生きていた。


 三分の二は、花で埋め尽くせただろうか。


 外の植物は、あと三か月もすれば枯れてしまう。それでも陽向は、大樹の店で売れ残った苗や鉢を見つけると、迷いもせず手に取り世話を焼いた。どうしても放っておけないからと笑い、枯れると分かっていても惜しみなく愛情を注いだ。父親から小言を言われても、庭と鉢花の手入れを続けた。花が好きな自分のために、そして何より、母のために。


 半月もすれば、この家は花でいっぱいになる。陽向の母親が生きていた時のように、または、それ以上に華やかになるだろう。


 「お母さん、あの庭を見たらきっと喜ぶね」


 仏壇に置かれた写真を思い出す。涼し気なワンピースを身につけた女性が、窓の前で満ち足りた笑顔を浮かべて庭を眺めている。束の間、そんな情景が見えた。夢でもなく、幻でもなく、きっと自分たちには不可視な世界から彼女は愛する我が子を見守っている。おとぎ話めいた想像には、大樹の願いが込められていた。


 隣りで陽向が微笑み、うなずく。フレームの中で笑う母親と目元がよく似ていた。


 窓から差し込んだ微光が、二人の足先を包み込む。雨雲の切れ間からこぼれた陽光は弱々しくも温かく、まどろむ者たちを優しく夢の世界へと誘う。


 手を繋いだまま、大樹と陽向はしばし眠った。

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