第13話 涙雨
「……、……お願いします」
消え入りそうな声だったが、それでも陽向は場所を退くことで赦した。
改めて仏前に座り直し、居住まいを正す。供えものの傍らにひっそりと置かれた写真立ての中には、若い女性を被写体にした写真が入っていた。夏の海で撮られたものらしく、ワンピース姿の彼女は波打ち際に立ちカメラの方へ楽し気な笑みを向けている。夏の風景と女性が放つきらめきを鮮やかに切り取った一枚で、朗らかな笑い声と、波の音、潮の薫りまで漂ってきそうだ。
「いい写真だね。お母さん、素敵な笑顔をしてる」
線香を供え終え、大樹は写真を眺めながら言った。脇に控えている陽向は何も言わず、写真立ての方を静かに見つめていた。
「花が好きな人、なんだよね。写真を見ただけだけど……何というか、品があって優しそうな人だって分かるよ」
「花にも、人にも優しい人……だったと思います。でも恥ずかしがり屋で人前は苦手だったみたいで、写真も、母が一人きりで写っているのはこの一枚だけなんです。あとは家族三人で写ったものが少しと、小さかった僕と一緒に撮ったものばかりで……」
「お母さん、愛してたんだね。きみのこと」
いや、違うなと思い直す。過去形で言うべきではなかったという後悔とともに、大樹の脳裏をある短い一文がよぎった。
「あのさ、花言葉って知ってる?」
「花言葉? 聞いたことはありますけど、詳しくは……」
「そうだよね。俺も少し前まではよく知らなかったんだけど、きみにアドバイスをもらってから花について勉強するようになってさ、ネットで花のことを色々と調べてた時に花言葉っていうものがあるって知ったんだ。母の日で忙しくなる直前で、ちょうどカーネーションについて調べてた時だったから、俺が最初に知ったのはカーネーションの花言葉なんだけど」
花には、その種類によって様々な花言葉が存在する。最も代表的なのは、赤いバラの花言葉である「愛情」や「情熱」だ。大樹も映画やドラマのワンシーンで、男性が女性へ赤いバラの花束を渡して愛を伝える演出を見たことがあった。後に赤いバラが持つ花言葉を知り、そういうことかと妙に納得したものだ。
「花言葉って、花の色によってもちょっとずつ意味が違うんだ。母の日によく使われる赤いカーネーションは『母への愛』で、ピンクは『感謝』、黄色は『軽蔑』なんだってさ」
「へぇ……。じゃあ、白は?」
少し興味を惹かれたらしく、陽向がたずねてくる。視線は、愛する人の傍に飾られた白い花の方へ向けられていた。フリルのような見た目をした花は、目覚めることのない眠りについた女性が持つ優し気な雰囲気とよく似ていた。
あなたの息子さんは、きっとあなたに似てとても優しい子に育ちましたよ。
大樹はフレームの向こう側の笑顔に向かって視線のみで語りかけた。伝わればいいなと、心を込めて。
「白いカーネーションの花言葉は『純粋な愛』、そして『私の愛は生きている』……」
「私の愛は、……生きている」
「きみのお母さんへの愛、そしてお母さんからきみへの愛は、ちゃんと生きてるって俺は思うよ。今までも、これからもきっと」
そう、過去などではない。母は今でも息子を愛している。
生きていた時に抱いていた愛情は、死後も変わることなくこの世に残り、愛する者の中で生き続けるのだ。
「逢えなくても、想いは届くんだ。お母さんが好きな花の香りと一緒に」
丸く見開かれた陽向の双眸から、透明な雫がポロリと零れ落ちた。雨粒に似たそれは、薄く紅潮した頬の上を音もなしに伝っていく。うめき声にも似た嗚咽が一つ上がった途端、まるで均衡を失ったかのように表情を歪ませて陽向は泣き出した。
本当に知るべきだったのだろうか。
先ほど思い浮かんだ疑問に、大樹は結論を出す。
――よかったんだ、これで。どんなに強い痛みを伴う過去でも、彼が身を置く温かみも優しさも足りない
胸の内でしっかりと確認してから、大樹はそっと黒髪に触れ、撫でた。
今の自分にできることは、この小さな雨が降り止むのを見守ること。雨の後には美しい虹が現れると誰もが知っていて、空を見上げる。たとえ期待外れに終わろうとも、人は懲りずに雨上がりの空を見上げるのだろう。
そこに、自分にはない
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます