第23話 落日


 待ち遠しかった日は、祭囃子とともにやって来た。


 その日の朝。町内を練り歩く神輿を見送り、徐々に遠ざかる威勢のいい掛け声を聞きながら大樹たちは出かける準備を始めていた。祭りの出店に並べる鉢を確認し、水やりをしている最中、「おはようございます」とあいさつされた。すっかり常連客となった少年の姿を店の入り口に見とめたが、喜ぶより先に大樹は驚いた。彼が朝から店へ顔を出すのは珍しかった。


 「おはよう。早いね、もう来てくれたんだ」


 祭りは旧盆の四日間に催される。初日は夜宮であり、会場に行って本格的な準備をするのは昼になってからだ。


 時計の針は九時を示している。陽向は昼過ぎから手伝いにやって来る予定だったのだが……。


 「何だか、早く目覚めてしまって……。アルバイトの時間より大分早いですけど、来ちゃいました。何か手伝えることがあればと思って」


 陽向が困ったように笑いながら言った。


 「助かるよ。でも、いいの? 夏休みなんだし、たくさん寝ないと損だよ」


 「僕は、ゆっくり眠っているくらいなら、少しでも長く……大樹さんと一緒にいたいです。その方が幸せですから」


 純朴な笑顔を目の当たりにし、見惚れるうちに大樹はジョウロの水を誤って自分の足元へ注いでしまっていた。水の冷たさに思わず悲鳴を上げると、何事かと店の奥から梢が顔を出した。


 「ちょっと、何を叫んでるの? ……って、あら陽向くんじゃない。おはよう。ずいぶんと早いのね」


 「おはようございます。今日から四日間、よろしくお願いします」


 「こちらこそ、よろしくね。ダイの頼りないとこを見つけたら、逆に助けてあげてちょうだいね。……ほら、見て陽向くん。ダイったら、さっそくやらかしてるわ」


 「ああ……。大丈夫ですか」


 「平気。だから、そんな憐れむような目で俺を見ないで……」


 祭りが近づき、期待を高める大樹は呪文のように毎日、「年上らしいかっこいいところを陽向くんへ見せたい」と繰り返し心の中で唱えていた。


 自らを鼓舞し続け、最高潮まで達しようとしていた気持ちが、しぼんでいく。大樹はタオルでズボンを拭いながら、祭りでも何か失態を犯すのでは……という漠然とした不安を募らせ始めていた。


 大樹の心配は杞憂に過ぎず、それからは何もかもが順調に進んだ。


 出店の設営準備は予定より早く終わり、祭り開始まで時間が余った。大樹は梢に許可をもらい、陽向をつれて散歩をすることにした。


 屋台の営業が始まる前の祭り会場には、祭り独特の活気や華やかさとはかけ離れた粛々とした雰囲気が漂っていた。だが、多くの作業員が真夏の太陽の下で汗を流しながら準備を進めている様子は、これから始まる催事への期待と作業員たちへの敬意を周囲の者に抱かせる。祭りで享楽や高揚感を得られるのは、手間ひまをかけ支えている者たちがいるからなのだ。


 「お祭りなんて、久し振りです」


 忙しそうに動きまわっている大人たちを眺めながら、陽向がしみじみと言った。祭り会場に出向くのは、およそ六年ぶりだという。


 「小さい頃は毎年、父とお店を見てまわりました。美味しいものを食べて、ゲームで遊んで……とても楽しかったです」


 今では会話すらまともに交わせていない父親。彼との懐かしい思い出を話す陽向の表情は、どこか淋しげだった。


 大樹は下げられた頭を一撫でし、「過去形じゃなくて」と明るい声を出した。


 「楽しかった思い出に浸るより、今を楽しもうよ。一年に一度のお祭りなんだから。屋台、あとで一緒に見てまわろう。朝から夜まで店は開けるけど、ずっと店に出てなきゃいけない訳じゃないしさ。お客さんが少ない時は、休憩がてらお祭りを見物しようよ」


 「そんなことして、大丈夫なんですか?」


 「うん。手が空いた時間は、変わりばんこにお祭りを見物するっていうルールをみんなで決めたんだ。友花なんて、最初から遊びに行くつもりで浴衣姿で接客したこともあったんだよ。花粉と土で浴衣の裾が汚れるのに、お構いなし」


 「……あはは。潔いですね、友花さんは」


 「陽向くんが助っ人に来てくれてるおかげで、あいつも今年は気兼ねなく祭りを楽しめるだろうな」


 「友花さん、お祭り楽しみにしてましたからね」


 フラワーショップ小林をおとずれるうちに、陽向は友花とも打ち解けていった。互いにあいさつを交わし合う程度の関係が、今では連絡先まで交換し、新商品が入荷する度に感想を言い合うほどの仲にまで発展している。その親しさといえば、笑い合う姿を見る都度、やはり友花は陽向に気があるのではないかと大樹に勘繰らせてしまうほどだ。


 しつこく確認してくるいとこを、友花は「というか、あたし彼氏いるから」という爆弾発言であしらい、己にかけられた疑惑を晴らした。


 一方、想いを寄せ合う二人の距離も日に日に縮まっていった。


 夏休みに入ると、陽向が店に顔を出す頻度も格段に増えた。この頃になると、休日に大樹が春日井邸へ出かけるのが、森村家の中では当たり前になっていた。家を空ける理由が「夏休みの宿題を見てあげるから」でまかり通る現状を、大樹はありがたく思った。


 実際は宿題を見る時間よりも、年下の想い人と見つめ合い、探り合い、互いの熱を発散させ合う時間の方が長かった。大樹は次第に、触って欲しいという陽向の切望を叶えてやれない自分に耐え切れなくなっていった。ある時ついに限界がきて陽向を押し倒し、彼が望むままにしようとした。しかし結局、外側の触れ合いより先に進むことはできずに月日は流れた。


 春日井邸の庭は、月日の経過とともにあでやかに彩られていった。夏休みに入ってからは毎日人の手が入れられ、陽向の宣言通り、盆がくるまでに花壇は多くの草花で飾りつけられた。やはり父親からはいい顔をされなかったようだが、母を想う子の気持ちに根負けしたのか、次第に文句を言われることもなくなっていったという。アルバイトを許してもらえたことを大樹へ報告する際、陽向は「僕の粘り勝ちです」とこれ以上ないほど清々しい笑みを浮かべてみせた。


 「有言実行、だな」


 「何か言いました?」


 「ううん。日差しが強くなってきたし、そろそろテントに戻ろうか」


 陽向は名残惜しそうに背後を振り返ってから大樹の背中を追いかけた。そこにある景色や人々の息遣いまで心に焼き付け、いつでも思い出せるようにと大切に、丁寧に胸へしまい込む。たとえ二度と思い出すことがなかったとしても、彼の心がけは美しく尊いものだった。




 祭りは連日、多くの客で賑わい笑顔と活気に満ち溢れた。


 野外テントの下で花を売る陽向の顔にも、絶えずやわらかい笑みがたたえられていた。彼の笑顔は、大樹と祭りを見てまわっている時間の中では一際きらめいた。それは夜の祭りが放つ輝きよりも、星々の瞬きよりも魅力的に、大樹の目を惹きつけた。


 好きな人のそばにいる時にのみ発揮される陽向の積極性は祭りでも発揮され、大樹を驚かせた。陽向は、射的でとったお菓子のラムネを二人で分け合いたいと言い、ラムネを一粒くわえた唇を大樹の唇に重ねた。彼はそれを、人通りの多い場所で堂々とやってのけた。口移しで与えられたラムネが、舌の上で甘くとろけ、自分の一部になる瞬間を、大樹は陽向に手を引かれながら味わった。


 一度で懲りたのか、人目のある場所で口づけられるようなことは、祭りの最終日になっても起きなかった。


 「四日間は、あっという間ですね。今夜で終わりだなんて……淋しいです」


 最終日は、昼過ぎから夕暮れ時になるまで屋台をひやかした。言葉通りの淋しげな声を聞いたのは、祭りをあらかた見終えて再び店先に立っている時だった。


 両親が祭りの見物に出かけて席を外していたため、大樹は陽向の髪を躊躇なく思いきり撫でてやることができた。かき乱されてぼさぼさになった髪形を整えながら、陽向が不服そうに年上の男を見やる。


 「淋しいのは、お祭りが終わっちゃうから? それとも、明日からはアルバイトしなくてもよくなるから?」


 陽向は熟考した上で、「どっちもです」と周囲のざわめきにかき消されそうなほど弱々しい声で答えた。


 大樹の手に頬を撫でられると、いくつもの光の粒を映し込んだ黒い瞳がすがめられた。


 「お祭り、一緒に見られて楽しかったね」


 「……はい」


 「アルバイトは、どうだった?」


 「勉強になったし、楽しかったです。とても」


 ならよかった。口の中で呟き、手を下ろす。陽向のように、街中で相手の唇を奪うほどの勇気は、大樹には出せそうもなかった。その分、自分の気持ちを素直に言葉へと変換し、伝える。


 「俺もすごく楽しかったよ。一年に一度しかない特別な四日間を、陽向くんと一緒に過ごせてよかった」


 「大樹さん……」


 「また来年も、きみと一緒にお祭りを見に来られたらいいなぁ」


 「……、それは、」


 何かに気がついた陽向が言葉を切る。彼の視線をたどった大樹は、店先に佇む一人の少女の存在に気がついた。


 少女は店の奥から注がれている視線など知らぬ存ぜぬの様子で、一心に何かを見つめていた。五歳くらいの、年端のいかない子だ。なのに、彼女のそばには大人の姿がない。


 迷子か。懸念した大樹は少女へ声をかけようとした。が、陽向の方が一足早く行動を起こした。


 「それ、面白い形でしょ」


 陽向は少女の隣りにしゃがみ込み、やわらかい態度で接した。


 「うさぎさんのお耳、はえてるの」


 「そうだね。うさぎさん、好き?」


 「うん。だっこすると、あったかくてふわふわしてるの。だから好き」


 離れた位置から成り行きを見守っていた大樹は、首をかしげた。聞こえてくる会話があまりに不可思議なものであったためだ。だが陽向は、幼い少女が言うことにも一切の疑問や戸惑いを見せずに対応している。


 大樹は店の前の掃き掃除をするふりをして、二人に近づいた。


 輝きに満ちた瞳が見つめていたのは、小柄な植物だった。大人の両手にのせても余裕がありそうな小さな鉢、そこに植えられているのはうさぎの耳によく似た形の多肉植物だ。


 「月兎耳つきとじか」


 「つきと、じ……?」


 大樹が呟いた植物名をたどたどしく繰り返し、少女は大きな瞳を瞬かせた。


 「漢字で、月のうさぎの耳って書くんだよ」


 「大樹さん。この子、まだ漢字は分からないと思います」


 「そ、そっか。……あっ、触ってみる? ふわふわしてて気持ちいいよ」


 「うさぎさん、土の中にいるの?」


 「そう。土の中に隠れて、寝てるの。だから優しく触ってね」


 陽向に促され、少女はそっとうさぎの耳の先端に触れた。小動物を扱うように、指先で恐る恐る撫でると、「ほんとだ。ふわふわだ」と顔を輝かせ再度、感触を確かめる。無垢な笑顔のおかげで、大樹は不安で張り詰めていた気持ちを和らげることができた。


 「亜耶あや!」


 鋭い声が祭りのざわめきを切り裂いた。


 声に反応を示した少女は、駆け寄ってくる人影を見つけ「ママ!」と嬉しそうに叫んだ。飛び跳ねて喜びをあらわにする娘に対し、母親と思われる女性は顔に焦燥の色を濃くはりつけていた。


 「無事でよかった。もう、心配したんだから……!」


 「ねえママ、うさぎさんだよ」


 迷子になった我が子を必死の思いで探していたのだろう。娘の身体を抱きしめる母親は半泣き状態だった。


 しかし、娘の頭の中はうさぎのことでいっぱいらしい。少女は月兎耳を指差して無邪気に笑っている。


 「小さなうさぎさんが、土の中で寝てるんだって。ね?」


 同意を求められ、大樹と陽向は母親の顔色をうかがいながらそろってうなずいた。


 「お耳だけ出して、寝てるの」


 「……ほんとね。うさぎさんのお耳だね」


 母親は泣き笑いの顔になりながらも、子供の夢を壊さないように配慮する余裕を持ち合わせていた。大樹は彼女の心を落ち着かせる手助けになればと、月兎耳の鉢を母親の前に差し出した。


 「普通のうさぎの耳よりも少し硬いですが、いい触り心地ですよ」


 「うさぎさん寝てるから、なでなでする時は優しくするの」


 「うん。起こさないように、そっとね」


 平然としている娘を見て、母親は安心したように笑い一緒にうさぎの耳をなでた。問題が解決に向かい、大樹は陽向と顔を見合わせて苦笑した。


 迷子だった少女は、母親とともに祭囃子の中へ去って行った。もう離れないようにと、二人の手はしっかりとつながれていた。




 「無事にお母さんと再会できて、よかった」


 「ええ。月兎耳も、お世話してくれる人と出逢えましたし」


 去り際、小さな手に下げられたビニール袋の中で、うさぎの耳が揺れていた。陽向による育て方のアドバイスを、少女は最後まで真剣な顔で聞いていた。


 月兎耳を撫でる優しい指先を思い出す。あの子なら大切にしてくれるだろう。


 「あの、すみません」


 親子が去って行った方とは真逆の方向から声をかけられた。


 振り向いた先に立っていたのは、若い男性だった。いつも通りに接客をしようとした大樹は、その姿を一目見た途端、動けなくなった。


 「この辺で、小さな女の子を見ませんでしたか。髪をおさげにしてて服装は、」


 「坂下さかした先生……?」


 対応しようと前に進み出た陽向が、驚きと疑問が入り混じった声を出した。相手は何かを説明するのに必死だったらしい。店員の顔など見る余裕もなかったようだが、陽向に名を呼ばれると我に返ったように瞬きをした。


 「春日井くん。どうして、ここに……」


 「お祭りの期間中、このお店でアルバイトをさせてもらっていたんです」


 「アルバイトか。そうか、きみは花が好きだったね」


 「あの、先生。もしかして五歳くらいの女の子を探してるんですか。おさげ髪で、オレンジの花柄の着物を着た」


 「娘だ、間違いない。その子、どっちへ行った?」


 「無事にお母さんと逢えて、一緒に神社の方へ歩いて行きましたよ。連絡、きてませんか」


 「……ああ。探すのに必死で気がつかなかったけど、妻から着信が入っている。見つかったんだ。よかった」


 携帯電話を確認し、男は深いため息をついた。今にも地面に崩れ落ちそうなほどに安堵している父親を見て、陽向が再び苦笑する。


 一連の出来事を、大樹は店の奥で立ちすくんだまま眺めていた。男の姿を捉えた瞬間から見開き続けている目が、熱風にさらされて痛みを訴えている。が、目をそらすという単純な動作さえ、その時の大樹には行うのが困難だった。


 息を吸って吐くことさえ、忘れてしまいそうだった。うるさいほどに響いていた祭りの喧騒や人々の笑い声が、遥か彼方へ遠ざかる。


 どうして。もう何年も、この町から離れていたはずなのに――。


 吸った酸素でむせ、激しく咳き込む。大樹は、屋台で食べたものを戻しそうになるのを必死にこらえた。


 見つかりたくない気持ちから、姿勢を低くしてその場にしゃがみ込む。


 だが無駄だった。


 「森村くん」


 茫然自失。声を聞いただけで、相手の顔から血の気が引いていく様子が手に取るように分かった。


 かくれんぼは、鬼に見つかってしまえば終わりだ。


 大樹は降参の意を示すために、身を起こした。

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