第14話 通い合うもの


 泣き止んだ陽向が最初に発したのは、謝罪の言葉だった。


 「……ごめんなさい」


 「ん、何のこと?」


 「嘘をついたことです」


 「嘘って?」


 「母に逢って行って欲しいって、言ったこと……」


 「何だ、そんなことか。全然、気にしてないよ。それに嘘のうちには入らないよ。現に今こうして、ちゃんと逢ったんだし。そうでしょ」


 口元に手を当てて鼻をぐずつかせながら、陽向は小さく「はい」と答えた。瞳はまだ潤んでいるが涙は止まっている。無意識に漏れ出た安堵の吐息を、大樹は微笑むことで誤魔化した。


 泣き止んだ陽向は、大樹を再びリビングへ通した。「お茶しかないですけど」と呟きながら、キッチンに立つ。あまり客人に慣れていないのか、大樹の「お構いなく」に戸惑いを見せたが、言葉通り、構うことなく戸棚から急須を出した。


 ソファーに腰を下ろすと、右手にある大きな窓が目についた。外の様子を眺めようとするが、室内の様子が反射して映っているせいで、上手くいかない。だが、どうやら窓の外には広い裏庭があるらしい。目を細めて見てみると、風に揺れる草の影が闇の中にぼんやりと確認できた。


 大樹は次に、台所に立つ陽向の方へ視線を移した。窓ガラスに映り込んだ半透明の陽向は、客人にお茶を出す準備をしている真っ最中だ。


 急須に茶葉を入れる手つき、視線。湯呑みに茶を注ぐ際の所作。それらを映り込みを通して見つめる。今、彼は何を考えているのだろう。心の中に降っていた雨は止み、穏やかな陽光か月光が差しているといいのだが。


 「森村さんって、」


 ふいに、映り込みの陽向が大樹の方へ視線を向けた。それは即ち、実際に陽向が大樹を見ているということだ。


 ガラス越しに目が合いそうになり、大樹はあわてて窓から顔をそむけた。


 「本当に……優しい人ですね。こんな、お店の常連でもない僕のことを気にかけてくれるし、母のことまで考えてくれて」


 「……いや、俺は優しくなんかないよ。きみのお母さんのこと何にも知らなくて、店で余計なこと言っちゃったし……」


 「ああ……。ひょっとして、気にしてたんですか?」


 「うん、ちょっと」


 くすくすと笑う声がする。二人分の湯呑みをのせた丸い盆をテーブルまで運んできた陽向は、顔に微苦笑を浮かべていた。目元は薄赤くなり、表情にはやや疲れが滲んでいるが、湯呑みを大樹の前に置く動作は安定しており乱れがない。


 「やっぱり優しいな、森村さんは」


 ひとしきり笑った後、陽向は「ほうじ茶です。冷めないうちにどうぞ」と大樹を促し、自分も湯呑みを手に取って口元へ運んだ。泣いたせいで喉が渇いていたのかもしれない、熱さに苦戦する様子を見せつつもしきりにお茶を飲んでいる。


 「ソファーに座ったら? せっかく座り心地いいんだし」


 床に座ったままの陽向を気遣い、大樹は声をかけた。


 黒い瞳が、大樹と無人のソファーの間を行ったり来たりしている。何かを言いたそうにしているようにも見え、気になった大樹はもう一度声をかけた。


 「どうしたの?」


 「……あの、隣りに座っても……いいですか」


 「へ?」


 問いかけの内容は思いがけないものだった。


 間の抜けた声を出してしまった大樹は、それに対する羞恥と、直後に自分が口にした答えがおかしなものになってしまったことに顔を赤らめた。


 「う、うん。どうぞ。って俺が言うのもおかしいよね、きみの家のソファーなのに」


 大樹が隅の方へ逃げるように移動するのを見て、陽向はまたも苦笑しながら「じゃあ、失礼します」と言い、自らも隅の方へ座った。


 同じソファーに腰かけている二人の間には、肩を寄せ合えばさらに二人は座れるくらいの空きスペースができている。大樹は、たった今できあがったその空間を、一方では心地いいと感じ、もう一方では苦痛にも感じた。


 せめて、もう一人分だけでも近づきたい――。


 窓ガラスの上を、幾筋もの雨が滑り落ちていく。その様を眺めながら思う。滑らかな動きは、まるで透明な肌を繊細な指先が撫でているようだった。


 「父は、」


 おもむろに、陽向が話し始めた。静けさの中、彼の穏やかな声が微かに反響する。雨音のように心地よく、風のようにささやかな声だ。


 「母のことを深く愛していました。……いえ、森村さんの言葉を借りれば父の愛は今も変わらず生きているんです。どんなに忙しくても、母の月命日には必ず帰って来るし、お彼岸のお墓参りも欠かしたことがありません。でも多分、愛しているからこそ……つらくなる瞬間があるんだと思います」


 陽向は、隣りに座る大樹には目を向けず、また大樹がどこに意識を向けているかなども気にせずに話を続けた。


 「この家には前庭も裏庭もあって、花が好きだった母は生前、両方の庭にたくさんの植物を植えて園芸を楽しんでいたそうです。うっすらとですが、小さい頃、母と一緒に花の苗を植えた記憶があります。……だけど、母が亡くなってからは誰も庭の手入れをしなくなって、今では荒れ放題になってしまっていて……」


 「……春日井くんも手入れをしないの?」


 「父が、許してくれないんです。母のことを思い出すから、もう庭に花は植えるなって言って」


 だから、庭の花の代わりになればと思い仏壇の周りに鉢花を置いているのだと、陽向は言う。一時期は、その行いでさえも父親はよしとせず小言を食らう羽目になったが、反論してなんとか現状に留めているらしい。父親が妻を想うのと同じくらいに母を想っている陽向にとって、それだけは譲れなかったのだろう。


 大樹は隣室の畳上に並べられた花々を思い出す。どの鉢もしっかりと手入れが行き届いていた。仏壇の手入れと同じく陽向が毎日、欠かさず世話をしている証拠だ。


 愛の深さ故に亡き人が好きだったものを遠ざけた父親と、愛しているからこそ亡き人が好きだったものへも愛情を注ぐ息子。親子の間には気持ちの行き違いが生じてしまっているのだ。そのことを、大樹は心の底から切ないと感じた。


 だが、切ないままで終わらせていていいのかとも思う。


 「植えようよ、花」


 隣りでうつむいていた陽向が、顔を上げる気配がした。急に、何を言い出すのかと驚いているに違いない。そんな確信めいた直感があってもなお、大樹は構わず続ける。


 「だって、春日井くんのお母さんは花が好きなんでしょ。それなら、楽しい時間を過ごしたこの家も花でいっぱいにしてあげた方がいいんじゃないかな。つらいからって目を背けても、ずっと背けたままでいられる訳じゃないし、お母さんだって淋しいと思うから」


 「でも、父が許してくれるとは……思えません」


 「忙しくて、あまり家に帰って来られないんだよね。だったら、目につきにくい場所に少しずつ花を植えていって、増やしていったらどうかな。もしお父さんが気がついたとしても『鉢で育てていた花が大きくなって、窮屈そうだったから植え替えた』って言えばいい。その理由なら、お父さんもきっと強くは言えないよ」


 「……そっか。植え替えを理由にするんですね」


 「やっぱり厳しい、かな……?」


 お節介だったかもしれないと、隣りの横顔をちらりと窺う。


 「いえ、いい考えだと思います」


 いつもの涼し気な表情に、わずかながら笑みが含まれていることを知ると、大樹はほっと胸を撫で下ろし、息を大きく吐き出した。答えを待っている間、緊張から呼吸することすら忘れていたのだ。


 が、安定しかけた呼吸は、またすぐに調子を乱すことになる。


 「さっそく、やってみます。ありがとうございます、森村さん」


 「……」


 「……森村さん?」


 リビングには花がない。なのに、大樹は大輪の花が満開を迎えた瞬間を目の当たりにしたような錯覚をおぼえた。


 もう一度見たいと乞い願い、夢の中で幻想を見るほどに焦がれた陽向の笑顔が今、目の前にある。真夏の太陽の下、燦然さんぜんと咲くヒマワリのように華やかで、温かみのある笑顔だ。


 「陽向くん」


 花びらの先に触れるような思いで、名前を呼ぶ。


 笑顔が驚きに変わる。心なしか、血色がよくなったようだ。視線を黒い瞳にじっと据えると、意外にも見つめ返してきた。


 どこかでおぼえた「当たって砕けろ」という言葉を思い出していた。


 砕けてもいい。散ってもいい。それでも伝えたい――。


 「俺……、きみのことが好き」


 「森村さん」


 好きな人の声で名を呼ばれ、大樹はそこで我に返った。


 息が苦しいことにやっと気がつく。場の勢いで想いを告げてしまったことを恥じ、激しく悔いた。


 「ご、ごめん。おかしなこと言ってるって、分かってる。分かってるはず、なんだけど……なんか、溢れて、止められなくなっちゃって」


 「あの……森村さん、」


 「すごく場違いなことしてるよね、俺。こんな時に何考えてんのかな。おかしいよね。ほんとにごめん、今の忘れて」


 「忘れません。だって僕も、」


 取り繕うことに必死で、いつの間にかそらしていた視線が陽向のものとぶつかる。


 黒い瞳が熱っぽく潤んでいた。大樹を視界に捉えた途端わずかにすがめられたが、眼差しはもう余所よそに向けられなかった。大樹はそこに、朝露に濡れた花のきらめきを見たような気がした。


 「僕も好きです。……大樹さんのこと」


 光をたたえた水の粒が、花びらから滑り落ちて大樹の額に当たった。その衝撃に、彼はたまらず驚きの声を上げた。


 満開だった花が、今度は恥ずかしそうに花びらをしぼませた。

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